(3) 不思議な人

         ***

 その人の家は堤防から十分か十五分ほどの少し遠い所にあり、若干年季が入った二階建てのアパートだった。促されるままに階段を上がって左から三番目の部屋に入った。

 その人の姿が初めて露になった。すらっとしていて少し身長が高めの女性でブラウンの髪を肩まで伸ばしていた。年齢は二十代前半ぐらいだろうか。容姿に関してはよく分からないが小顔の部類に入ると思う。なぜか余り容貌については触れたくないと感じたから、ここら辺で観察するのはやめておいた。

 その人――彼女にクッションに座るよう促された。周りを見渡すと棚や机、テレビ、ソファーぐらいしか物が置かれておらず、とてもひっそりとしていた。部屋の隅には段ボール箱が四箱積まれていた。

 引っ越したばかりなのだろうか。

 彼女は相変わらず僕を凝視し続けている。

「やっぱりおかしいよね。黒いもやもやした物が身体を覆っているって」

「はい……」

「身体って実体があるの? 触れるの?」

「いや、多分無理だと思います。透けて無理でした」

「へぇ~。試しに」

 そう言うと彼女は僕に手を伸ばした。無理だと分かっていながら反射的に身構えてしまう。

「ひゃっ」

 驚いたことに透けずに彼女の手は僕の腕を掴んでいた。掴むことができないと高を括っていたからか、人に肌を触られることに強く抵抗があったのか、分からないが、どちらにせよ、今までにないくらいひどく身体がビクッと跳ね、情けない声が漏れた。

「ふふ。掴めるじゃん」

 わけが分からなかった。どうして透けないのだろう。

「面白いね、君」

 恐がることなく、逆に僕の反応を見てケラケラ笑って面白がる彼女はどこか不思議だった。というか恐怖すら感じてくる。

「あ、あの、あなたは……一体何者ですか?」

「え、何者って……普通の人間だよ。あ、そゆこと。自己紹介まだだったね」

「あ、はい」

「私は森花もりはな しずくです。よろしくね」

「はい。雫さん、よろしくお願いします」

「で、君は?」

「えっと、僕は分からないんです。その、記憶がないというか」

「あ、そうなの?」

「はい」

「名前も?」

「全く」

「う~ん、困ったね。名前なんて呼ぼうか」

「あ、なんでもいいです」

「そう? う~ん。幽霊、霊……。あ、「れい」はどう?」

「はい、いいと思います。ありがとうございます」

「いや、安直すぎたかな? まあ、それでいいならよろしくね、れい」

「はい、お願いします」

 僕は「れい」か。良いな。

「記憶戻るといいね」

「はい」

「もっと色々聞きたいけど明日仕事あるから明日でいいかな」

「あ、大丈夫です」

 そっか。仕事があるのか。時計を見ると午前一時を指していた。

「えっと、どこで寝る? 布団が一つしかないんだけど」

「あ、僕、眠くないので大丈夫です。幽霊は寝ないんだと思います」

「へぇ~。……まあ、でも座り続けるのも疲れると思うから、そこにでも寝転がってなよ」

 そう言って二人用のソファーを指さす。

「はい。ありがとうございます」

「じゃあ、私はお風呂入ってくるから」

 そう言って戸の前に立って少し引っ込んだ取ってに手をかけた時だった。急に何かを思い出したように振り返って――

「そういえば……れいはその「はい」って言うの癖なの?」

「えっ」

 言われて初めて自分が「はい」を多用していたことに気づいた。なんでだろう。記憶がなくなる前は「はいはい」言い続けていたのだろうか。それを加味しても全く自分のことに関して思い浮かばなかった。

「癖……みたいですね」

「……そうなんだ」

 そう言って彼女は何かを考える仕草をした後、「じゃあ、入ってくるから適当にくつろいでて」と言って浴室への戸を閉めた。

 ――本当に急展開すぎて頭が追いつかなくなる。

 でも雫さんが優しそうで本当に良かった。幽霊の僕が見えて触れることができるってどういうことなんだろう。

 そんなことを考えていたら彼女が出てきた。もう三十分以上考えていたらしい。無言で突っ立っていた僕に彼女は目を丸くしていた。それから彼女は色々準備をしてから布団を敷いて就寝した。

 僕はソファーに座って今日のことをゆっくりと整理していた。


 翌日、彼女は朝早く、八時三十分ぐらいに家を出て行った。

 何もすることがなく暇を持て余していた僕はこの街を散策することにした。

 このアパートは街並みから少し外れた所にあるらしい。

 少し歩くと色々な店が立ち並ぶ商店街が見えた。珍しいことに、かなり人が多く、過疎化はしていないらしい。

 電気屋のテレビからニュースが聞こえてきた。

 今日は四月十六日金曜日らしい。

 ただ何も触れられないからふらふらと周辺を歩いて日が暮れるとアパートに戻った。少し経った十七時三十分に彼女が帰ってきた。

 彼女がひと段落すると彼女自身の話をしてくれた。

 彼女は四年間情報系の仕事に勤めているらしい。詳しいことは専門用語が多すぎてよく分からなかった。

 趣味は本を読むことだと言っていたがその本が見当たらないので不思議に思った。でも、彼女なりの事情があると思ったから聞くのはやめにした。それに、まだ段ボール箱の中に入っているのかもしれない。でも、なんで早く段ボール箱から出さないのだろう。これも聞かないけど。人には人のペースというものがあるだろうし。

 彼女の話はそれぐらいで僕の話に移った。

 僕は堤防で起きたことや駅前のことなど、今分かっていることを全て話した。

「へぇ~。でもいつから幽霊になったんだろうね」

「分からないです」

「もしかしたら元からとか」

「あ……でもある程度の知識はあるからそれはないかも……しれません」

「確かに。でも自分のことは分からないのにそういうことは覚えているって不思議だよね」

 話していても、結局「よく分からない」という結論に至ることが多かった。全部憶測の域を出ないのだから当然だ。でも――

「なんで透けるのに今座れてるの?」

 ふと彼女が最もな疑問を口にした。

「もしかしたらそういう生きていく上で必要なことは上手くできるようになっているのかもしれないです」

「うーん、そうかな。多分座れると思い込んだから、とか?」

 と一番ありえそうな答えも出してくれた。

 そしてすぐに午前一時になり昨日と同じく僕はソファーで今日のことを整理しつつ疑問に思っていることについて考えていた。

 彼女はなんで僕を家に置いてくれるのか。僕は何者なのか。

 だが、ずっと考えても答えは出るはずもなかった。

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