第9話  魔王が来たよ

 呉市津々浦町より30キロほど北部に位置し、複数の大学を擁するH市は、県外からも多数移住してくる若者人口に合わせてか、都市化も徐々に進んでいる。

 山々に囲まれた場所で、数十年前までは農村の名残が主立っていたため、未だ開発するに充分な土地も余っているようだ。ここ十年のうちに、大手企業による郊外型ショッピングモールも三つほど立ち並んだ。

 そのうちのひとつ、比較的最近できたモール内にある「楽器店」の前に…。

 一人のふくよかな、いや、ふくよかすぎる少年が立っていた。


 津々浦中学二年二組、池部将吾いけべしょうごである。


 体型のみならず、スキンヘッドに近い坊主頭で、パッと見かなり目立つ。その目尻の下がったつぶらな瞳が、店頭に展示されている電子ピアノに注視しているのだ。


 そして少年は、ゆっくりとピアノに近づき、椅子に腰掛ける。想定外の重量級の尻を積まれた椅子は、ギシギシと不安げな音をあげたが、彼はかまわず、その太く短い両手の指を鍵盤の上に添えると、やがて静かにメロディーをたどり始めた。

 不気味で物々しい、しかしどこか軽快さと愛嬌さのある音色。


 グリーグ作曲『山の魔王の宮殿にて』である。


 サウンドに沿って頭や体が連動して動くのを見れば、池部少年の弾き方が、妙に様になっており、初心者とはひと味違う貫禄が漂っているのが一目瞭然であろう。

 そうしたことからも、実は彼は別に「電子ピアノが欲しい」から弾いているわけではないのだ。

 すでに家には、ピアノも電子ピアノもエレクトーンもそろっている。要するに、親たちが食品の買い出しを行なっている間の、ヒマつぶしである。


 元・音大講師だった母親の影響でピアノを始め、約十年の腕前は「そこそこ」だと、本人は思っていた。

 一方で彼は、実はどちらかというと、ピアノ単体の曲より、フルオーケストラの交響曲が好きだった。今の『山の魔王の〜』も、元来は交響曲だが、ピアノ用にアレンジされたバージョンを弾いている。が、彼の脳内では、管楽器や弦楽器や打楽器らが、一斉に鳴り響いている、という次第なのであった。


 中でも好きなのは歌曲だ。代表的なところでは、定番の『第九』(ベートーベン)はもちろん、『野ばら』(シューベルト)、『春の声』(ヨハン・シュトラウス二世)などである。

 フルオケの中で歌ったりソリストとしてピアノを奏でる気分はどんなだろう。

 これまで孤独にピアノ練習に勤しんできていたが、他人と演奏するというのはどんな味わいがあるのだろう…。

 そんな想像が、彼のピアノ演奏を、素人離れした雰囲気にさせているのかもしれなかった。


 が、いずれにしてもこういった趣味は、どうもクラスメイトらの興味をひく対象にはなり得ないようで、


「へぇー、ピアノ? すごいじゃん」

「聴かせてほしいもんじゃね」


 とは言いつつも、誰も本気で聴こうなどというものは、かつていなかった。

 練習に練習を重ね、自信満々で臨む発表会。慣れないスーツに身をつつみ、意気揚々とステージに上がったところで、それを知るのは我が家族のみ…。

 それはそれで仕方のないことなのだが、


「自分は他の人と合わんのかもしれん」


 と、彼は強く思い込むようになっていった。

 いや、ピアノのせいだけではない。原因の一部は、家業であるかもしれないとも思っていた。

 祖父の代から続く「池部フーズ」は、牡蠣の仲買業者だが、冷凍食品工場も多数有している全国的に名の通った大手企業である。


「羽振りが良さそうで、うらやましいわ」


 そういった情報は身内からではなく、他人から言われ、知ったのだった。


 図らずも、彼は一人でいることが多くなっていった。

 今日のような休日の日に、遊ぶ相手もいない。

 平日も、学校の窓から外をぼんやり眺めては、給食時間を待ち焦がれる毎日だった。

 腹が満たされ、午後の授業に入ると、今度はふいに魔物が襲いくる。

 「孤独」という姿のない魔物である。

 学校の地獄坂を下り切るまで、ずっとつきまとう魔物。

 …これでは、山の上に建つあの校舎こそが、魔王の宮殿そのものではないか!


