過去と混乱
オクトが幼いころから憧れ、ジュンが率いたエイプル革命軍。エイプルは、軍の少年長の名前だった。この革命軍はエイプル少年を頭に、国家の転覆を成功させた。なぜ、少年を筆頭に置いたかは明白だ。
辺鄙な村のエイプル少年は、自身が特別な血筋だと証明する証拠を持っていた。王家お抱えの彫金師でしか作れないような、純銀の装飾品を持っていたのだ。王家と証明する架空の花を模したそれは、エイプル少年が王家の落胤であることを示している。
誰もが憧れるような、夢のような騎士道物語だ。何も持たなかった少年が実は王家の血筋。そして冷酷無比な黒判騎士を従えて、民を苦しめる国を倒す。そして今、エイプルは立派な青年となり、王として君臨しようとしていた。
その裏に、狡猾な劇作家がいたとも知らずに。そして、人知れず闇に葬り去られたことも。
「目が覚めたかい。オクト」
名を呼ばれるよりも、体を揺らす振動で目が覚めた。
そこは簡素な馬車がひく荷台の上だった。オクトは身を起こすと、頭痛で頭を抱える。彼に声をかけてきた中年男は、優しく肩に触れた。
理髪師のスピカに話し掛けた怪しい中年男だとは、オクトは気づくまい。
「ここ、どこだ」
「馬車だよ。見てわかるだろ。おい、もうちょっと丁寧に運転しろ。病み上がりが乗ってるんだぜ」
中年男が御者の方を振り向く。御者の大きな背中が地面の凸凹で揺れるが、荷台に乗っている二人ほど動きはしなかった。振り向いた御者の瞳には、獣臭い凶暴な香りが潜んでいる。
「ウォルフじゃないか」
大男の御者、ウォルフは何も言わず馬の綱を器用に動かし、速度を緩める。オクトは自身の手元に落ちていた布袋を見て、自分が連れ去られたのだと知った。
「悪いね、無理やり連れてきちゃって」
叫ぼうにも、オクトの喉元に槍の切っ先が突き付けられる。うつ伏せの状態から顔を上げるのが精いっぱいだった。顎髭を生やした猫目の男が、愛想よく笑う。
記憶が微かに蘇り、この中年男が自分を昏倒させた犯人だと思い出した。しかし、自分に布を被せて頭を打ち付けてきた男とは到底思えない。柔和な微笑みが似合う男だ。
「無駄な抵抗はしないほうがいい。俺よりもやばいぜ、こいつは」
ウォルフが馬を走らせながら森の中を進む。荷台に乗せた蝋燭が人魂のように揺らめいた。中年男は陽気に笑う。
「人聞きが悪いやつだよな。カトレアだ。よろしく。手ぐらい握ってくれよ」
カトレアから差し出された手を、オクトはうつ伏せになりながら受け取って握り返す。拒否しようものなら何をされるか分からない、そんな不気味さが彼にはあった。
座るように促され、オクトは切っ先を向けられながら慎重に臀を床に乗せ、周りを見回した。辺りは木々が生い茂る。恐らくノシメ港町の隣町に行くつもりなのだろう。
「あんたらは隣町からやってきたのか」
不審と敵意と恐れの混じるオクトの視線を、カトレアは愉快そうに笑って流した。
「あんたらだって。礼儀のなってない坊やだ。年上には恭しく接しろと、黒判様から習わなかったのかい」
彼の言う黒判は、ジュンのことを指しているのだろう。今活躍している黒判が誰なのか、オクトには見当もつかない。
「貴方も、革命軍にいたんですか。そこにいるウォルフや、ランタナと一緒に、ジュンと戦った」
カトレアは首を傾げる。
「そこのでかいヤツは仲間だが、ランタナという方は存じ上げない。でも、俺の知らない黒判様の活躍劇を君から聞けそうだ。長い旅になるだろうし、ゆっくり教えてくれよ」
彼らにオクトを自由にする気はないようだ。真意の見えないカトレアに、夜の闇も相まって背筋が凍る。
「どうするつもり、ですか」
