騒動の香り

一方オクトはと言うと、人がならした林道を進んでいる所だった。

「ちょっと待ってよ」

振り返ると走ってきたのか息を切らすカリアがいた。オクトは彼女の手をすかさず取る。

「親方と一緒に船に行ったんじゃないのか」

「そうよ。でもすぐ帰ってきちゃった」

意気揚々と出かけておいてそれは無いぜ、親方。

オクトもカリアもすっかり呆れてしまい笑い合う。そして、林の奥を進んで行った。

「漁は大変だったの」

「そりゃあもう」

「色々話聞きたいわ。だって貴方がノシメの街を一ヶ月も空けるなんてなかったじゃない」

彼女の自宅兼司祭を執り行う教会に辿り着く。二人の手は、出会い頭で早々離れていた。彼女の手はもじもじと動いている。

「俺は一旦シランの屋敷に行くよ」

「お茶はどうかしら」

二人の言葉が重なり、カリアは怒りを通り越して唖然としている。

「貴方、まだ諦めてなかったの」

「諦めるって、なにが」

きょとんとするオクトに彼女は深いため息をついた。先程までのときめきは冷めてしまっている。

「もうシラン君の屋敷に行くのは止めなさいよ。彼、最近苛立ってるから。勘当している貴方の顔なんて見たら、何をしでかすか分かったもんじゃないわ」

「一ヶ月も空いてたら、流石に手紙の一通でも届くんじゃないかな」

「その、ジュンって人からの」

オクトは憧れの待ち人の名前を人の口から聞いた事で、興奮が高まった。

「ああ。毎日門の前で待ってても誰も来ないから。押してダメなら引いてみろってね」

カリアは何も言えない。彼は一体何を押して引いているんだ。独り相撲もいい所だ。

「そんな我慢比べしたって意味無いでしょ。いいわ、オクトが怒り狂ったシラン君に殺されないよう、私もついて行っていいあげる」

二人は並んで道を進むと、葉の隙間を縫って届いていた光が消え失せ、段々と道が暗くなる。カリアは寒気を覚えた。

オクトの後ろについていきながら、彼の手に恐る恐る手を伸ばす。あと少しで指先が触れるという所で、風が凪いだ。

はっとして手を戻す。その時、林の奥から視線を感じそちらを向くと、一対の白銀の獣の瞳を見つけた。

 美しくも恐ろしい、闇のなかに鎮座する一匹の山猫がそこにはいたのだ。その灰色の双眸に目を奪われ、カリアは凝視する。

「どうした」

オクトがカリアの横に移動して尋ねた。その時には、もうすでに何も無かった。ただ、木々に日の光が降り注ぐだけ。

「ううん。何も」

最近働き詰めで幻を見たのかもしれない、カリアはそう思うことにした。

「カリアは優しいね」

歩きながら、オクトがそんな彼女を見て微笑む。彼にその気がないと分かっていても、頬が熱くなる。彼女は火照りを冷ますために口を動かすことにした。

「ねえ、エイプル革命軍の巡礼の旅は知ってるでしょう」

オクトは頷く。

エイプル革命軍は六年前に圧政を強いた国家を転覆し、今の現権力者であるエイプルが率いる軍隊である。そして、その軍の中に黒判ことジュンがいた。

巡礼の旅とは、中央から離れられないエイプルの代わりに、これ迄の争いの罪を浄化するために各所を巡る清めの旅を意味した。

「この街も巡礼に通るんだろ。知ってるよ」

「だったら足繁くあの屋敷に通わなくてもいいじゃない。もうそろそろ彼らが来るわよ。すぐ会えるの」

オクトの足は止まらない。

「今の黒判騎士は、ジュンじゃない」

影の中で小鳥が鳴く。オクトの言葉を肯定するように軽やかに鳴いた。

「どういうこと」

 確証があるわけではなかった。だが、オクトには今活躍している黒判とジュンがどうも重ならなかったのだ。

「俺にも分からないんだけど」

 オクトは曖昧に笑う。そして、錆びた手入れの行き届いていない門の前に辿り着いた。門の奥に広がる庭は雑草が伸び切り、白かった壁は薄汚れている。その有様にオクトはたまらずため息をついた。

「ほら。誰もいないじゃない。ちょっと」

オクトは、門と鉄柵の間にある僅かな隙間に体をねじ込む。子供の時に黙って屋敷を抜け出した時の抜け穴だった。屋敷に侵入するオクトをそのままにはしておけず、カリアも仕方なくついていく。

「全然手入れできてないじゃないか。シランは何してるんだ」

 例え草木が生い茂ろうとも、幼い頃と変わらない風景だ。広い庭に出ると、今でもジュンと亡きランタナが稽古をしていた様を思い出せる。ジュンは初めて会った時から強かったが、ランタナの指導を受けて更に強くなった。元々、弟に指示を出すのが上手かったので、ジュンと弟の二人でランタナに戦いを挑めば、あの大柄なランタナでさえ片膝をつかせた。

