第7話  美少女と、ぶ少年

 夏休みを一週間後に控えた、土曜の昼時である。

 潮風の吹く田舎町に尋常でない気温と湿度が襲いかかり、頂点に達そうとする太陽も、いよいよ本気の熱を帯びてきた。

 瀬戸内の海面も、道路のアスファルトも、蒸されてユラユラ揺れている。


 そんな国道185号線の歩道を一列になって歩きながら、三人はキンキンに冷えた350ミリ缶のコーラを一気に飲み干した。


「あぁ、ほんまにうまいのぉ」

「染み渡りますねぇ。夏にはやっぱコーラっすね」

「…うまい」


 だが、爽快は永遠はでない。

 缶が空になると、あとに残るのは、うだるような元の炎天下となり、


「あっついの~」

「温暖化ってより、灼熱化っすね」

「……」

「ほんまに、やっとれんよの」

「夏って一番キライっすわ」

「……」


 ニーチャンにおごってもらったコーラのことも忘れ、現金な小僧どもなのだ。


「こがに(こんなに)暑かったら、誰も外に出んじゃろ。

 メンバー候補に会えるなんて、奇跡に近いで。

 なんでまた外に出ようって言ったんじゃ、タッパ」


 ベンは、すっかり先輩面してたずねた。


「ああでも言わんと、ベンさんとカカシさんじゃ、他に策はなかったっしょ?」

「うるさぁの」

「へっへっへ」


 軽口を言い合えるほど、タッパとの距離は、一気に縮まったようだった。

 皮肉っぽい物言いですら、ベンにとっては「こいつも、友達おらんじゃろうのぉ」と、親近感の増す要因となっている。

 モンキチという、共通の敵を見つけた効果とも言えようか。


「じゃけど、ベンさんもカカシさんも人脈ないけん、いらん苦労がついてきますね」

「言うな。哀しゅうなってくるわ。お前もじゃろ」

「…くく」


 カカシも、静かに笑っていた。


 頬に触れる生暖かい潮に導かれるように、三人は津々浦漁港までやってきた。

 約百メートル四方の波止場である。

 奥に向かって右側は、海面へ下る階段になっており、浮き桟橋を囲むように、地元漁師や牡蠣養殖業の人々の船が停泊している。

 海の中には小さい魚の群れも見え、休日だからだろう、二・三人、釣り人の姿もあった。


「ここの波止場って、いつ来ても無駄に広いですよね」


 タッパがそう言うのは、最奥に横たわる新しい防波堤のことを含んでいるのだろう。

 この津々浦漁港の堤防は、三年前の大型台風による被害の影響で、元々あった堤防にコンクリートを継ぎ足して増設していた。

 その結果、全長は六十メートル、幅十メートルとかなり大きいものになり、先端には、おニューでピカピカの赤色灯台も設置された。堤のコンクリートの素材感にも「まだまだ町に馴染めていない新米…」的な白さが残っており、それが田舎町の小さな波止場には、やや大袈裟に映るほどであった。


 さて、そんな赤色灯台のところに、海に向かって腰掛けるひとりの後ろ姿が目に入った。


「あれ…?」


 それが三人にとって異様に映ったのは、釣り人風の格好ではない、地元のおじさんでないことが明らかだったからだ。

 相手は、つば広の麦わら帽子をかぶっており、手元と正面の海とをチラチラ見比べている。

 どうやら、スケッチブックを広げて、絵を描いているようだ。


 目を引く理由はそれだけでない。

 背格好から、どうも自分たちと同じくらいの年頃であることがうかがえる。

 さらに。

 ネイビーのTシャツからのぞく細い首筋と腕が、


「おい、あれは…」

「女子ですねぇ」


 ということを、ハッキリ浮かび上がらせているのだ。

 海に投げ出す形でブラブラさせる足は、漁師町の風景には不似合いなほど、白い。


「同じ中学の人でしょうね。行ってみましょうや」

「えっ、まじか。なんでじゃ!」

「へへへ。もしやベンさん、女子苦手っすか。そりゃそうか」

「…………」


 退路が断たれたベン。


「じゃあ、話しかけてみるか…」


 無言になった三人は、ベンを先頭にして、体をかたくしながら防波堤にそろそろと近づいていった。

 サビついた短い階段をのぼって防波堤のヘリに足をかけると、すぐそばに停泊していた小型船の屋根からアオサギが飛び立って、少女の方に向かって飛んでいった。

 その羽音で、少女がこちらに振り返るか…?