ウォルフが唐突に口を開いた。
「そいつは今の黒判がジュンじゃないことに気づいてた。話してやってもいいと俺は思う」
カトレアの目に光が灯る。先ほどまでの柔和な雰囲気は消え去り、興奮した狩人のような猛々しい光だ。
「そうか。君は分かっていたのか。はは、ウォルフにそう言わせるっていうのはな、中々ないぞ。光明が見えた。俺たちは、これを辿って君を探していたんだ」
彼が懐から差し出したのは、手紙の束だった。オクトはそれをよく知っているが、なぜ彼らが持っているか疑問だった。その紙束は、ランタナの伝書用隼で送っていた子供の頃の手紙だ。
「なんで、それ」
カトレアは少し解れた態度でオクトに接する。
「本当の黒判様が行方を眩ませる前、俺たち側近を辺境の地に押しやった。突然の左遷、半ば解雇さ。その時、ウォルフに渡したのがこの手紙の束だ。こいつは文字が読めないから、渡してもいいと思ったんだろう。この架空の冒険譚を綴ったガキの手紙をな」
するとオクトの顔がみるみる真っ赤になり、手紙を取り返そうとする。しかし、カトレアはニヤリと笑って冷やかした。
「おい暴れるな。馬がせわしない」
ウォルフに窘められても、オクトはそれどころではなかった。幼い字で書かれたその内容は、ジュンだから送れたものだ。赤の他人に読まれる筋合いはない。
「まあまあ。俺も田舎貴族の端くれだからよ、読み書きが出来るようになったらこれぐらいのオリジナルストーリーは考えたりしたもんさ。それを誰かに読ませる為に送るなんて考えたことはないが」
オクトは堪らず声を張り上げた。耳まで真っ赤になりながら抗議する。
「違う。そんなんじゃない。それはジュンに送ったものだ。お前が読んでいいものじゃない」
ジュンと口走ると、カトレアのにやけ顔がサッと冷める。オクトは気づかないが、ジュンと馴れ馴れしく呼んだことが勘に障ったのだ。ウォルフはヒヤヒヤしながら二人のやり取りを後ろから盗み見た。
「けっ。そんな大層なもんでもないだろ。恥ずかしいのは自分だけだろうが。なあ、この君の考えた空想話の中に出てくる銀のシンボルマークのネックレスっていうのは、君が考えた設定かい。それとも、身近にそんなものがあったのか」
自分のオリジナルストーリーの設定なんて人に聞かせれるものではなかったが、オクトはカトレアの鋭い慧眼に話を逸らした方がいいと考えた。
彼の考えている通り、銀のネックレスは事実を引用した道具だ。その指す意味は、分かるものには重要だと分かる。
(まずいことになったぞ)
オクトの首を冷汗が通る。
「いやほら、子供の作り話だったし、なんか格好いいでしょう。銀とか」
取り繕うオクトの胸中などカトレアはお見通しだ。カトレアは手紙の束を漁って、その中から的確に一枚の紙を探り当て眼前に晒す。覚えたての字に拙い絵、そして端には円を中心に一輪の花が描かれていた。
存在しない架空の華を模した象徴。
オクトはもうだめだ、と内心で絶望した。
「このマーク、俺はなんだか見覚えがあってな。ある男がこんな形のペンダントを意気揚々と首にぶら下げてたんだよ。昼夜問わず、戦の時も肌身離さず」
猫が鼠をいたぶるようにねっとりと質問する。顔が笑顔のままなのが余計に恐ろしい。
「あの裏切り者の話はやめろ。耳が腐る」
ウォルフが横槍をいれ、苛立たしげに獣の耳がひくついた。しかし、その言葉にカトレアも同意したのか、手紙を綴じて懐にしまった。ゆっくりと、オクトに近づく。
「この馬車がどこに向かっているか、知りたかったんだよな」
カトレアの問い詰めるような暗い瞳に、オクトは半ば危機感に迫られて何度も頷く。
「は、はい」
