脱出と提案

その一方で、ナシュは悠長に動かなくなったジュンを肩に担ぎ、鼻歌を歌いながら船長室に向かっていた。

「君は本当に人運がないな。二人とも君を捨てて逃げちゃったよ」

ジュンはナシュの歩いた振動すらも脇腹への激痛に代わり、声が出なかった。二人に伝えた指示が伝わっているか不安だったが、今は耐えるしかない。

ナシュは何も知らず船長室のベッドにジュンを仰向けに寝かせ、濡れた布で焼印のある位置に押し付ける。冷たい刺激にジュンの体は軽く跳ねた。

「は、何をしてるんだ」

「奴隷の手入れは主人の務めさ。まだ腫れが引かないが、数日経てば立派に紋様がつく。しかしよく気を保っていたもんだ、あのスピカは小便漏らして大変だったんだぞ。初めてじゃないくせにな」

この男の奴隷への扱いは、先程ノシメで見た通りだろう。言うことを聞けば優しく接してくるが、逆らえば容赦はしない。飴と鞭を使い分ける猛獣使いのようだ。

布を外し、ナシュの硬い指先が焼印の縁をなぞる。ジュンはベッドのシーツを掴んで耐える素振りを見せた。振り返りざまに、首にかかった指輪を盗み見る。

(間違いない。あれはサビクの嵌めていた婚約指輪だ。なぜあいつが持っている?)

「やめてくれ」

「しおらしい。その様子に俺はすっかり騙されたぜ、黒判騎士殿」

 教えたはずのない事実がナシュの口から漏れる。ジュンはすかさず足を使って彼の腹を蹴り、退ける。ジュンが手近な蝋燭台を掴んで構えると、ナシュは窓から腕を出していた。奇妙な行動だったが、その手にはあの指輪が握られている。何をしようとしているのか、ジュンはすぐに見当がついた。

「やめろっ」

 せせら笑うナシュだが、体をこちらに向けたまま動かない。

「黙って俺の話を聞くなら、指輪は海の底には落ちやしない」

「なんで君がその指輪を持っているんだ」

「質問するのはこちら側だが」

 手の中にある紐が重力に従って落下する。ジュンが蝋燭台を手から取りこぼし駆け寄ると、器用にナシュは紐の先を掴んで引っ張り上げた。

「わかったから、止めてくれ」

「よっぽどこの指輪が大事らしい。君は大事なものが多いな、なあ」

 腕がジュンに伸ばされ、裸の肩をねっとりと撫でた。声からは静かな怒りが感じられた。

「用件は」

「横柄な奴隷め。いいかジュン、君は俺の奴隷になり、共に島に帰って王権を奪取するんだ。俺と共にな」

 突拍子もない話に首を傾げてしまう。自身の行方を探し当てたこと、騎士の時代に婚約した相手の指輪を持っていることに加え、謀反の誘いを受けるなんて。

「話が見えないんだが」

「狡賢い黒判騎士が言うじゃないか。それとも時間稼ぎかい」

「なぜ私が黒判騎士だと」

「前に言ってたろう。サビクという女に会いたい、ってな。君が獣の島で一年ちんたらしている間、俺なりに嗅ぎまわったのさ。黒判騎士の前妻だろう、彼女は」

 その成果が、彼の手の中にある指輪なのだろう。サビクと離婚した後も互いに所持していた彼女の国の技術で作られた婚約指輪。自身の物は親友だった男の手の中、もう一つしかしジュンは納得できなかった。

