魔女か人か、はたまた……
「よっ。マトリ司祭のお陰です」
「いやいや」
小さな一室にはマトリ司祭、マトリ司祭を煽てるオクト、浮かない顔のスピカがいた。ジュンとハルシャが現れ、視線が二人に集まる。
「どこ行ってたんだよ。こっちは大変だったのに」
オクトはジュンに非難の視線を向ける。彼がジュンを最後に見たのは、村の会合所に突入した時だったから、その後のことは知らないのだろう。
「水浴び」
ジュンがあっけらかんと言うので、オクトが何か言いたげだったがマトリが彼を落ち着かせる。
「まあまあ。私から色々話すさ。皆はちょっと待ってておくれ」
マトリがジュンを手招きし、彼女は彼の後についてくる。その背中をスピカは虚ろな目で見ていた。
「彼、どうしちゃったの」
ハルシャが聞くと、オクトは意味深げに首を振る。
「こいつにも秘密があるんだよ」
知ったかぶりをするオクトにスピカがため息をつくと、一室が再び騒がしくなる。
ジュンは服に着替え、マトリの自室にある本棚の前に案内された。そして彼が本を一冊取り、隠してある取っ手を横に動かすと隠し通路と梯子が見えた。ジュンは動じず、地下に見えた実験器具と山ほどの書籍を覗き込んだ。
「研究が教会にバレた」
マトリの明るい顔から血の気が引いている。
「今日の騒動でガサが入ったのか」
「いや、彼らは早々に退却してノシメに移動した。今日訪ねてきた、カリア司祭だよ」
「あのお嬢ちゃんか。司祭の用ってのは、尋問だったのか」
カリアの顔が二人の頭に思い浮かぶ。
「彼女は危険を承知して、知らせてくれたんだ。今日の夜には尋問官が来るだろう。荷物をまとめて、君たちは逃げなさい」
「貴方はいいのかい。研究の途中だったろう。尋問官に見つかったら頓挫する」
「私はもう若くない。せめて教会側に誠意をもって対応するさ」
マトリは寂しそうに笑った。地下の研究室の机の上に、幼い子供の小さな絵が置いてあった。ジュンは何も言わず、マトリが本棚を閉じるのをじっと見ていた。
「なんで私に仰って下さったんですか」
「ともに、子をなくした親のよしみさ」
二人は沈鬱な空気を払い、再び皆がいる一室に戻ってきた。そこでは、何があったのかハルシャとスピカが腕相撲をしていた。オクトが二人の手を掴んで、いま試合が始まろうとしている。
「なにしてんだ」
ジュンが尋ねても、ハルシャとオクトは真剣だった。
「ようい、スタート」
白く細い腕と肉体労働に従事した腕では勝敗は見えていた。しかし、スピカは手加減している風にも見えないのに、なかなか中心から動かない。それにはジュンもマトリも感心して見ていた。
「こいつはすごいな」
マトリが感心していると、なんとハルシャの方がスピカの大きな手を推し進めていく。固唾をのんで見守る中、スピカの手の甲が机に着いた。
「ハルシャさんすごいじゃないですか」
オクトが陽気に彼女の手を持ち上げると、彼女も誇らしげに手を振った。ジュンとマトリが手を叩いて勝利を祝い、ジュンがゆっくりと椅子に座った。
「みんな仲良しで何より。よし、今日の夜家に戻るぞ。オクト」
続いて立ち上がっていたハルシャとオクトが座り、項垂れていたスピカが顔を上げる。マトリは部屋を去っていった。その姿をスピカは名残惜しそうに見ている。
「帰るって、ノシメにかい」
「君の伯母が占拠している屋敷にだよ」
ハルシャとスピカが、オクトの面食らった顔を見た。
「え、なんでそれ知ってるの」
「君が漁に出て入れ違うように、私とハルシャはノシメの街に辿り着いたんだ。それから数週間いれば、町の事情にも詳しくなるもんだ。大変だったね」
ランタナたちと住んでいた屋敷を奪われたことに、ジュンは情けないなどとは言わなかった。オクトはつい涙腺がゆるんでしまう。
「私が占い師として、町の皆から信頼を得たからよ」
ハルシャが町の老人たちに、インチキと呼ばれていたことを、オクトはそっと呑み込んだ。
「ジュンがこの町に来たのは、オクトに会うためだったんですか」
スピカの質問にジュンは頷く。
「そうだよ。世話になったランタナ殿とクラズ様の墓参りも兼ねてね。私は旅に出る前に、どうしても亡きお二人に恩返しがしたい。私は君に、君の親族に奪われた屋敷を取り戻したいと思っている」
幼い日のシランの笑顔が浮かぶ。母であるクラズが死に、追うようにランタナが流行病で逝ってから、日に日にシランとデルフィの態度が硬化していったのは今でも気分が悪い思い出だ。だが、彼らを殺したいとまで考えたことは無い。
「取り戻すって、まさか、俺の弟分をどうするんですか」
「命までは奪わないさ。まあ、反省はして貰わないと。彼らはどうもカトレアたちと組んでいる」
そこからはオクトにとって、信じられないような話だった。