カトレアの口が地獄の釜のように開く。
「俺たちは偽りのエイプル革命軍を打破する、真の革命軍だ。そして君には、その筆頭を担ってもらう。あの人の地を行くのさ。そして行先は地獄だ。わかるな」
何一つ分からなかった。なぜ彼らが自身のいた軍を抜けて反乱を起こすのか、そして何故自分がその頭を務めなければならないのか。だが、分からないと言ってみろ。何をされるか分からない。
彼の目は本気だ。脳天が恐怖で痺れるほどに。
「あの、俺、そんな大役とてもとても。ただの漁師ですし」
恐る恐る口に出すが、呂律が回らないのでオクトは泣きそうだった。
「今は漁師だろ。俺たちが何も知らずお前を勧誘したとでも思うのかい」
カトレアはオクトを安心させるように微笑むが、脅迫めいていて肝が冷える。
どう足掻いても逃げきれないのか、とオクトは藁にもすがる思いだった。しかし、ふと彼らが欲しがる情報に思い当たる。考えたことをいつい口走るのが、オクトの悪い癖だった。
「でも、筆頭にするなら、やっぱりジュンが適任じゃないですか」
カトレアはそこでようやく人間らしい表情に戻り、首をかしげた。眉根を寄せて不可思議にオクトに尋ねる。
「君、黒判様が今の、その、ジュンじゃないことを知っていたんだろう。彼は処刑されたんだ。よりによって魔女として。馬鹿げてるだろ。焼けた死体も、こいつが見たって言ってる」
しめた、このカトレアという男はジュンが女ということも、実は今朝方生きている姿で現れたことも知らないらしい。情報で優位に立てたとオクトは口を開く。
ウォルフは急いで振り返る。オクトが何を言うのか察しが着いたのだろう。振り返った額に汗が滲んでいた。
「こいつに余計なことを言うな。話がややこしくなる」
オクトは止まらず、口を開く。
「貴方はその死体を見たんですか」
カトレアは騒ぐウォルフを手で制し、オクトの発言を促した。
「うるせえ黙ってろ。すまない、どういうことだ。教えてくれ。俺はウォルフに話を聞いただけだから、実際に死体は見ていないんだ」
「今日会ったんですよ。ジュンに」
カトレアの目が見開かれると同時に、荷台が大きく揺れた。乗っていた二人と御者のウォルフは外に放り出され、地面を転がった。
馬が行き場を失い慌てるのを、森から現れた男たちが囲んで捕まえる。三人が立ち上がるまでに、見計らったかのように薄汚れた険しい顔の男たちが姿を現した。
馬車は物盗りの男たちが仕掛けた縄に引っかかり、横転したのだ。闇の中で武器を構える男達はあまりにも不気味だったが、オクトを除いた二人はケロッとしている。
「今日ノシメの港町を襲ったのはお前らか」
集団の中からリーダーが松明を持ち、問いただした。
「だったらなんだ。お前らは何者だ」
カトレアの言葉を男は笑う。
「俺たちは盗賊だ。あの町は俺たちが目をつけてたんだ。それを横取りしやがって。命が惜しかったら、奪った積荷を全部よこせ」
言い切る前に、カトレアの投げた槍が彼の顔に深々と刺さった。男たちがどよめく中、動きの遅い者からウォルフの剛腕で木に叩きつけられ、腸が飛び出る者もいた。
オクトは飛び交う血と肉片を前にして腰が抜けてしまう。凄惨な現場が終わると、二人は慣れた手つきで武器の血を拭っていた。
「立て」
カトレアが頬についた返り血を拭いながら単調に命令しても、オクトは震えが止まらず動けない。
腰の抜けたオクトを見て、ウォルフは舌打ちをした。
「出会った時のエイプルそっくりだ。愚図でノロマな臆病者。お飾りとはいえ、こいつを頭に置いていいものか」
カトレアは何も言わずウォルフの方を振り向く。