「黒判騎士は男だぞ」

「たまたま聞いた童が歌ってた黒判騎士の歌にな、灰色の瞳がという歌詞があった」

 ナシュが近づいてくるが、ジュンは引かなかった。彼の手が頬を撫で、瞼を指で愛おしそうに触れる。

「それだけか」

「カマかけた時の君の反応で確信した。君は嘘つきだが、バレた時の誤魔化し方は下手だな」

 手が腰に回って引き寄せられれば、互いの胸が触れ合う。腹の内を探りあうように視線が絡み合う。吐息が触れ合う距離になると、ジュンが彼の口に触れて制止した。

「ふざけた話だ、そんな仮説。私はただの漂流者だよ。君の野望は君の力で叶えてくれたまえ、成功を祈る。私はまだしばらくこの島に用があるから、見逃して欲しい」

「ついてこなけりゃ指輪を捨てるぞ」

 ジュンの軽口が止まる。動揺を感じ取り微かに開いた口に、ナシュは自身の口を無理やり重ねた。抱き寄せられて思うように動けないジュンを、ナシュはベッドに押し倒す。

「やめろっ、馬鹿」

「観念しろよ。どっちみち君に後はない。国からの逃亡者は罰せられる決まりだ。サビク嬢に会いに行ったんだろう、その墓も見たはずだ。君の愛した人はもういない。現実を受け入れろ」

「教えろ。どうやって指輪を手に入れたっ」

「金を積めば易々と渡したぞ。君のお義父様はな」

 サビクの故郷の島で会った、かつて王族の威厳も風化してしまった義父。彼はジュンを黒判騎士とは認識せず邪険に扱ったが、指輪のことを尋ねても一切語らなかった理由がわかった。実の娘の婚約指輪を売却して手元になかったのだ。

 虚無感に襲われ、唖然としてしまう。ジュンはナシュの手の中にある指輪に手を伸ばす。

「貸してくれよ。取ったりしないから」

 静かな物言いにナシュは違和感を覚えたが、素直に彼女に渡した。ジュンはその指輪を受け取ると、ベッドの枕の下に隠す。これから起こる事に、愛しい彼女の遺物があってはいけないからだ。ナシュはそんな彼女の頬に手を伸ばす。

「覚悟は出来たんだな」

 顎にかけられ、視線が交差する。ジュンが困ったような顔で目線を逸らした。ナシュはたまらないとばかりに押し倒す。伸ばした手がジュンのズボンに手をかけられ、下ろそうとした時だった。

顔の前に、自分の頭を飲み込む程の大蛇が口を開けていた。思わず怯んでベッドから立ち退くと、そこにはうつ伏せになるジュンしかいない。幻にしてはあまりにも生々しい映像だった。

「どうした。そんな、お化けでも見たみたいな顔して」

ベッドの上にジュンが立ち上がり、こちらを見ている。彼女の目が一瞬、縦長の蛇の瞳孔になってナシュを睨めつけていた。ナシュは背筋を舐める恐怖に身構える。

「は、山猫が君の獣の姿じゃないのか。いま、なにか違うものが…」

「なんで山猫だって思うんだ。私は人かもしれないし、猫かもしれないし、蛇かもしれないし、騎士かも、傭兵かも、盗人かも、魔女かもしれない」

ナシュは唾を飲み込んだ。論理では説明できない、本能的な部分が彼を困惑させる。先程までの優勢が嘘のように消え失せ、机の上に置いてあった武器を取ろうと動いた時、船が大きく揺れた。

「なんだっ」

「ああ、やっとか」

 オクトとスピカが指示通り働いたのだ。この砲弾をきっかけに、ナシュ商船とノシメ港町、さらにはフロックスたちの軍団の間で争いが勃発するだろう。ナシュ商船とこの二つの勢力の争いが始まれば、ナシュたちを退けることは辛うじて出来るだろう。

ジュンは信頼していた子供たちがやってのけたと確信し、用済みだとばかりに素早くナシュ背後から掴みかかり、首を絞めて昏倒させた。手馴れた手つきでシャツを剥ぎ取って自分のものにした。

ジュンは船長室を手短に探索した。この部屋のおかしな所は、羅針盤がないことだった。海で迷えば死だ。地図はあるのに、方角を示す羅針盤はない。彼女は船長室の奥から、微かな虫の音が聞こえるのに気づいた。しかしそこには虫かごはなく、黒い箱がはめ込まれてある。そこから、なんとも言えない雑音が聞こえた。

