オクトとシランの決着

屋敷の屋根まで逃げ回るシランの背に、オクトはランタナの剣先を伸ばして制した。彼の傍には、逃亡用に地面から降りる縄と、彼の母デルフィがいる。どこもかしこも戦闘で、降りる場所がないのだろう。

「今更なんだい。腰抜け」

 デルフィが啖呵を切るが、オクトはぶれなかった。シランが焦りで流れる汗を拭く。二人の距離は二メートルほどだった。

「貴方もです。デルフィ婦人。盗賊を囲って町を襲わせるなんて、あってはならない」

「はっ。証拠でもあるのかしら。不名誉よ。さっさと殺してしまいなさい」

 彼女が息子の肩を叩くが、彼も彼なりに迷っているのだろう。婦人は舌打ちし、逃亡用の荷物の中から銅剣を構えた。

「何を」

「私はね、宮廷剣技が得意だったんだよ。でも、女には似つかわしくない趣味だってお父様に辞めさせられたわ。クラズのようにおしとやかに生きなさいってね」

 名の通り宮廷で習う、作法用の貴族の嗜みだ。限られた裕福なものにしか許されていない。

「なんで貴方が宮廷剣技なんか」

「自分の出生も分からず死ぬなんて、可哀そうね」

 デルフィは脇を締めて剣を構える。そして、片足を前にして剣を突き出した。オクトから見れば剣先が急に距離が縮まり、動揺する。その隙をついて、デルフィは体を前のめりにしてオクトに迫る。

 オクトは躱しながら後ずさる。デルフィは勝利を確信して半歩大きく前に出た、その瞬間を見計らってオクトは大袈裟に体を引く。追随した彼女は足元をすくわれ、そのまま屋根を転がって庭の木に落下した。

「次はお前だ。構えろ」

 シランは青白い顔だが、たまらず荷物から銅剣を構える。オクトは宮廷剣技なんてものは習ったこともない。だが、実践の見本として観察していた人間はいた。ずっと、足の先から指の位置まで正確に、日が暮れるまで見ていた憧れの騎士。

「はあ、くそ、震えが」

 シランの手が震えていた。同情はなかったが、これまでの思い出はあった。

「相手の額を見ろ。呼吸を整えて、そう、構えて」

 彼は兄と慕った男の言葉を耳に刻み、銅剣を構えた。オクトという男は、こんなにもたくましい奴だったか。そうだ。私が慕ったのは、この男だ。誰かの操り人形には決してならない、希望と意志を持った眩しい人。

 風が吹き、互いの足が屋根を蹴った。互いの剣身が火花を散らして鬩ぎあい、離れた瞬間を見逃さずオクトの剣が相手の縦に伸びる剣を横に殴りつけた。剣の半分が、屋根の上を転がる。項垂れるシランに、オクトは手を差し伸べた。

「やめてくれ。兄さん」

「またそう言ってくれるのか」

 シランが兄貴分の手を取ろうとし、反対側の手で隠した短剣を振りかぶろうとした時だった。彼の手に矢が突き刺さり、上体がぶれたシランはうつ伏せに倒れた。オクトが彼の体をかばい矢の向かってきた方を向けば、そこには黒い兜をかぶった青年がいた。それ以外は軽装で、手には弓と番えるための矢が握られている。黒い兜は、黒判のものだ。

「素晴らしい一戦だった。成長したね」

 優しい陽だまりのような声に、オクトは記憶を呼び覚まされる。

「ニゲラさん、ですか」

 ニゲラと呼ばれた男は歩み寄る。今まで戦いの中で飛んで来た矢は、すべて彼が射ったものだった。彼はシランに刺さった矢を容赦なく引っこ抜く。シランの口から甲高い短い悲鳴が漏れた。

「卑怯者め。お前は反乱の容疑で連行する」

「弟はその、悪くないんです。話せばわかるやつなんです」

 オクトの言葉に兜の中の黒い瞳が狭まった。

「君の優しさは美徳だが、今の彼には毒だよ。時には厳しさもいい薬になる」

 シランを屋根の取っ手に縄をかけて拘束し、逃走用の縄を教会の近くの塀から垂らす。ニゲラは手際よく準備をしていると、遠くから女性の甲高い叫びが聞こえた。

「私は旧王国の王の妻、クラズの妹デルフィだよ。こんな仕打ちない。私たちにだって王宮で暮らす権利はあるんだ。燃やした国を返せ。でなきゃ王宮に住まわせろ」

 デルフィの声だ。ニゲラは、はっとしてオクトの耳を塞いだ。

「聞くんじゃない。欲をかいた女の悪あがきだ」

「知ってますよ」

 オクトが告げる。淡々と。

「ランタナ殿とクラズ様は、君に余計なものを背負ってほしくないとのお考えだった。地位も権力も届かぬ、自由な人生を望まれていた。俺は、その尊さが今身に染みてわかっている。変な気を、どうか起こさないでくれ」

「どうして貴方が黒判騎士の鎧を着ているんですか。ニゲラさん」

 核心をつく質問にニゲラの動きが止まる。本当の真実を知っているぞ、とでも言いたげな口振りに動揺する。

「それを知って何になるんだい。君に関係あることか」

「何故ジュンを裏切ったんですか。磔にして燃やそうとしたのは、本気なんですか。貴方の姉貴分なのに」

 声に嗚咽が漏れる。シランは項垂れたまま、兄の震える頬を見ていた。ニゲラがゆっくりと近づくが、敵意はなかった。

「俺からは何も言えない。あまりにも複雑な事が多すぎる。ジュンは、俺の姉さんはいま療養中で俺が代わりに黒判騎士をしているんだ。フロックスから聞いたろう」

「嘘はもうこりごりだ! 俺に取ったら手本のような、素晴らしい姉弟だったのに」

「君には不誠実だと思うが、いずれ分かることだ。耐えてくれ」

 どんな気遣いの言葉も身勝手な言い訳にしか聞こえない。オクトは触れようとしたニゲラの手を、今度は振り払うようによけた。

「触るな!」

「君の幸せを願うよ。これは本心だ」

 ニゲラはそう言い残すと、自分だけ素早く降りていった。戦う兵士の間を影のように縫って、誰にも気づかれずまた矢を放つのだろう。彼には黒判の騎士の鎧は重すぎたのだ。

 オクトも剣を背中に差して、縄を下りる。彼には仕事があった。町の住民の避難を助けなければならない。いま、ナシュの船員対カトレア一派とフロックスたちの戦いで、優勢だ。オクトは急いで町に向かい、再び教会との行き来に勤しんだ。 

 誰も気づきはしない。この泥だらけの男が、王の血筋をもった落胤だなんて。

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