「それはそうとウォルフ。お前今日ノシメに行ったくせに、このガキが会ったっていうジュンと名乗る人物には会えなかったのか。その犬鼻は飾りか何かか」
ウォルフは不味いと思ったのかとぼける。
「さあな。そんなガキの言うこと信じるのかよ。俺たちは仲間だろう」
「都合のいい奴だな。普段は人を猿だなんだと蔑んでるくせによ。俺は知ってるんだぜ」
言い争いは静かに、だが終わるところを知らずに続いていく。オクトは呆然としていたが、ふと膝に小石が投げられそちらを向いた。
手を広げて喜ぶのを抑え、オクトは茂みに隠れるジュンを涙目で見つめる。ジュンは口元に人差し指を当て、オクトは小さく何度も頷いた。
「待て。臭うぞ」
ウォルフが鼻先を空に向ける。
「話をすりかえるな。今更鼻をきかせてなんになる」
「女だ。女の匂いだ」
ジュンは行かないでと首を振るオクトに会釈をして、茂みに隠れる。ウォルフが段々とオクトの近くに寄っていくと、遠くの木から一人の男が現れた。
カトレアは厳しい表情で尋ねる。
「誰だ」
波のようにうねる長髪を束ねているが、がっしりとした肩幅は隠せない。腰に皮の道具袋を下げた理髪師だ。
警戒するカトレアに手を伸ばして、近づくなと示す。
「私は通りすがりの理髪師です。どうか、命だけは」
「お前の鼻どうかしてるぜ」
カトレアがウォルフを貶す。一方でウォルフは理髪師が隠している片手に注目していた。
「武器を隠しているだろう。抜け目のない同胞だ。僕ちゃん」
ウォルフがニヤリと歯を剥き出しにして笑うと、通りすがりの理髪師を騙るスピカの額に汗が落ちた。
「待って。同胞なら、助けてくれよ」
スピカの懇願をウォルフは鼻で笑った。
「船でやってきたってことは、あの島の出身なんだろ。俺は島出身の同族が大嫌いなんだよ。覚えときな」
ウォルフが返り血のついた拳で斧を手にすると、地獄からの鬼を彷彿とさせた。怯えるスピカにオクトは何とかして手を差し伸べたいが、如何せん足が動かない。
スピカの視線が助けを乞うようにオクトに向けられる。カトレアが待てと鶴の一声を発せば、ウォルフはうんざり顔で振り向いた。
「今いいところだろ」
「こいつ、オクトの知り合いか」
カトレアがウォルフの横を通り抜け、スピカの前にやってくる。スピカはここぞとばかりに背中の短剣を抜いて襲いかかったが、カトレアが彼の顔面を拳で殴れば後ろに三歩ほどよろめいた。
膝から崩れ落ちるスピカを、ウォルフは哀れみを込めて見つめながら呟く。
「身の程知らずめ」
ウォルフが言うやいなや、カトレアは用済みとばかりに槍を構えて倒れる彼を突き刺した。オクトは思わず目を背ける。
スピカの背中から槍の切っ先が見えると思えば思うほど、怖くて目が開けられない。しかし、悲鳴は届かず。代わりにカトレアの焦り声が聞こえた。
「本当に誰だ」
恐る恐る目を開けると、そこには槍の柄を脇で挟んだジュンがいた。彼女の背後にはスピカが鼻血を流しながら倒れている。
「スピカ、剣だっ」
ジュンが叫ぶと、倒れながらもスピカが剣を渡す。そのまま彼女は刃をカトレアの頬に横凪に振りかぶった。頬に刃が埋まり、血が流れるがカトレアはビクともしない。脅しでかけた振りかぶりに、動じる素振りはなかった。
「やってみろよ」
カトレアの挑発には乗らず、ジュンは彼の腹に蹴りを入れると互いに距離をとる。
「ジュン。死ぬかと思った」
「泣くな」
情けなく涙を溢すオクトをジュンは叱咤する。そんな二人を
前に、カトレアは疑心の目を彼女に向けた。
なんと言っても、鉄壁の黒判騎士の名を灰色の女に呼び掛けたからだ。
「ジュン違いか。どう見たって女じゃないか」
困惑したカトレアは背後のウォルフを振り向くが、彼も煮え切らない顔をしている。
