ジュンとハルシャ

フロックスは項垂れるニゲラこと現黒判騎士を鼓舞し、その場を離れ逃亡者を追った。

その逃亡者である三人は、腕を振りかぶって走っていた。

「教会に一先ず逃げましょう。あそこなら入って来れないわ」

指示したハルシャは排卵期で痛む腹を抑え、スピカとオクトの後に続く。一番前にいたスピカは、教会の前で走ってくる一行を不思議そうに見るマトリとカリアに叫んだ。

「頼む。扉を開けてくれ」

二人は顔を見合せ、突進する勢いの一行に向けて扉を開ける。スピカはその寸前で立ち止まり、オクトとハルシュに手招きした。オクトが滑り込み、あと残りはハルシャだけだ。

「うぎぎ」

彼女の腹部に激痛が走る。速度が遅くなり、兵士の手が彼女の服を掴んだ。

「うわっ」

声を上げたのは兵士だった。彼の手を払ったのはあの灰色の山猫、ジュンだった。山猫は大きな体躯で唸り、兵士たちに近づくなと威嚇する。

「あら。さっきの猫ちゃん」

ハルシャはジュンだとはよもや思っていない。彼女が山猫に化けれることは、スピカとオクト、そしてイオタしか知らないのだ。

残った兵士が教会に押しかけ、スピカも苦肉の思いで施設の中に逃げ込んだ。扉の前を二人の司祭が頑として譲らない。

誰にも助けは求められない状況で、ハルシャは腰に提げた占い道具の光る小さな石をばらまいた。しかし、兵士は反応もなくビクともしない。ハルシャはニヤリと笑う。

「今私は貴方達に呪いをかけてやったわ。千年かけても解けない、身内にも大迷惑をかける最悪の呪いよ」

「脅しだな」

兵士が強がるが、ハルシャは笑ったままだ。山猫が大きく吠えると、不安というのは簡単に伝播していく。後方の兵士が弱気な声を出して、連携が少しずつ崩れていった。

「本当にいいのかしら。これでもどうぞ」

ハルシャが今度は光る粉をばら撒くと、風も相まって蝶の鱗粉のように広まる。兵士がどよめいたスキをついて、山猫とハルシャは道を逸れて森に走っていった。

「開けなさい。司祭とて容赦はしませんよ」

一方教会の扉の前でマトリは堂々と道を塞ぐ。彼の目には迷いはなかった。

「教会は神聖で、誰にでも平等な安息の地です。それを土足で踏み荒らすことは、何人にも許されていない」

「なにかの誤解です。彼らは危険な者たちではありません。どうか、大司祭様にお話させてください」

「無礼な女め。口を慎め」

怯えるカリアを見て、マトリは憤りを感じた。こんな若い健気な娘が、怒鳴られなじられる筋合いなどないと。マトリは咳払いをして凛とした声で兵士たちに話しかける。

「良いですか。私には若くして亡くした子供がいます。その時は髪切り屋をしていました。子を亡くし絶望した私は奴隷として生かされ、自暴自棄になっていたのです。どうとでもなれ、と。しかし、その時の優しい主人が私の技術を認め、愛を与え、知恵を下さいました。民族が異なる私にです。こら、説法の途中ですよ」

兵士としたら一介の司祭の話などどうでも良かった。早く仕事を済ませないと、自分たちの評価に関わる。しかし、上司が司祭の手前、下手に手をあげることは出来なかった。

「あの、その話は後で」

「そう、列に戻りなさい。いいですか、私が言いたいのはね、皆作りは多少は違えど、平等な生き物と言うことです。私は髪切りの技を主人の子に伝え、島を離れ、そして今はこの地で司祭として従事させて頂いています。こら。後ろの列までちゃんと見えてますからね、そこの槍を持った君。ちゃんと話聞いてるのかね」

「このまま時間稼ぎするつもりかな」

教会の礼拝堂の扉を背に、オクトがスピカに尋ねる。彼の返事がなかったので横を見ると、涙を零していた。

何泣いてんだ、と前に言われた事を言い返そうとして、口を噤む。

「どうして気づけなかったんだろう」

スピカの言葉の意味は分からない。だが、オクトは黙ってそばにいてマトリの言葉に耳を澄ませた。今まで聞いてきた司祭の言葉と変わりはなかったが、いつもよりも集中することができたのだ。