 と、思ったが、よほど絵に集中しているのか、ずっとスケッチブックに視線を落としたままである。

 ホッとしてさらに近づいていくと、だんだんその人物の輪郭もはっきりしてくる。

 そこでベンは、声をひそめてたずねた。


「おい、カカシ。あいつ、もしかして…三木朋絵みきともえじゃないか?」


 カカシも静かにうなずいた。

 確かにその横顔のラインは、教室で見覚えがあるものだったのだ。


「よく見えませんけど、かわいいっぽい空気、出てますねぇ…」


 タッパが細い目をさらに細め、ヘヘヘと笑う。


「じゃあ二年ってことか。ベンさんあの人と、話したことあるんすか?」

「いや。同じクラスじゃけど、よくは知らん」

「そりゃそうでしょうねぇ。へへへ」

「お前…」


 もっともベンは、例のストーブ事件以降、特に女子と対面しながら話すのが苦手になっているし、まして三木朋絵は、一学期の途中から学校に来ていない「登校拒否」の女生徒である。まじまじと顔を眺めたことすらなかった。

 唯一、知っている情報は、朋絵が「一年の三学期に広島市内からやって来た転校生」ということと、最近では「女帝キリコらに目をつけられていた」…という噂くらいであった。


 そんなことをよそに、タッパが、


「ベンさん、同級生のよしみで、ちょっと話しかけてみてくださいや」


 と、肘でつつく。


「…お前の方が得意そうじゃろ、そういうの」

「なに言ってんすか。先輩でしょ、ベンさん」

「……」


 都合のいい後輩である。

 しかし確かに、ベンはここらで威厳を示したいとも思っている。バンド結成の首謀者であるからして、自分がリーダーであることに、カカシもタッパも依存ないだろう。

 ならばなおさら、なめられっぱなし、というわけにはいかんのだ。

 幸い相手は一人のようだ。キリコらカースト上位の「メジャー」連中よりかは、よほど話しかけやすいとも言えよう。

 どうやら、お絵描き少女じゃ耳にイヤフォンをつけているため、こちらの気配には気づいていないらしい。

 ベンは先陣を切って、相手のすぐ背後まで近づいていった。が、それから先、どうしていいのか分からない。

 そもそも、登校拒否の人間が、クラスメイトの地味男子のことを、覚えているのだろうか。「あんた、誰?」などと言われた場合、果たして返答できるのか。「キモい!」「怖い!」「セクハラ案件!」などと言われようものなら…。今後の学校生活に、多大な影響が及ぶだろう。

 中二で人生かけるには、リスクが高すぎはしないだろうか?

 …浮かんでくるネガティブ思想。ごまかすように、ベンは少女の肩越しに、そっとスケッチブックをのぞいてみた。


「あれ?」


 そこに描かれているのは、丸だの、三角だのといった、複数の幾何学模様である。

 抽象画というやつか。写生をしているわけではなかったのだろうか?

 訝しく思った矢先、朋絵がふっと息をついてイヤフォンを取り、スケッチブックを閉じた。驚いて、後ずさりするベン。

 その不穏な気配を察知したのだろう。ついに朋絵が、ゆっくり振り返った。

 が…。

 彼女の目に映るのは、強張った顔つきで「気をつけ」状態で固まる不審な小僧である。

 いくら日中の時間帯といえど、


「ぅわぁっ!」


 驚くなと言う方が無理なのだ。

 少し鼻にかかった丸みのある声が、防波堤周りに響き渡る。


 ベンは、ヤバいと慌てながらも、そこで初めてまともに、朋絵を真正面から見た。

 校内ではまったく気づいていなかったが、小ぶりな顔に、主張の強いそれぞれのパーツがくっついている。ハーフかと思えるほど「取ってつけたかのような」二重の瞳。その視線が、まっすぐベンを貫くのである。