「何見てんだよ」
様子のおかしいウォルフだったが、カトレアは尋ねるしかない。
「俺は黒判様の素顔知らないんだよ。知ってるのはお前だろ。こいつはジュンか」
ウォルフの視線が泳ぐ。誤魔化していると言うよりも、彼自身判断がつかないようだ。
「えっと、ジュンにはよく似てる」
「本人だよ」
ジュンが突っ込むが、カトレアは苛立ちが止まらないのかこめかみに筋が立ち、今にも破裂しそうだ。
「どっちなんだ。はっきりしろ!」
「ジュンじゃない」
ウォルフが言い切ると、心なしかジュンの顔が暗く沈んだ。
「間違いないか。俺はお前の言葉を信じるぞ」
カトレアが念を押す。二人の連携が崩れている間に、ジュンは敵である二人の背後にこっそり逃げたハルシャに、早く行けと視線で指示した。彼女の匂いをウォルフは最初に感じ取ったのだ。ジュンが言い争う二人から視線を外していると、異変を感じたのか口論が止まる。
「どうした。さっさと結論つけたらどうだ。私が私であるか」
こちらに視線を誘導させようとしたが、カトレアとウォルフは背後に見える隣町に向かうハルシャに気づく。カトレアが叫ぶのと同時に、ウォルフが四つ足で駆けだした。
「その女を捕まえろ」
ジュンが前に出ようとすると、カトレアが槍を構えて進路を邪魔する。
「頼む。彼女は関係ない」
「助けを呼ぶのか、え。ジュンさん。ややこしい名前してんな」
そうこうしている間にウォルフはハルシャの背後に迫っていく。ジュンは切羽詰まった表情で諭すようにカトレアに話し掛ける。
「カトレア。君は貴族の末弟で相続権が低い。だからエイプル革命軍に参加して、自分の土地と家が欲しがった。それが従軍理由だ」
カトレアははっとした。それは確かに彼がエイプル革命軍に参加するとき、リーダーである黒判騎士に述べた内容だ。知っているのは黒判と、仲間しかありえない。カトレアは、逃げる女性を捕まえて抱えるウォルフを振り向く。
「君が黒判様だって言うなら、教えてみろよ」カトレアは構えを解かない。「生きていたなら、なぜ五年も姿を晦ました。なぜ俺たちに生きていると伝えてこなかった。あの人だったら、そんなことは決してしない」
決してな、と言い切ったカトレアの目には覚悟が宿っていた。するとジュンは彼の首根っこを掴んで引き寄せる。カトレアはあまりの突然なことに動揺してしまった。加えて動けずにいたのは、その曇った灰色の瞳の奥に深淵を見たからだ。
「君の覚悟に答えるのがせめてもの報いだ。今ここで果たそう」
ジュンはそのまま彼を地面に叩きつけ、微かに緩んだ手から槍を奪うと彼の首に向けて突き刺した。辛うじてカトレアは首を避けたが、動くことはできない。
動けないオクトと鼻血を流すスピカはじっとその様を見ていた。一気に形勢逆転だが、ジュンという存在が今は何よりも二人に恐怖を与えていた。
「くそ、離れろっ。ぐぁっ」
ジュンがゆっくりとカトレアの腹部に足を乗せて体重をかける。声をあげると喉が膨れ、槍の刃先に肉が食い込んで血が滲む。ジュンは静かに、淡々と見下ろしていた。
「田舎に引っ込んでいればまだ幸せだったものを。馬鹿め。こんな君の最期を誰が望んだ? さあ、言い残したことはあるか」
「俺は死なない。必ず黒判様の無念を晴らして、すべての罪ある者に償いを受けさせてやる」
威勢の良いカトレアの声が、ひゅっと上擦る。彼の目には、地獄の門番のような暗い瞳が映っていた。誰もが恐れる死を司る、曖昧な冷たい灰色。
「最期の言葉、しかと聞き届けた。力を抜け」
