第8話 カブトムシ・ドライぶ
「MAZDAっすね」
車が発進してすぐ、タッパがアサミ先生に尋ねた。
「そうそう。…えっと、黒澤くん?」
「はい、黒澤忠晴っす。自分、乗りもん好きなんす」
「ふふ」
そこへ、ベンが口を挟む。
「先生、土曜も毎週学校なんですか?」
さっきの朋絵のときといい今といい、後輩だけが女性と話し慣れていることに、納得がいかないのである。かつアサミ先生は自分の担任なのだから、下級生がしゃしゃり出てくる幕ではないのだ。
そんなベンの思いをよそに、アサミ先生はにこやかに応えた。
「まぁ、早く終わったけどね。君らの夏休みの宿題の準備が、ね」
「…あんまり量を出さんでくださいね」
「ははは、それはどうかな」
車中に冷房はかけられておらず、全席の窓がほぼ全開であった。シートベルトが、上着を着ていないアサミ先生の胸のふくらみを、にわかに強調している。ベンは気が気でなかった。シャツに透ける、その線は…ラインは…と。中学男子にゃ、いささか目の毒なのだ。
すると、そのポイズン・オブ・アイズ先生がたずねてきた。
「ところで、石橋&島村コンビはよく見るけど、後輩と三人連れは初めてだね」
「あぁ、これは、その…」
ベンはバンド結成について、言うべきか迷った。これはなにも、勉学がおろそかになる心配を与えまい…という、高尚な理由ではない。
できるだけ学校の連中には知られたくない、と思っている。さしあたって、漠然と目標と定めているのは、秋の津々浦中学文化祭だ。とつぜん完璧な演奏を披露し、モンキチや女帝らに一泡吹かせた上、みなを驚かせたいではないか。
だから、それまで誰にも話さない方が得策だ。ストーブ事件以降、噂話は「あっという間に広がる」ことも学習済みだし、もっと言えば、メンバーもそろってない現状では、格好もつかないではないか…。
なのに、
「バンド。やります」
「僕は、ベースやるんですよ。へっへ」
後部座席の二人があっさり打ち明けたので、哀れベンは愕然とするのみであった。
「へぇ、いいね!」
アサミ先生の顔が、パッと明るくなった。
「じゃあさっきの『ベン』とか『カカシ』は、ステージ・ネーム?」
学校で見るときとは、少し違う表情に見えた。
「いや、あの、まぁ、なんとなく。ははは」
「僕は『タッパ』っす」
「ふふ。ところで、どんな曲やるの?」
「…いや、まだなにやるかは…」
いかんせん、楽器もそろっていないから、何をどうするかもわかっていない。ただ「やるということだけ決まっている」状態を、ベンはやっと自覚したのだった。
「バンドって言うからには、やっぱりロックかな。私、ロック好きなんだ」
「アサミ先生が、ロック?」
聞いたことがなかった。
返答せず、先生は微笑んだまま、スタンドに立てたスマートフォンを操作する。と、カーオーディオからギター音が流れ始めた。次いで、ベースとドラムとが重なっていく。ラッキーストア店内の、有線放送で聴いたことがあった。
「この曲…」
「知ってる? ビートルズの、『Drive My Car』」
先生は併せて歌いだした。
さすが帰国子女の英語教師、相当のネイティブ発音だ。トーンは微塵のザラつきもなく透き通っており、吹き抜ける海風に溶け込むような涼やかさが、三人を包み込んだ。
「めっちゃ、うまいっすね!」
タッパが後部座席で声を上げた。 確かに、このルックスでこの声はズルい。ベンもその歌声に聴きほれていると、
「はい、ベン、サビ!」
アサミ先生が叫んだ。
「baby you can drive my car」
振るだけ振っておきながら、先生はかまわず歌ってご満悦だ。が、ベンは歌詞はおろか、メロディもほとんど知らない。顔が赤くなった。
「先生、英語の歌は、よぉわからんわ」
目の前の景色を見て、ごまかすのがやっとである。
「そうじゃ。ねぇベンさん。女性ボーカルってありじゃないっすか?