「オクト、まずいって」

 カリアに声をかけられ、眺めていた庭から目を逸らす。そして、そのまま庭の隅にある鳥の飼育箱を覗く。中にあるのは羽毛だけだった。

「ランタナの伝書鳥も帰ってこないか。もう五年も見てないぞ。カリアは覚えてるかな、若い隼がいただろう」

「もう帰ろう。こんなことしたらただじゃすまないわ」

 彼女の焦りの混じった声に、オクトは笑った。彼女にはなぜオクトがここまで冷静なのかわからない。

「シランには後でちゃんと謝るから。あいつちゃんと仕事してんのかなあ、庭が荒れ放題だって後で言っとかないと」

「なんでそこまでするの」

 オクトは彼女の目を見る。カリアは怒っているのではなく、怯えていたのだ。オクトは彼女の肩に触れる。

「ごめん。俺の勝手で」

「いいの。私がついていきたかっただけだから。ねえ、オクト。もう昔とは違うのよ。ランタナさんもクラズさんもいない。シラン君と一緒に遊んだ頃はもう帰ってこないの。それに、私は会ったことがないけど、その、ジュンさんを、貴方はまだ信じて待ち続けるの」

 オクトは昨日のことのように思い出せる。夜空を見上げて誓い合ったあの日。もう一二年も前の話だ。戦に出ていったジュンに隼で手紙を届けることは何度もあった。しかし、ジュンからの返事は一通もない。

「信じるよ」

 オクトの淀みない答えに、尋ねたカリアの方が気圧される。そして、諦めたように肩を落とした。

「そうよね。私がこの町に来るよりもずっと前から、貴方そのことばかり言ってた」

 ふと屋敷の奥に、大きな男の影を見かけた気がした。見慣れないが、どこかで見たことがある気がする。気がかりになって足を前に出すと、カリアの細い手がオクトの胸に触れた。続けて。オクトの唇にそっと彼女のものが重なる。

 一拍置き、頭の中からすべてが吹き飛んでしまった。

「カリア」

 オクトは彼女の名を言うことしかできない。彼女は、優しい幼馴染の顔立ちから、艶やかな女性の顔になっていた。

「はしたない女でごめん。忘れて」

「まったくだ」

 オクトとカリアが声の方に振り向くと、若い眉間にしわを寄せた青年がずかずかと歩み寄ってきた。

「シラン、元気してたか」

 シランと呼ばれた彼は鼻を鳴らす。

「お母様に勘当されたくせに、よく侵入してくれたもんだ。あんたも、司祭の身分で接吻か。若い女はこれだから」

 カリアは恥ずかしくなったのか、顔を朱に染めた。

 シランが言っていたお母様は、オクトの亡き母クラズでは決してない。シラン自身の母親、デルフィのことだ。オクトは彼らに元々の住処を奪われた、と言っても過言ではない。オクトは冷静に対処する。

「悪かったよシラン。久しぶりにノシメに戻ったんで、はしゃいでたんだ。すぐ出るから、落ち着け。お前興奮すると発作が起こるだろ」

「兄貴面するんじゃねえ」

シランは唾を飛ばして吠える。二人の萎縮した様子に、怒鳴った本人であるシランも我に返る。感情をコントロール出来ないのがシランの欠点だった。

「悪い。君の母様が出てくる前に、俺たちは退散するよ」

「あ、ああ。そうした方がいい」

二人がそそくさと出ていくのを、シランは見えなくなるまで見ていた。

「言ったでしょう。最近シラン君は気が立ってるの」

オクトは弟のように可愛がっていたシランの変貌に少なからずショックを受けていた。近頃素っ気ないとは思っていたが、あんなに拒否されると嫌われているのは確実だろう。

「俺が無遠慮だったんだよ」

「そんなことないわ。元々、あの屋敷はクラズさんとランタナさんの家だったのに。それを、途中からかっさらったのはシラン君のお母様よ。クラズさんの妹だからって、図々しく家に押しかけた癖に。貴方を追い出して好き放題」

カリアは恥をかかされ怒りが止まらないのだろう。弟分への非難は当然だが、オクトは聞くに耐えなかった。

「もういいよ」

彼女を先に門の外に出し、オクトは名残惜しそうに屋敷を振り返る。彼が過ごした幼少期を詰め込んだ、愛しの家だ。目を閉じれば、微笑む母と隼の手入れをするランタナ、そして剣の稽古に励むジュンが瞼の裏に浮かぶ。ジュンの弟が呼びに来るまで、幼いオクトは彼女に夢中だった。

ふと、まだシランがこちらを見ていることに気づいた。直立不動のまま、服の裾を掴んでいる。

「あいつまた服にしわ作って」

思わずシランを気遣うような声がオクトの口から漏れる。最初、屋敷を追い出された時はひどく落ち込んだが、弟分は今でも十分可愛かった。泣いていたらよく頬の涙を拭ってやったのだ。簡単に嫌いにはなれない。

唐突にシランの頬に涙が流れ、彼が顔を伏せて屋敷に戻る。

「オクト。早く来て」

カリアの声が遠い。オクトはいてもたってもいられず足を踏み出した。

「シラン」

その時、ノシメ港町の方で警鐘が鳴った。けたたましい音にカリアは坂道から街を見つめ、オクトの足が止まる。

「こっちに来て」

戸惑う間にシランは屋敷に消えていってしまった。オクトは後ろ髪を引かれる思いだったが、門を出て眼下に広がる街を見た。

煙が所々から上がっており、街の中で馬に乗った男たちが我が物顔で蹂躙している。今にも悲鳴が聞こえてきそうだった。

「大変だ」

「行っちゃダメ」

街に行こうとしたオクトの前にカリアは立ちはだかる。

「街のみんなが危ない」

「貴方一人で何ができるの。教会に避難して。私は隣町から応援を呼ぶから」

カリアは颯爽と教会に走り、馬を出して遠くに消えていった。

オクトは彼女の背中が見えなくなるよりも早く、街のほうに駆け出す。下り坂は行きの道より早かったが、異常事態に胸が警鐘を鳴らして息苦しかった。

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