声が耳にすんなりと入り、体から力が抜き取られていく。カトレアは僅かな抵抗も出来ず、弛緩した脳はなにも判断出来ずにいた。振り下ろされる槍の切っ先がやけに遅く見えた。
「だめよ! 殺してはだめ!」
ハルシャの甲高い声で二人は現実に戻る。槍の動きが寸前で止まった。カトレアはその隙をついて逃げようとしたが、ジュンに足を踏まれ呻くしかない。
「カトレア!」
ウォルフがハルシャを抱えて二人に近づこうとするも、ジュンに睨まれて動けなくなる。ジュンは何も言わずひと睨みし、遂にカトレアも観念して目を閉じて死の慟哭に耐えようとした。
そんな中、ジュンに駆け寄る影が彼女の腹を背後から抱え込む。
「は?」
間抜けな声を漏らすジュンに構わず、呆然とするウォルフから離れたハルシャが彼女の体を抱え、持ち上げた。
「やめろって言ってんでしょ。この馬鹿!」
ジュンはそのままハルシャに持ち上げられ、背後の地面に背中を叩きつけられた。ジュンは槍を手からうっかり離してしまい、周囲は更に混沌とした状況になった。
沈黙を破るように鳩がホーと鳴く。最初に我に返ったのはオクトだった。
「な、何をされてるんですか、ハルシャさん」
ハルシャは立ち上がって服の汚れを払っている所だ。彼女はこの中の誰よりも冷静だったが、同時に突拍子もないことをしでかすのは明らかだ。
「この馬鹿を止めたのよ」
ジュンは地面に仰向けに倒れたまま動かない。その間に、カトレアは直ぐ様ウォルフの元へ走りよった。
「みんな固まれ! 危ないぞっ」
スピカが叫ぶと、オクトとハルシャが互いに身を固める。倒れるジュンの前に立ちはだかる形になったが、向こうの陣営も槍を構えて好戦的な体制を築いていた。
「ありがとよお姉さん。あんたのお陰で命拾いした。それとそこの坊やも、俺にオクトのことを教えてくれて助かったぜ」
カトレアは世間話でもするような口調だが、目だけはじっと獲物であるオクトを見据えている。緊張は解けない。
「え、スピカが何だって」
オクトがスピカの方を見ると、気まずそうに顔を逸らす。動揺を誘えた事実にカトレアはほくそ笑むが、ハルシャはきつい目線をカトレアに送った。
「なら私に免じて帰って下さっても宜しくてよ」
カトレアは微笑んだまま一歩も引かず、じりじりとにじり寄る。
「それは無理だ。オクトは俺たちの首魁になる。そうさせる。あの人がそうやって天下を取ったみたいにな」
「それってエイプルを頭に置いたジュンのことを言ってるのか」
オクトが口を挟むと、カトレアは槍を下ろした。ウォルフが嗜めても構わず、手を伸ばしてオクトに問いかける。
「オクト。遠くにいたお前にだって気づけたんだ。今の黒判騎士が偽物ってことぐらい。地方に左遷を食らった俺たちが気づいた時にはもう、本当のあの人は魔女として処刑されていた。その時には黒判様の瞳は灰色ではなく、栗色だったんだ。愚鈍な民衆は騙せても、俺たちは騙せない。お前もそうだろ? さあ、共に行こう」
狂気じみた瞳には、五年間の積もり積もった怒りと後悔、落胆と憎しみがごちゃ混ぜに移っている。しかし、オクトはその手を取ることはなかった。
「その黒判が、この人なんだけど」
オクトが指したのは地面に倒れる灰色の女。すると、ジュンは数度呻き体を起こすと、ハルシャを憎々しげに睨んだ。
「下が地面だったからいいものの、運が悪けりゃ頭打って死んでたぞ」
「貴方が私との約束を反故にしようとしたからでしょ」
「なにが」
「呆れた! 貴方忘れたの。用心棒契約した時に、殺人だけは絶対しちゃ駄目だって言ったでしょ、私」
冷静だったハルシャもヒートアップし、オクトとスピカは不穏な空気にソワソワしだす。その様子を見ていたカトレアとウォルフはひそひそとか話し出す。