さっきの朋絵先輩を、ボーカルに誘ったら、バンドも人気出そうじゃないすか?」
タッパが、急に興奮気味の声を上げた。
「えぇ?」
「難しいかもね。あの子、今、絵を描くことしか考えてないから」
と、アサミ先生がにこやかに口を挟んだ。
「そうっすか…。じゃあ、例えば他にも、
二年にナナミさんって有名な美人もおりますけど、あの人はどうでしょう」
「ふふ。あの子は今、映画同好会の主演女優で撮影中みたい」
先生、かなりの事情通らしい。
「タッパよぉ、あんな学校のアイドルと、オレらがまっとうに話せると思うか?」
応えながら、自分で情けなくなったベン。ごまかすように、先生にたずねた。
「そういえば、三木さんをここまで連れて来たの、先生?」
「ううん。『電車で安浜の波止場に来た』って、メールがあってね。
…朋絵、二学期には学校出てこれたらいいんだけど」
「三木さんって、一年の時に街…市内から転校してきとるじゃないですか」
「そうね」
「学校に馴染めんのんですかね? 誰かに嫌われとるとか」
これは、にっくき女帝・キリコグループの存在を、暗に知らせようとする思惑があったのだが、
「まぁ、それぞれ事情もあるだろうからね。二学期からは多分、大丈夫だよ」
アサミ先生は、さらりと応えた。すると今度は、タッパが割って入った。
「二年の担任って、やっぱり大変ですか? ベンさんみたいな人らもおるし」
「ははは。それが仕事だからね」
「じゃけど、オレみたいな目立たん生徒のことまで、見る余裕ってないでしょ。
忙しいんじゃけん」
ベンは少し、意地の悪い質問をしたつもりだったのだが、
「ベンは、すごい想像力があるよね」
「ふへぇ…?」
阿呆の表情で応えるベン。
「一年の時、あなたが書いた『親友思いの文豪』って作文、
職員室で話題になってたんだよ」
「あれ、読んだんすか…?」
「うん」
「え、どういう作文なんすか?」
タッパの問に、うなずいたアサミ先生は補足説明を始めた。
「夏目漱石が自分の鼻毛を抜いては、机に丁寧に並べてたって、
有名なエピソードがあるんだけど。
ベンの書いた作文は、漱石がその鼻毛でカツラを作って、
親友の正岡子規にプレゼントしようとしてたって話」
…なんという失礼な。
とはいえ、後部座席の二人は、同時に吹き出した。
「漱石の猫が電気コードを噛み切ったら、子規の頭の光が消えた…。
ってシーンも、なかなかだったよ」
「へっへっへ、ベンさん、そんなん書いとったんすか」
「ま、まぁ。カカシんちの猫を見とって、思いついただけじゃ」
ベンが恥ずかしそうに応える。
「あぁ、俳句も良かったな。『なつめの実 池にはまって 坊っちゃんと』」
「せ、先生、ほんまによぉ覚えとるね」
「つまり、一見、関係なさそうなものをまとめられる想像力ね」
そしてアサミ先生は、バックミラーを見た。
「カカシは、黙ってクラスのこと色々やってくれてるでしょ。
たとえば…ほら、黒板消し。あれ、あなたよね」
カカシ、驚いてギョロ目をさらに大きく開いた。講義に熱中しすぎて、窓枠に黒板消しを置いたまま忘れる、社会科の老教師のクセである。それをいつも元に戻していたのが、カカシだったらしい。
「手先も器用だしね。技術・家庭の先生が仰ってたよ。
『島村が作った棚は、お金取っても恥ずかしくない』って。そうそう、
『ヤスリがけのときなんか、職人さながらの目をしとりました』って。」
黙ったまま、カカシは目をパチクリとまたたいた。
「やっぱり、それぞれの良いところがあると、私は思うけどね。
でも二人とも、もう少し英語にも力入れてくれたら、嬉しいんだけど」
チラと、横目に視線を投げかけるのである。なんだか少女のようなイタズラっぽさも感じられ、ベンは慌てて、流れる景色に目をやった。この人の担任のクラスになって数ヶ月だが、なんだかいまだに、よくキャラクターがつかめない。
車が山道に入ると、さらに景気のいいロック・サウンドが流れ始めた。
「先生、これは?」
「あぁ、これサビ聴けば、絶対知ってると思うよ」
アサミ先生は、ちょいとハンドルを切りながら、また歌い始めた。
「『イージーライダー』の曲っすね」
即座に、タッパが嬉しそうに言った。
「さすが、よく知ってるね」
「いつか、ああいうハーレーに乗りたいんすよ。へへ」
それからステレオは、立て続けにロックサウンドを流した。
「ドライブ用プレイリストでね。
さっき流れてたのは、スモール・フェイセズの
『Sha La La La Lee』。イギリスのバンドね」
曲が変わると、
「これは『My Sharona』。
ザ・ナックっていう、アメリカのバンドで、この曲は全米5週連続1位を…」
などと先生は曲紹介を挟みながら、ふと思いついたように言った。
「さっきのビートルズだけどさ。
ビートルの意味は『カブトムシ』ってことは知ってるでしょ?」
「はぁ、なんとなく。じゃけんビートルズは、カブトムシたちってことすか」
「でも昆虫の方のつづりは、b、e、e、t。バンドの方は、b、e、a、t。
つまり、リズムのビートとかけているわけね」
「ふぅん…カブトムシとリズムのダブル・ミーニングか」
「へへ、シャレてますねぇ」
ベンとタッパが、感心したようにうなずいた。
「ね。そう考えると、英語も面白くなってこない?」
「うぅん…そうかもしれんすね」
「じゃあ、宿題もいくらでもできるね」
「い、いや…。それとこれとは話が違いますよ。
もう、急に勉強の話をせんでくださいよ。せっかくの休日なのに」
ベンが先生に不満を言うと、流れ行く山道の林を背景に、アサミ先生はケラケラと笑った。
「ちゃんと教師っぽいでしょ?」
その横顔は、にくらしいほどあどけなく、「かわいい」と思えたのであった。
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