(4) 信じられないもの
***
一週間後。
特に変わったこともなく彼女が仕事に行っている間は街中をぶらぶらしていた。彼女に仕事には来ないでと言われたから仕方なく暇を潰すためだった。
今日も不安定な天気でさっきから雨が降ったり止んだりを繰り返していた。ここ数日はずっとぐずついた天気で、上を見るとどす黒い雲が街を覆っていた。
いつも通り歩いていたら何か黒い物が横切った。その方向を見ると微かではあるが黒い煙が飛行機が通った後の雲みたいに一本細長く遠くまで続いていた。
一般人には見えていないのか気にも留めず歩いていた。
その黒い煙は僕のもやもやに似ていた。
好奇心からその黒い煙を追うことにした。
追ってからどのくらい経っただろう。
街並みを少し外れた人気が余りなさそうな所に来ていた。周りは民家やビルが並んでいたが静かで気味が悪かった。
しかもまた雨が降り出してきていた。でも感覚がないから冷たくも寒くも感じなかった。
古びた塀を曲がるとその黒い煙が途切れた。開けた視界の中に飛び込んできたのは5階建てぐらいの少し大きな古びたビルだった。周りを見ると空き地と寂れた民家しかなかった。
目の前に看板があった。もう何十年も前のものだろう。所々ペンキが剥がれ落ち酸化し錆びている看板だった。かろうじて読めたのは「株式会社」くらいでその前の文字は読めなくなっていた。
上を見ると黒い煙が宙に浮いて漂っていた。
そのビルの屋上に人影が見えた。
三、四歩下がって見るとはっきり見えた。太陽が雲に隠れていて余り見えないが明らかに人型だった。
ずっとその人――と思われる――は突っ立って下を向いていた。
その屋上に元々は柵があったのか少しコンクリートの段差ができていた。視線を下に戻しよく周りを見てみると錆びて破れかけた柵があちらこちらに転がっていた。
もう一度上を見上げる。やはり怪しいことこの上ない。普通はこんな所に来ないしましてや一人なんて。もしかしたら幽霊なんじゃないかと思った。しかし、ちょうどその時、運がいいのか一瞬、ほんの一瞬だけ雨が降り続ける分厚い雲の隙間から太陽の光が一筋射し、周りの景色が少し浮かび上がった。身体はしっかりあるし微かに見える手も生きている人みたいだった。さらにその人は紺色のスーツを着ているみたいだった。それか黒い煙と見間違えたのかもしれないが。もっと近くに寄れば分かるのだろうけど。そう思いビルの入口に近づいた。古いくせに硬い扉で閉ざされていた。当然の如く鍵がかかっていた。けれど一階の窓は割れていて何か登れそうな台があれば入れるだろう。ただ得も言われぬ恐怖が襲ってきて中には入れそうになかった。精神的にくるものだった。もう死んでいる……はず……なのに、そこに入ればもう一回死ぬ、そう感じる何かがビルの中にはあった。きっと理屈ではない、なにか。
すごすごと諦めて元の立ち位置に戻ってきた。
もう一度あの人を見てみる。やはり生きていると断言するしかないと思う。一瞬の内ではあったけれど、確かに見えたのだ。
でも、生きている人だとしたらあの黒い煙の説明がつかなかった。あれは僕のと似ていた。幽霊でもなさそうなのになぜなんだろう。もしかして生霊ってやつなのか。いや、でもそれも幽霊か。ならなんだ?