「体勢を立て直した方がいいぜ。一旦根城に戻ろう」
ウォルフの申し出にカトレアは眉根を上げる。
「あらら、珍しいこって。お前が引くとは。俺としてはオクトをさっさとかどわかしてえんだがな。それにジュンって女は野放しに出来ねえ」
「オクトは別の機会を狙うぞ。あの女は、舐めてかかるとこっちがやられる」
普段は好戦的な彼の分析に目を丸くする。しかし、カトレアも先ほど命を落としかけたのだから納得するしかなかった。相手が気を取られている内に去るのが吉と様子を伺うと、ジュンが黙ってこちらを見据えていた。
二人の男は久々に背筋から血の気がさっとひく。ジュンがゆっくりと口を開いた。
「逃げれると思うなよ。私に会ったのが運の尽きだ。足腰立たなくなるまでズタボロにしてやろう」
ウォルフの腰を舐めるような悪寒と興奮がはしる。かつてボスと認めた女と瓜二つの、しかし全く別の匂いのする女。その声から、六年もの間服従と忠誠を誓った快感を呼び覚まされる。
「気色悪い」
横でにやけるウォルフを見て、カトレアは不快感を露にする。
「挑発するんじゃないの。お給金渡さないわよ」
ハルシャがジュンを嗜めたのを見計らって、カトレアとウォルフは闇になかに向かって去って行った。やがて足音が聞こえなくなり、四人の無事が確約された。空間に張り巡らされた緊張が解ける。
オクトは真っ先に倒れるジュンに手を伸ばしたが、先手を打ったのはスピカだった。しかも彼はカトレアを相手にした時よりも必死な声音で、顔を真っ青にしてジュンに詰め寄っている。
「やっぱりあの町にいたんだな、ジュン。ナシュの船が来た時になんで姿を現さなかった。せめて俺に会いに来いよ。こっちはあんたが島から出てから大変な目にあったんだ」
スピカがまくし立てても、ジュンはどこ吹く風だった。いっそ清々しいまでに。
「私はこの島の出身なんだから、帰るのは当然だろう。それにスピカにも言ったじゃないか、島には漂流しただけで長居はしないと。それになんでこの町にいることがわかったんだよ」
「そんなことはナシュに聞いてくれよ。兎に角、島に戻るんだ!」
スピカの気安い態度にも引っ掛かりを覚えるが、オクトはジュンが自分の知らないどこまに連れていかれるのではないかと危惧した。しかしそれは杞憂に終わる。
「悪いがそれは聞けない相談だ。今の私のご主人様はハルシャなんでね」
スピカは話足りないとばかりにジュンに罵声を浴びせるので、オクトは話しかけるタイミングを完璧に失っていた。宙ぶらりんな手を戻し、まだ微かに先ほどの恐怖が手の先の震えになって残っている。目線を外に移すと、腸のはみ出した男が絶命しており気が滅入った。
「貴方。怪我はないかしら」
するとハルシャが顔を覗いてくる。オクトは彼女の優しさが胸にしみた。
「いえ。ご心配おかけしました。助けに来てくれたんですよね」
彼女が微笑むと、花が咲いたように空気が明るくなる。
「お礼はジュンに言いなさい。彼女、血相を変えて馬車を追っていったの。ほぼ休まず走り続けてね」
嬉しいことを聞けて、つい彼女の方を見やる。ジュンは先程からずっとスピカと話し込んでいるが、談笑というよりもスピカの懇願といった感じに変わっていた。
「積もる話は隣町で。教会に泊めさせて貰おう。野宿よりマシだ。ノシメよりも近いぞ。歩きながら話そう」
ジュンはもう参ったという風で、スピカも口を噤んでその言葉に従った。言い合っても仕方ない。四人は深い森の中、隣町へ疲労を背負いながら歩くしかなかった。
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