こっそり部屋から逃げようとするナシュの方を振り向くと、ジュンはにっと笑った。

「何だ」

「随分な言い草だな。あんなに激しい、下手くそなスキンシップをしてきた癖に。なあ、この黒い箱で連絡をとってたのか。これはなんだ」

「知るか。支給された備品だ。お前、覚えておけよ」

「そっちこそ。いい口説き文句でも一生考えてな」

ジュンは船長室の窓を蹴破りそのまま脱出する。ナシュがすぐ様窓から海を見たが、当の本人は船の隙間に爪を差し込んで登り、甲板へと向かっていった。

「てめえら。奴隷が逃げたぞ。捕まえろ」

ナシュが大声で叫ぶと、再び砲弾が発射される。ジュンもおかしいと思い砲手室に向かった。

砲手室では、二発目をちょうど撃ち終えて座り込むオクトと、その手伝いをしたイオタが、呆然と玉の行方を見ていた。

「どうしよう」

一発目は失敗して海に落ち、二発目は山に撃とうと考えたのがまずかった。黒い砲弾は弧を描いて見事、オクトが取り返そうとしている屋敷に命中した。

「今日、黒判騎士とフロックス大司祭が来るって町の噂になってた」

イオタが誰に言うでもなく呟く。彼らはまず領主の館に通され、その次に教会に行く筈。彼らが被害にあっていないことを祈るばかりだ。

「ハルシャさん」

オクトは別行動をしている仲間の身を案じる。直撃でもしたら彼女は生きてないだろう。全て自分の責任だ。顔から血の気がひく。

「よし、命中したか。二発も撃つなんてやるじゃないかお前ら」

何も知らず、砲手室に降りる階段の蓋を閉めているスピカは、歓喜の声を上げた。

「おい、開けろ。ジュンだ」

スピカが急いで蓋を開けて外を見ると、灰色の目があったので中に引き入れる。そして閉じた瞬間、別の手が上から蓋を叩き始めた。

「開けろ。逃亡者め」

船の中にいた奴らが戻ってきたのだろう。蹴破られないようスピカが蓋を抑える中、ジュンは大砲の滑り止めを外して、船の中央まで後ろに下げた。

「何するんだ」

イオタの言葉を無視して素早く大砲の玉を入れ、火をつける。

「耳ふさげ」

叫んだ後、砲弾が船の内側から側面を粉々にし、青い海が輝いているのが見えた。そこからこちらに向かってくる船が見える。

「親方」

オクトが手を振る。彼らは攫われたオクトの身を案じて無鉄砲にやってきたのだろう。船の側面まで急いで寄ってくる。

「泳ぐ手間が省けた。オクト、スピカ、そこの僕ちゃん。さっさと降りろ」

スピカは蓋に二重の閂をようやく入れる。直後、外にいた船員の突き刺した剣が蓋を貫通し、スピカの顔の横を掠めた。彼は悲鳴をあげ、緊急で作った穴から出る。海に落ちると、バタ足をしながら船に向かった。