 互いに押し黙った無言の空間に海風が吹いて、朋絵の帽子のつばが揺れた。そこからはみ出たショートの襟足は、日の光にさらされ、軽く茶色がかっていた。

 とはいえ少女は、異常な状況に面食らっているようだ。


「な…。なに?」


 その声に、我に返ったベン。


「あ、えっと…」


 何と応えるか。

 究極のコマンド選択である。

 だがこの小僧、こともあろうに、


「えっと、三木さん…よね?」


 問いに、問いで返したのである。

 クラスメイトとの会話としては極めて不自然だ。この場に審査員がいたならば、電光掲示板がショートし点数表示ができないほど、ダメな返答と言えよう。


「…こんにちは」


 朋絵は応える代わりに、急に落ち着いた声であいさつした。なんとか、ベンがクラスメートであることを認識できたようだ。

 後ろのカカシとタッパにも気がついて、会釈した。


「な、なんしょーるん(何をしているの)?」


 女子と話し慣れないベンの声は、かすかに震えを帯びており、質問は漠然としすぎている。「痛々しい男子」の模範例がここにあった。


「…絵を描いとったんよ」


 見りゃわかるだろ、と言いたげなトーンである。


「でも、そろそろ帰るとこなんじゃけど」


 そう言うと、朋絵は荷物をテキパキと片付け始めた。

 ここで引いてもよいものか。ベンはなんとか取り繕うとする。


「三木さん、家はこの辺じゃないよね?」

「うん。潮崎しおさきの方」


 潮崎は、津々浦町最西端に位置する地域だ。

 同じ町内ではあるものの、電車で一駅区間の距離がある場所で、その辺りに住む生徒らは「津々浦中央駅」まで毎朝、電車で通学している。

 この安浜やすはままでも無理をすれば自転車で来れない距離ではないが…、登り下りの丘もあり、相当の遠出となることは必至である。

 だから、このあたりに潮崎の人間が一人でいることは違和感が生じるのだ。


「わざわざ、こがなとこに来たん?」

「うん、スケッチしに。石橋くんらは、このへんに住んどるん?」

「まぁ…後ろの二人は、内ノ里じゃけど」

「知っとる人に会うとは、思っとらんかったわ」

「休日のこの時間は、散歩で通る同級生も多いと思うで。

 じゃけん、平日にくりゃええのに」


 言ってからベンは、しまった、と思った。

 まるで「登校拒否」を助長するような言い方になってしまった。


「うん。平日にくれば、えかったね」


 朋絵はベンの言い方を真似ながら視線をそらし、帰りたそうに腰を浮かせた。

 やってしまったベン。 もうそれ以上は、ボロしか出そうにない。一刻も早く離脱したほうがよいだろう。

 そそくさと踵を返そうとした矢先のことだ。


「こら、石橋堅司。女子の邪魔をしないの」


 よく通る、もう一人の別の女性の声が届いた。

 と、いつの間にか、カカシとタッパの隣に、我がクラス担任の、アサミ先生が立っているではないか。


「げっ、先生!」


 見慣れた白ブラウス・黒スラックス姿。土曜だから、きっと午前中だけ学校の仕事だったのだろう。


「どしたんすか、こがなところに」

「朋絵の絵を見に、ね」


 町はずれのパン屋の紙袋を手にしているところを見ると、車で来たらしい。

 もう一方の手は腰にやって、長い脚でスッと立つ姿。

 おろした長い黒髪が潮風になびく様は、三人の悪漢にからまれる少女を救いにきた「騎士」のごとしであった。


「はい、朋絵。『コッペパン』、好きだったよね」


 アサミ先生はスッと、朋絵に駅前のパン屋のものであろう、紙袋を渡した。


「絵の進み具合はどう?」

「もう少しです」

「そう。もうちょっと描く?」

「はい…そうします。先生、帰りは電車で帰るんで、大丈夫ですよ」


 ついさっき、帰ろうとしとったじゃないか…とも言えず、ベンは黙ったまま、アサミ先生の花のような香りに鼻腔をくすぐられ、ますます強張るほかなかった。

 助けを求めるように振り返れば、後ろの二人も、ボンヤリした顔で固まったままである。


「でも…遅くなったら大変だろうし、車で送るよ」


 こう言ったアサミ先生に、朋絵は少し笑顔になって応えた。


「大丈夫です。もうすぐ帰ります。着いたら、家から連絡します」

「そう。わかった」


 何かを察したように、アサミ先生は、


「じゃあ、君たち」


 今度は三人の呆然少年らに声をかけた。


「はい?」

「時間も早いから、東広島の方にでも連れてってあげようか?

 アイスくらいはおごるよ」

「え、東広島?」

「ちょうど買い出しもあったし。付き合わない?」


 北方面の山を越えた先の、別の市である。朋絵を早いところ怪しい男子集団から引き離し、一人にしてやりたいのだろう。


「東広島、めったに行けんですけんね。いいっすね、行きましょうや」


 タッパが嬉しそうに即答する。


「うん」


 カカシもうなずいた。


「じゃあ、三木先輩。僕、一年の黒澤です。以後よろしくっす」


 タッパは朋絵に、挨拶と同時に自己紹介した。軽々しい口調だが、ベンの失態と比較すると、雲泥の差と言えよう。


「うん。黒澤くん、じゃあね」

「タッパと呼んでください」

「行くで、タッパ」


 ベンは挨拶もせず、もと来た方へ、率先して歩き始めた。

 先には、アサミ先生の車が駐車してある。


「ふん、無愛想な女じゃ」


 誰にも聴こえないよう、悪態をついた。気がついたときには、ずっと手に握りしめたコーラの空き缶が、いつの間にかベコベコになっていた。


「いやー、なかなかきれいな人でしたね、へっへっへ」


 切れ長の目で複数回、朋絵の方を振り返りながら、タッパが感想を述べた。

 ライトブルーのコンパクトカーの前まで来ると、アサミ先生は車のキーのボタンを押した。


「はい、じゃあ乗って」

「あ、オレ車酔いしやすいけん、助手席にさせてもらうで」


 ドアを開けながらベンは、先程タッパが言った形容詞について考えた。

 同じ中学生の女子に対し「かわいい」でなく「きれい」という表現が若干引っかかったが、言い得て妙とも思える。

 そしてその言葉は耳にまとわりついて、すぐ立ち消えそうにもなかったのだった。

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