静かな司祭の声が響く教会前に比べて、ハルシャと山猫のジュンは忙しなかった。森の木々に姿を隠しているが、兵士たちは着々と距離を狭めている。

「出てこい。手荒な真似はしないから」

「あれ、絶対嘘よね」

茂みに隠れながらハルシャが足元にいる山猫に語りかける。ハルシャは緊張で逸る鼓動を抑えていると、再び腹部に激痛が走り顔を顰めた。

「おおうん」

山猫が心配そうに彼女の顔に鼻先を近づける。ハルシャは汗の流れる顔で笑った。

「はは。私ったらダメね。ねえ、貴方だけでも逃げて。私は元々、旅に向いてなかったのよ」

山猫は弱気な彼女の顔を見つめ、そして茂みを抜けて去っていった。兵士の足音がいよいよ背後から聞こえてくる。ハルシャはあまりの恐ろしさに目を瞑った。

「魔女がいたぞ。捕らえろ」

遠くで声が聞こえると、兵士たちの足音が遠ざかる。静まり返る辺りに比べて、自身の鼓動の頼りなくうるさい事と言ったら。

猫の声が聞こえて横を見ると、先程の山猫がいた。

「貴方、逃げなかったの、と」

地面に手をついた時、柔らかくなった土に触れたのかハルシャが転げ落ちる。体が止まり、すぐに上体を起こせばそこは湖の傍だった。

山猫が華麗に前足で着地して、ハルシャの顔に鼻先を近づける。彼女は照れ隠しに笑って、猫の喉元を撫でた。

「あおう」

猫はそのまま湖に体を沈ませた。そして起き上がる頃には、そこに山猫はおらず、背中に無数の傷と火傷の痕を残した女の裸があった。淀んだ灰色の瞳が湖面に反射して、ハルシュの方を振り向く。

あんぐりと口を開けた彼女の元に、水を押しのけながらジュンは近づく。腕が伸ばされ、泳ごうという意思なのかと推測してしまう。

「ダメよ。私いま、泳げない」

「違うって。怪我はないかなと」

ジュンの体を思わず見る。自分の今負った擦り傷など、傷のうちに入るものか。ハルシャの人生の中で、これ程傷を負った人を見たことがない。

「私は大丈夫。それより、貴方猫になれるのね。その力があったから、戦で活躍できたの」

野暮な質問だったが、今ならしてもいいかと思えた。

「まさか。猫になれるようになったのは、ここ最近だよ。自分でも分からない」

「ふふ。呪いだったりして。私は見たことないけど。いたたた」

ハルシャがあまり痛みに腹部を抑える。ジュンは水から上がり、彼女の腹に優しく触れた。

「無理をしすぎたせいだ。少し休もう。追っ手は私が引き付けておいたから」

あの都合の良い兵士の声はジュンだったのか。気がつかなかった。ハルシャは自分の不甲斐なさに笑いがこぼれる。

「貴方って、騎士だったり猫だったり、忙しいのね。私は自分の体調すらままならないのに」

排卵期の痛みは女性特有だ。彼女の自虐的な笑いに、ジュンは眉根を顰める。

「君は十分やっているよ。私には、革命軍にいる前から排卵期がないから」

「えっ」

ハルシャはつい驚きの声を上げる。

「昔、妊娠中に食べてはいけない実を誤って食べてしまってね。堕胎してから来ないんだ」

ハルシャは立て続けに明かされる事実に言葉が出ない。ジュンは黙って彼女の手に自分の手を重ね合わせる。痛みは徐々に引いていったが、心に受けた衝撃は消えなかった。

「無理して言わなくていいのよ」

ハルシャの精一杯の思いやりの言葉だった。身元や過去を明かさないのには彼女なりの理由がある。昨日からハルシャたちはジュンのことを口には出さないが、知りたいという態度はあったのだろう。ジュンが気にして発言したのではないか、とハルシャは考えた。

「そんなんじゃないよ」

ジュンはハルシャの腹痛が収まると、湖の中心まで泳いで体を洗い始めた。綺麗好きなんだろう。彼女は楽しそうに水と戯れた。

「秘密があってもいいじゃない」

「何か言ったかい」

遠くで泳いでいたジュンが、ハルシャの独り言を聞きつけやってくる。その様が少年のようで、思わず彼女は笑った。

「何も。貴方、秘密主義なのはいいけど、ちゃんとオクト君にペンダントを返してあげなさいよ」

ジュンの顔が曇る。

「その話はいつかするよ」

「なんでよ。彼も気にしてたじゃない。まさかどっかにやっちゃったとか」

ジュンの顔がさらに曇る。ハルシャは素直な彼女が面白かった。

「貸してるんだよ。別の人に」

「又貸ししたの。最悪、二度と手に戻らなかったら、彼一生貴方の事恨むわよ」

日が傾き始めた。ジュンは陸にあがり、ハルシャがローブを貸す。ジュンが窪地の池から顔をのぞかせ、周囲に敵が居ないことを確認する。

「よし。さっさと教会に行こう。あそこにも兵士が居ないといいけど」

ハルシャは湖の方を向いたまま動かない。ジュンが彼女の名を呼ぶと、悪戯っぽく笑った。

「今日の事は、二人だけの秘密ね」

ジュンもつられて笑う。二人の影は夕闇の中、そそくさとマトリのいる教会に向かっていった。教会の周りには人はおらず、二人は裏口から居住用の家に静かに入った。

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