「お前も早く」

オクトが動こうとしないイオタに話しかける。彼は浮かない顔で首を横に振った。

「行けない」

「どうした。なにか弱みでも握られてるのか」

イオタは戸惑いながらも、服をめくった。彼の裸は漁でさんざん見慣れている。その腹部が、獣の毛皮のような体毛に覆われていた。オクトは言葉が出ない。

「黙っててすまん。俺はもう自分を隠して生きて行きたくない。俺はこの船で、俺みたいなやつらのいる島に行くよ」

 盗み聞きをしたわけではないが、その言葉にジュンは思わず振り返る。

「お前らしくもない。そんな腹のかぶれなんて、医者に診て貰えばいい。馬鹿なこと言ってないで、来いよ」

 オクトが彼の腕を掴むが、イオタは頑として譲らなかった。同僚の手を振り払う。

「町の誰かに見つかってみろ。また別の街に移る羽目になる。もううんざりなんだ。隠しきれない。親方に、失望されたくない。黙って消えさせてくれ」

 親方は熱心な教会の信者だ。非人は、特に毛嫌いしている。だからと言って、何の相談もなしに奴隷船に乗り込むなんて、許せなかった。

「この船は、商船は商船でも奴隷船だ。お前、どんな目に合わされるか」

「ナシュさんだろ。あの人は、今迄会った人の中で、一番俺に親身になってくれた人だ。恩人だよ」

 あの男が優しくするときは、獲物を手招くときだけだ。騙されるなと肩を掴もうとした時、砲手室の蓋を蹴破る足が見えた。

「早く来い」

「じゃあな。元気で」

 イオタは寂しそうに笑う。オクトは歯を食いしばった。彼を視界から外したら、それが最後だ。しかしオクトは身を海に投げ、ジュンもその後に続いて船に向かう。服が水を吸い波に引っ張られる中、親方や仕事仲間に船の上にあげて貰った。

「オクト。無事でよかった」

 ジュンが船に乗り込もうとした時、親方が彼女の前に立ちはだかった。オクトは精神的にも打ちのめされた状況で、二人の様子に不穏さを感じ取る。

「お前、捕まってたよそ者だな」

 親方が仲間に船を出せと合図をする。彼女は置いていくつもりだろう。

「彼女も乗せて下さい。彼女に助けられたんです」

「ジュン、だっけか」

 親方は彼女の灰色の目を見る。ジュンは何も言わなかったが、自分の結末を予見した。

「そ、そうです。俺や、ランタナや母さんの知り合いで」

「せいぜいあいつらを引き付けておいてくれ」

 親方は無慈悲に船を出す。船が帆を張って発進し、巻き上がったしぶきが彼女の顔にかかった。オクトは水を吸って重たい服のまま、親方の肩を掴む。

「待って。引き返してください」

 親方はオクトの両肩を強い力で掴んだ。

「あいつは俺も知っている。恐ろしい、血も涙もない奴だ。お前あんな奴と一緒にいて、何か変なことを吹き込まれなかったのか」

 親方は怒っているわけでもなく、心底心配している様子だった。屋敷から追い出された自分を見つけて仕事を与えてくれた人の、震える手で抱きしめられて、オクトは硬直した。横から彼の泣き声まで聞こえてくる。

「親方、あの」

「イオタがな、朝からいないんだよ。何処を探してもいない。お前もイオタもいなくなって、みんな本当に心配してたんだぞ」

 船を進める仲間は何も言わないが、親方の震える声がすべてを語ってくれた。オクトは小さく謝り、親方の腕から離れた。再びジュンの乗船を頼もうとした時、町が近づくにつれ騒がしくなっていることに気づく。

「こいつはまずい」

 漁の仲間が呟いたのは、町を蹂躙する異国風の男たちのせいだ。あの服装はナシュ商船の船員だろう。船に人気がなかったのは、あの村に潜んでいたからだ。このままだと、ナシュの思惑通り町民が奴隷にされてしまう。

「お前の仲間だよな」

 同僚たちが漁の道具を、武器のようにスピカに向ける。彼はナシュ商船の中で奴隷であり、特殊な立ち位置だったが親方たちには関係ない。残念だが、人質にしたって交渉材料にはならないだろう。

「オクト。助けてくれ」

「領主の屋敷を吹っ飛ばしといて白々しい」

「それは俺がやったんだ」

 正確には自分と、イオタだ。イオタのことはどう説明したらいいか、オクトには収拾がつかなかった。自ら奴隷船に乗り込んだ、いや招き入れられたか。彼を船から連れ出すにも、町の安全はどうなる。

「ああ、どうすればいいんだ」

 注意するべきことが多すぎて頭が混乱する。オクトにはわからない。何を切り捨て、何を疎かにしてはいけないか。優先順位がつかない。頼みの綱のジュンを見やると、一生懸命こちらに泳いできていた。後ろに、ナシュ商船の船員を数名引き連れて。

「オクト、説明してくれよ」

「脅されてたのか、オクト」

「おいオクト手を貸せ」

 名前を呼ばれるたびに眩暈がする。もう構わないでくれ、なんて責任感のないことは言えない。オクトはひとまず青い空を見上げて、両頬をひっぱたいた。

「みんな聞いてくれ。大事な話だ」

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