 ッジャンッ


 いやな気分とともに弾き終えたとき、両手の動きはかなりのスピードになっていたようだ。少年は一旦、手をブラブラと振り、大きい腹をさらに膨らませ、深呼吸した。


「すぅぅぅぅぅ、はぁぁぁぁ。よっしゃっ。もういっちょ!」


 今度は、冒頭から激しく弾き始める。


 ダダダダダダダダダダダダ

 ドデデドデデデッデッデッ


 シューベルトの代表曲でもある『魔王』。

 説明するまでもないが、馬上で高熱にうなされる子供が、朦朧とする意識の中で見た幻影を、父親に必死に訴える場面の名曲である。


 右手から繰り出す、スピード感のある高音の連打は、さしずめ疾走する蹄か、子供の鼓動を表しているのだろう。反対に、おどろおどろしい低音をかき鳴らす左手は、魔王の姿を映し出すようだ。


 少なくとも、真っ昼間のノホホンとした空気感の中で繰り広げる音楽でないことだけは、確かである。これじゃショッピングモール内が、ドーン・オブ・ザ・デッド感の方に包み込まれてしまう。

 が、池部少年にとって、その緊迫した曲調こそが、反対に鬱々とする気分を払拭してくれるようにも思えていたのだ。ショック療法というやつか。

 執拗に追ってくる魔王を振り切るべく、馬を疾走させる親子の姿が、そのウットリ閉じられた目の裏に、ハッキリ浮かんでいるのである。

 そしてそのとき、こともあろうにメタボ少年は、我知らず大声を発し、歌唱していたのであった。


「おとぉぉぉうさん、おとぉさんっ」


 どこぞの迷子のごとき叫びが、モール内にこだまする。こ奴、この瞬間、完全にシューベルトの世界に取り込まれているのだ。

 周りのショッピング中の買い物客らが、驚いた顔でその音の出処に注目し始める。

 そして少し離れたフードコートのかげから、アイスを持った三人の少年も、ジッと伺っていた。


「あいつ、モール内であんなデカい声で…。見てみぃ、人が集まって来たで」

「あぁ、池部フーズの御曹司さんっすか。まさかこんなとこで会うとは。へへへ」

「…曲、『魔王』。教科書、載っとった」

「あの体型と坊主頭じゃけん、ツノ生やしたら、むしろあの人が魔王っすね」

「あいつ、ピアノ弾けたんか。歌も歌えるんなら…この際、あいつ誘ってみるか」

「女性ボーカルが無理なら、あのくらい目立つ人の方がええかもしれんすね」

「よし。話しかけるで」

「ベンさん、朋絵さんのときとは、えらい違いっすね。へっへっへ」

「うっさい。それにしても曲がおおげさなほど、

 反比例してバカバカしく見えるけん、不思議なもんじゃ」


 ダッダーンッ


 演奏が終わると、


「おぉー」


 という声と、まばらな拍手が聞こえた。鍵盤から手を上げて振り向くと、いつの間にか年配の夫婦も、家族連れも、カップルも、大勢の人々が足を止め、魔王小僧の演奏を眺めていたのだ。


「だははっ、どうもどうもっ」


 池部は立ち上がって、坊主頭を撫でながら応えた。

 やがて人だかりが散り始めると、中から、三人の少年が近づいてきた。


「おおっ、石橋っ、島村っ。なんで、こがな所におるんっ?」

「池部、声デカい」


 ベンは恥ずかしくなって、遮るように言った。まったく、個人情報も何もあったもんじゃない。

 そして、声をひそめながら応えた。


「偶然、アサミ先生に会って、連れて来てもろたんじゃ」

「ほうかっ、先生はどこじゃ?」

「今、買い物中」

「ほうかっ!」


 ここで池部少年は、ことさらに明るい声になった。


「わしは親に連れられて来とるんじゃっ。どうせ、友達おらんしのっ!」

「友達おらんって…」

「クラシック好きなんは、珍しいけんの!」


 それは、クラシックとは関係なく、池部のデリカシーに欠ける、デカ声によるものなんじゃ…といいかけて、ベンは押し黙った。ツッコめるほど、自分も社交的ではない。情けなさではドッコイドッコイだ。


「…それより、池部。さっきの聴かせてもろたで。すごかったわ」

「ほうかっ、静かにやったつもりじゃったんじゃけどっ。だっはっは」

「それにお前、ピアノ弾きながら歌えるんじゃの」

「まぁのっ。ほんまは、オーケストラと一緒にやりたいんじゃがっ」


 その応えにベンはうなずいて、後ろの二人を少し振り返った。

 カカシもタッパも、オッケーの合図としてうなずいてみせる。

 これでベンも腹をくくった。優先すべき問題は、


 デリカシーにかける男 < 自分たちの人脈のなさ


 なのである。背に腹は代えられんというやつだ。


「実はオレら、バンドやることになったんじゃけど…。お前、ヒマじゃろ?」

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