シランたちが盗賊を囲っていること。そして、ノシメ港町にやってきたナシュ商船が奴隷を取り扱う奴隷船ということだった。
「あいつらの様子を見るに、カトレアたちは悪戯に盗賊行為をしている以外の目的がある。思いつくのは、今日会ったエイプル革命軍のフロックスと黒判の襲撃かな」
故郷の港町が脳裏に浮かぶ。楽しいことばかりではなかったが、つまらない街だと切り捨てるには思い出があまりにも多すぎた。戦火で燃える様など懲り懲りだ。
「ノシメは、戦場になるんですか」
オクトの不安そうな眼差しに、ジュンは暗い瞳で答える。
「血が一滴も流れない戦いはない。だが、私の先生が立ち上げた町だ。できる限りはするつもりだよ」
ジュンの目的は、ランタナとクラズのいた屋敷をオクトに返還させることが目的だった。加えて、自身の仲間だったカトレアたちの悪事も見過ごせないと言う。ジュンの話す計画にオクトとハルシャは快く快諾したが、スピカは浮かない顔だった。彼だけ、立場が三人とは非常に異なっている。
「さっきからどうしたの」
ハルシャがスピカを伺う。先ほどの腕相撲大会だって、沈んだ空気を盛り上げようと二人が考えたことだった。俯くスピカにジュンは笑いかける。
「ナシュの船に私を連れて行かないと危ないんだろう。明日、私を連れていけ」
スピカが弾かれたように顔を上げる。ハルシャも少し困惑している。
「意味わかって言っているんですか。貴方の旅が終わってしまいますよ。彼らは、もう二度と貴方を島の外に出そうとはしません」
オクトとハルシャは理解ができなかったが、スピカの不穏な空気は感じ取ることはできた。
「それは困る。だから船に連行して、海に出向してから私はこっそり抜けるよ。譲歩できるのはそこまでだ。君はしらばっくれてやり過ごせ」
スピカは黙って頷く。オクトは言いかけた口を噤んだ。奴隷船で働くのはやめろと言いたかったが、彼にも深入りできない壁があった。スピカは居たたまれず一室を出る。そして、ふらふらと礼拝堂に向かえば、マトリが布を手に水湧き場を拭いていた。
「どうしたんだい」
マトリの優しい視線を受け、スピカは口ごもる。彼はきっと、自身が奴隷の身分の時に髪切りを教えたのがスピカだと気づいていない。スピカ自身も言われるまで分からなかった。面影はあるはずなのに、遠い月日が二人の記憶を霞ませていった。楽しかった、身分違いでも、子弟として過ごした日々。
「司祭様。お話よろしいですか」
「なんだい」
司祭の顔は穏やかだ。全てを覚悟しているような気迫さえ感じた。
「迷っているんです。どうしたらいいか、わからなくて」
マトリが沈むスピカの肩を励ますように叩いた。
「誰にも先は見えないものだよ。どれだけ月日が経とうと、私たちはいつも同じことで悩んで争うのだから。私たちに出来ることは少ない。出来ることを精いっぱい尽くすのみだ」
要領を得ない言葉に納得できなかったが、スピカは腹をくくるしかないとため息をつく。すると、ふとマトリの手が震えていることに気づいた。
「大丈夫ですか」
スピカが尋ねると彼はいつも通りの笑みに戻り、スピカに退出を促した。
「一人にさせてくれ。頼む」
「はあ。では、おやすみなさい」
一人きりになった礼拝堂で、マトリは地下室から持ってきた亡き息子の肖像画を見つめた。司祭になってすぐ、町を訪れた絵描きに描かせたものだ。絵の具が高価なので、手のひらサイズ分の代金しか払えなかった。
持つ手が震える。
「死にたくない」
その夜、ジュンたちは少ない荷物をまとめてマトリ司祭の教会を出た。マトリは最後まで尋問官のことを言わず、笑顔で見送った。暗い道を一行が進もうと言う時。
「言い残したことがあるんだ」
先に行っててと言い、ジュンが残る。マトリは自身の鼓動が恐怖で静かに震えていた。
「ありがとう」
「なにも感謝されることはしてないよ。なあ、本当に諦めるのか。言ってたじゃないか、もっと技術が進んでいたら息子を助けられたって。その研究だったんだろう」
「私ももう歳だし、潔く諦めるよ」
そうか、ジュンは静かに微笑む。交友期間は二週間弱、なにがきっかけかはもう覚えていないが、互いに子供を亡くした者同士、通じ合うものがあった。愛した小さな命が消えたあの日は、決して忘れられるものではない。研究のことも、誰にも言うまいとしたが彼女にはつい話してしまったほどだ。
「教会に君の研究を告発したのは私だよ」
風も吹かない夏の蒸し暑い日に、その声は凛とマトリの鼓膜を刺した。
「えっ」
問い詰めなければいけないと思いつつ、声は続かない。彼女はいつもの微笑みを讃えているが、前のように意思が通じ合う気配はしない。ただただ不穏だった。
「じゃあね。頑張れよ」
去ろうとする彼女の手にを掴む。
「どういう事だ」
「どうもこうも、君は老い先短いんだろう。死ぬのが少し早くなっただけじゃないか」
夏の太陽のように爽やかに、蒸し暑い真夏の夜に彼女は言った。共に痛みを分かち合い、心を打ち明けた相手とは到底思えなかった。
「ふざけるなよ」
「そろそろ尋問官が来る。教会ってのは血なまぐさいぞ。私達も明日、ノシメの街で争いに巻き込まれる。無事に朝日が拝めるといいな、共に」
「待てっ」
今更ながら自分の中に生への執着が湧いて出てくる。相手が笑顔を貼り付けた恐ろしい鬼だとしても、一人きりの教会に置いてきぼりにされるのは勘弁したい。
研究なんてしなければ、教会の威信に傷をつけるような行為なんてしなければ。
「死にたくなけりゃ尋問官の靴でも舐めるんだな」
ジュンはあまりにも無関心に言い放った。マトリはこのまま引き下がれないと意地を張る。
「豊穣の水の神はあらゆる所から、我々信者の動向を見守っている。お前がしたこともだ。きっと罰が下るぞ」
精一杯の強がりは、ジュンの赤い舌が舐めとった。林檎のように赤い、血でも啜ったかのような舌をジュンは出す。
「監視好きの女神なんぞこっちから願い下げだ。つくづく君らとは趣味が合わん」
「待てっ。待ってくれ!」
ジュンの足はノシメ港町へとずんずんと進む。
「そんなふざけた神様は、私が始末してやるさ。必ずな」
無慈悲に置き去りにされたマトリは、地面に蹲って泣いた。立ち上がる気力もない。時間だけが刻々と過ぎ去り、月が哀れな信徒を照らしていた。
「ジュン遅いわねえ。そうだ、明日の運勢を占いましょうか」
そんなことなど露知らず、少し離れた森の中で焚き火を囲む三人。時間もあり、虫の音を聞きながらハルシャの提案を受け入れた。
「ハルシャさんもノシメに行くんですか」
「もちろんよ」
ハルシャは木の棒で地面に幾何学模様を描き、腰の道具入れを探るが中身がないことを思い出して項垂れる。
「危ないですよ。俺やスピカは戻る理由があるけど、貴方にはない。何かの拍子で命だって」
「うるさいわね。集中できないでしょ。いいのよ、ジュンが行くんだから。それに私だって理由あるわよ。占い道具盗られちゃったんだもん。あれ高いのよ」
盗られたというより投げた、の方が正しいだろう。しかしそんな細かいことをハルシャは口にしない。彼女の本心は、ただ巡り合わせで出会った彼らの行方を見守りたい、それだけだった。言いはしないが。
「俺たち、明日にはどうなっているんだろう」
オクトが呟き、ハルシャは手近な石を拾っては投げる。
つい最近まで、明日は当たり前のようにやってくると思っていた。悠久と思われた時を動かしたのは、紛れもないジュンだ。
「どうにもこうにも。やれることをやるだけだ」
スピカが答える。
「出た出た。明日の運勢、聞きたい人」
オクトが真っ先に手を挙げる。スピカもつられて手を挙げたが、ハルシャは先に手を挙げたオクトを指した。
「悪いことが起きませんように」
「えーっと、中吉かな。キーワードは去るものは追わず」
「キーワードとかあるんですか」
スピカが思わず聞いても、オクトは熱心に聞いている。
「次はスピカ。んー、小吉。新しい出会いを大事に」
占いというのは総じて的を射ないが、言われたら言われたで気になるものだ。
「私は、ハルシャ」
影の中からジュンがぬっと現れる。スピカは彼女の様子が少し変だと思ったが、口にはしなかった。まるで人が違うようだ。
「別れの挨拶できたかしら。ほんと、ジュンは人の懐に入るのが上手いんだから」
「人聞きが悪いこと言うなよ」
「ふふ。あら、これは」
四人が幾何学模様を覗き込み、投げて置かれた石の位置を見る。もちろん意味がわかるのはハルシャしかいない。
「これって、どれ」
「良いのか、悪いのか」
「最悪よ」
ハルシャの声は真剣だった。普段占いは気にしないたちのジュンも心配になる。
「どんな風に」
「凶のなかでも、もっと酷い。油断大敵、火傷に注意」
「なんだそれ」
「死ぬよりも酷いわよ」
「なんだって」
周囲が静まり返る。ハルシャが突然弾けるように笑うと、三人がビクリと震えた。
「やあね。ただの占いよ。そんな簡単に人の運勢が見えてたまるもんですか。こういうのはね、意識しておけば大体防げるから」
「占い師の言葉とは思えないな」
ハルシャは陽気に笑う。沈んだ空気も吹き飛ぶ気配がした。
「君の事も占ってみたらどう」
ハルシャは意味深げに笑う。
「人が悪いわねえ。占い師ってのは自分のことは占えないの。これ、常識」
夜は長い。長いが必ず朝が来る。四人の運命を乗せて。しかしその運命を覆すために彼らは目覚め、その場を後にした。
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