その時嫌な想像が頭を過った、が、すぐに打ち消した。
一向に状況が分からないままだから一塁の望みをかけ声をかけることにした。
でも、何度呼んでも反応がなかった。地面を叩きつける雨音が邪魔しているのかと思い大声で叫んでも変わらなかった。
成す術もなくそのまま見ていることしかできなかった。
どのくらい経っただろう。雨足は強くなる一方だった。
その人が少し動いた気がした。でもすぐに動かなくなった。
さっきから頭の中で考えているけれど答えは出なかった。
いや、出したくなかった。
どうしても嫌な考えがちらついてくる。
もしかしたらドッキリかも。動画撮ってインターネットにあげるのかも。本当は後ろに友達がいるのではないか。
と前向きな考えを出しては自分を納得させていた。
ふとその人が動き、片足を段差にかけた。ゆっくりと。ゆっくりと。
遅いけれど流れるような動作に見えた。
雨はどしゃ降りになっていて雨水が波打って聞こえた。でもなぜかその雨もゆっくりと落ちてくるように見えた。
もう片方の足ものせる。
もうその人の下には硬く冷たいコンクリートしかない。一歩踏み出せば……。
ドラマの中みたいだった。
いや、みたい、ではなくそうだ。
これはドラマだ。夢だ。妄想だ。
だよね?
その人がゆらりと揺れた。かと思うと視界からふっと消えた。
うそだ。
そんなわけ……。
だって……そうでしょ。
ねえ?
頭の中は真っ白になってこんがらがっていた。
拳に自然と力が入っていた。
僕は消えた視界から次どこに視線を移すべきなのか分かっていた。なのにできなかった。
視線が雨が降りしきる屋上から釘付けになっていて動けない。
槍と化した豪雨は激しく地面を貫くように叩きつけていた。
ドンっと冷たくて冷酷な鈍い音はその轟音の中へと吸い込まれていった。
肺が苦しかった。
全身が悲鳴をあげていた。
気がつくと僕は走っていた。一心不乱に。
意識を取り戻してからすぐに、走っている自分の身体を止めた。
なぜか呼吸が乱れ息切れが激しかった。幽霊なのに。体力なんてないはずなのに。
少し落ち着き深呼吸をした。
周りには民家しかなくあのビルは近くになかった。
さっきまでのことは夢かと思ったが脳裏にあの人とあの鈍い音がしっかりと焼き付いていた。
しかも手が痛かった。爪が刺さり血が垂れていた。
やはり現実だった。
あの後のことは覚えていない。多分本能的に身体が動いてあの場から逃げたのだろう。
全てが現実だとしたら、あの人は――あの人は自殺したんじゃないだろうか。
それしか考えられなかった。
そう思うと一気に恐怖感が襲ってきた。
怖かった。恐くて怖くて堪らなかった。
思考を止めたかったが考えてしまう。
幽霊なのに恐れていた。
死というものを。怨念とかそういう禍々しいものを。
おかしくなりそうだった。
でも落下する所も見ていない。だからただ後ろに下がっただけだと前向きにしようとするがあの鈍い音の説明がつかなくなりその考えはあっさりと切り捨てられた。
今来た道を戻って確認することも考えたがその勇気は僕にはなかった。
雨は弱まり小雨に変わっていた。
近くで車の音と人の歩く音がするから人通りが多い場所の付近まで来ていることが分かった。
僕はまたとぼとぼと歩き出した。
頭の中はあの出来事でいっぱいいっぱいだった。
中でも疑問に残るのはあの黒い煙の正体だった。煙を追って行ったらあの人が飛び降りた。
幽霊でもなく生きた人。
もしかしたら……。だとしたらあの時のあれは……。
色々と考えている内に商店街の入り口に来ていた。
少し安堵しながら彼女のアパートへと帰路についた。
アパートにつくと彼女がすでに帰ってきていた。
遅かったねと言われて、うん、ちょっとねとしか返せなかった。まだ頭の整理がついていないし信じてもらえるか分からないし何より彼女に変に気を遣わせたくないから。だから心の底に追いやることにした。
時刻は十九時二十三分を指していた。
丸一日かかっていたことに驚いた。
その日は元気がない僕を気遣ってくれてか余り話さなかった。そして時折心配してくれた。
彼女に感謝しながら大丈夫だよとできるだけ明るく返した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます