(6) 真実と嘘
***
2週間後。
特に何かが変わったというわけではないが彼女と気持ち的に近づいている気がしていた。
僕は鉛色の空に深いため息を吐いた。
今、店の入口で雨宿りをしている。強い風が吹きつけていた。
あの出来事から雨が嫌になっていた。なのに今日は曇りだから大丈夫という浅はかな考えで出かけた自分に劣等感さえ抱く。台風が近いと彼女が言ってくれていたのに。
その雨のせいか今日は胸がざわめいていた。早めに帰ろう。
ぼっと柱を伝う雨を見ていたらどこかからか聞こえてきた。
「あ~あ、雨なんて最悪だ」
「なんで? 良いじゃん」
「どこが? 濡れるし寒いし」
「そういうことじゃなくて、ずっと上の方から数えきれないほどの水が落ちてくるって不思議で面白いじゃん。雨が地面に落ちる音も心地良いし」
「そんな風に考えられるの羨ましい」
「そう? 何事も良い方に考えなきゃ」
若い男女の何気ない会話だった。
そんな話を横目に空を見上げているといつの間にか雨は弱まり止んでいた。
店の中の時計を見ると十六時四十五分だった。
そういえば今日は土曜日だから彼女が早く帰ってくる日だ。だから帰ったら録画した映画を見ようと約束したんだった。
早歩きで帰った。いつもは二十分で着くから五時を過ぎたぐらいにはアパートの駐車場に難なくつけた。多分もう帰ってきているはずだ。
駐車場にいつもは無い赤色の軽自動車が停めてあった。
新しい人でも引っ越してきたのかな。
階段を上ると彼女の部屋の前に男性が立っていた。玄関先で彼女と話しているようだった。
誰だろう。スーツを着ているから会社の同僚かな。と思ってそんなに驚かず気にも留めないで歩いた。
「だから、お願いだって!」
急に大きな怒鳴り声に似た声が聞こえた。
「嫌だって!」
彼女の叫び声が聞こえた。
その聞き慣れない声に一目散に彼女の所に駆けて行く。
見ると男性は全開に開いているドアノブに手をかけて閉められないようにしながら対面していた。男性の様子からして相当焦っているようだった。
彼女は玄関の段差の上にいた。
「雫さん! 大丈夫!?」
と声を張り上げて叫んだ。
男性をすり抜けて家の中に入った。
彼女は驚いたように僕を見た。
「大丈夫だからあっち行ってて」
と突き放された。いつもの優しい感じではなく怒りが滲んでいた。
心配だったが僕が介入してはいけないと分かったので玄関を出て彼女からは見えないドアの陰に隠れて見守った。
「誰と喋ってんの?」
「関係ないでしょ!」
こんなに怒っている雫さんは初めてだった。しかも穏やかそうな彼女が。これはただ事ではないと感じていた。
男性も誰なのかは分からないが彼女が嫌がってるのには違いない。
心の底から彼女を守らなければ、と思った。
でも、どうやって?
男性に触れられないんじゃ引っ張ることもできない。ドアを閉めることも仲介に入ることもできない。
彼女を引っ張って逃げることはできるがそれじゃ何も解決しないしさらに悪化させる危険性だってある。
僕は何もできないのか。幽霊なのに。
自然と男性に対する感情が嫌悪感と憎悪に変わっていた。
「なんで無理なんだよ!」
相当怒っている様子だった。男性の身長はそこそこ高いくらいで体格も標準くらいで細くもがっちりもしていなかった。しかし凄い剣幕で僕は押されていた。
「なんでって……今更でしょ! なん…で……今なの!」
彼女は怒ってはいるがそれと同時に苦しそうで辛そうでもあった。
「しょうがないだろ! こっちだって色々あったんだし!」
「もう帰ってよ! お願いだから」
「ふざけんな! せっかく来たのによ!」
彼女の切実な願いは通らず男性は逆切れしていた。まずい展開になりそうだった。
「雫さん! 大丈夫ですか?」
彼女に何度も問いかけたが聞いているのか聞こえていないのか分からないが答えなかった。
「あー! もう! 来いよ!」
男性はそう言って二歩進み彼女の腕を掴もうとした。
彼女は男性が進んできたと同時に後ずさった。
「い、嫌! 止めて! ねえ!」
「雫!!」
気づいたら大声で叫んでいた。
何度男性を止めようとしても手が透けて駄目だった。
僕は……。
「雫!!!! 逃げて!!」
僕は……何もできないのか?
男性の手が雫の腕に伸びる。
もう駄目だ。そう思った時だった。
男性の手が雫の腕に触れる瞬間、ピタッと男性の手が止まった。
躊躇した? でもそんな風には見えない。
彼女も驚いて硬直していた。
「あ―!! 頭痛て!! くそ!!」
そう言ってふらつき靴箱にもたれかかった。
え? なんで?
状況が呑み込めなかった。
それは彼女も同じらしかったが口を真っ先に開いた。
「出てって!!」
それに気圧されるかのように男性はのろのろと出て行った。
一応戻ってこないか心配だったから玄関の外に出て階段を降りて行くのを確認した。
部屋に戻ろうとしたら玄関のドアをバタンと閉められてしまった。
もちろん幽霊だから玄関のドアなんて関係ないわけだが多分これは入らないで! ということなんだろうと察した。
僕はドアにもたれかかった。
彼女の泣き声と嗚咽が聞こえてきた。
多分彼女はすぐ後ろにいる。
ただひたすら泣き続けていた。
僕は何もできずにいた。
周りは茜色に変わり烏が鳴いていた。
空を見ると鉛色から淡い水色と赤色が広がっていた。
次第に遠くの空から淡い藍色が入り込み街路灯がつき始めていた。やや欠けている月が主張し始めていた。
静かだった。彼女の声はいつの間にか聞こえなくなっていた。
後ろで物音がしてガチャっとドアが開く音がした。
僕は慌ててドアから離れた。
泣き疲れた彼女が現れた。
彼女の目は赤く腫れ頬には涙の痕がついていた。
「……ごめんね」
弱弱しい声で漏らした。その声はもはやいつもの彼女ではなかった。
「うん」
としか言えなかった。
「……入って」
彼女は重い足取りでソファーに座り込む。
僕もそっと座る。
彼女は何も話さなかった。
無音の時間が続いた。
部屋の電気は点いてなかった。
彼女はそれに気付いたようで電気を点け座った。
「……えっと……まず、ごめんね」
「ううん。こちらこそ勝手に口出ししてごめん」
「ううん。……謝らないで、悪いのは全部私だから」
「え?」
全部、という言葉が引っかかった。
彼女は深呼吸をしてから言った。
「……ごめんね。……私……れいに……うそついてた」
「え? それは……どういう……」
何を言おうとしてるのか全く分からなかった。
「……怒るかも…しれない…でも…最後まで聞いてほしい」
彼女は申しわけなさそうに肩を縮ませていた。
「怒るなんて、そんな……」
「……れいは何も聞かないんだね」
「え?」
「さっきの人はだれ? とかなんでこうなったの? とか」
「あ、ああ、ごめん」
「……ううん、責めているんじゃないの。ただ、れいは優しいなって。だから……だからこそ……申しわけなくて……」
彼女の声は今にも消えてしまうんじゃないかと思うほど細く掠れた声だった。
「……」
なんて返したらいいか分からなかった。
また深呼吸をして言った。
「実はね……さっきの人……彼氏なんだ」
「え?」
う、うそ、でしょ?
僕がどんな顔をしていたか分からない。
彼女は僕の顔を見ていたが耐えきれなくなったのか顔を伏せてしまった。
「え? だって……亡くなったって」
「……うん……それが……」
「うそ?」
「……うん」
彼女の顔が曇っていく。
でも僕には彼女を責めることなんてできなかった。
彼女は命の恩人と言ってもいい。彼女がいなかったら僕は天涯孤独だっただろうから。しかも色々教えてくれた。優しい彼女。
「……責めないの?」
「僕には無理だよ。雫さんを責めるなんて」
「……っつ。ご……めんね」
そう言って一粒一粒頬を伝っていく。
慌ててティッシュを掴み彼女に渡した。
こくっと頭を下げ受け取った。
少し間を置いてから彼女が口を開いた。
「……ごめんね。……今度はちゃんと……一から話してもいいかな」
「うん」
「……ありがとう」
大きく息を吸い吐いて間を置いてからゆっくりと話し始めた。
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