第5話 師匠とカミナリ
「……ぷっ、くくく。はっはっは」
帰宅したベンの不平不満を聞いて、若い青年がさもおかしげに笑った。
「メジャー・マイナーって、いいな。ははは」
「笑い事じゃないんよ。中学生にとっちゃ一大事なんじゃけん!」
「いいなぁ、楽しそうだなぁ」
「ちょっとニーチャン、真面目に聞いてぇや」
ニーチャンこと、
ベンの実家でもある「イシバシストア」の従業員である。
この国道沿いの老舗の酒店は、田舎町にも進出してくるコンビニ勢力への対抗策として、昨年ベンが中学に上がるのと同時期に大手酒屋チェーンの傘下に入り、ディスカウントストアとなった。
その際、建物の一階はすべて店舗に改築、住居部分と倉庫は二・三階に移動したのだが、父は遠方への配達も行うようになり、母は家事に追われたため、従業員募集して雇われたのが、この三十手前の青年だ。
二重まぶたから長々と伸びるまつ毛、スッと通った鼻筋。
店に来るお客さんが「俳優でもやっていそうな顔」と口々に言うことからも、美青年ということがよくわかる。
かつ、少年のような人懐っこさを兼ね備えた笑顔が、この光平ニーチャンの特徴で、
「まぁ、なんか飲んで、落ち着け。おごってやるから」
ニコやかに、店の冷蔵庫から飲み物を取ってくるように言うもんだから、ベンも怒っているのがバカバカしくなる。「さわやか」の代名詞のような青年なのである。
缶ジュースを手にして礼を述べると、ニーチャンはその分の小銭を、ちゃりんとレジに入れた。
「おい、ベン。これも食えよ。問屋さんの、四国旅行のお土産だってさ」
「坊っちゃん団子…」
言わずと知れた愛媛銘菓である。
ベンは少し前に、夏目漱石の「坊っちゃん」を読破したばかりだったので、タイムリーといえばタイムリーだった。
「小説の中じゃ、坊ちゃんは松山にええ印象持っとらんのに…。
なんで、坊っちゃんを冠に掲げとるんじゃろ。
それより、地元の正岡子規を取り上げて、『ホトトギス団子』はどうなんかね。
ウグイス饅頭みたいで美味そうじゃし、あのスキンヘッドも団子っぽいし…」
この小僧、日本を代表する俳人になんてことを言う…。
ともあれ、ベンはこういったヘリクツを、家族以外ではカカシと、この光平ニーチャンの前だけで、雄弁に話すことができた。
「弁ずる」ことから「ベン」と呼び始めたのも、この青年だったのだ。
「飲み食いしたら落ち着いただろ。じゃあ昨日の続き、やるか」
「うん」
ひっくり返してあるP箱に腰掛ける。
P箱とは、日本酒の大瓶などが入っているプラスチックのケースのことで、固さも丈夫だし、高さも椅子としてちょうどいいのだ。
それからベンは、隣のスタンドに立てかけてある、ギターを手にした。
メタリック・ブルーのボディが、蛍光灯の下で艶やかに光っている。
実は昨年から、ベンは店番の手伝いついでに、ニーチャンにギターを教わっていたのである。
店先でギター練習をすることについては、ベンの両親も承知の上だった。
この時間帯は客足も多くないし、アンプを通さないエレクトリック・ギターは極めて小音で、店内の雑音になるほど、うるさいものでもない。
また、光平ニーチャンの仕事ぶりも手際よく、信頼がおかれていることもあったろうし、読書ばかりだった息子が、家業も手伝いながら楽しげに話している様子に、やや安心しているのかもしれなかった。
一方、就寝時間はますます遅くなり、早朝ダッシュ改善への道は遠くなる。
二兎追うものはなんとやら、なかなか万事うまくはいかないのであった。
で、このギター練習の習慣は、もともとベンが気まぐれに、
「オレも、弾いてみたいのぉ」
と、つぶやいたことから始まった。
別段、音楽に興味があったわけではない。
たまたま仕事の合間にギターを弾くニーチャンの姿を見て、それがいかにも「かっこいい大人」と思えただけだった。
もっと言えば、乗じてモテたい、人気者になりたい。無自覚な承認欲求からくる衝動的な行動だったとも言えよう。
とはいえ、その習慣が一年も続いているのだから、思春期の衝動もいかんともしがたい。そのうちにベンは、先月、ついに広島市内の中古楽器店でギターを購入したのであった。
それまではニーチャンからの借り物だった。店番、棚出し、近所への配達などで貯めた小遣い、さらに今年のお年玉を全額はたいて、やっとの思いで手に入れた、自分だけの愛機である。
「ムスタング」
というモデルで、直訳すると「野生馬」。
少年はいつも野生馬を抱えながら、ニーチャンと話す。と、自分でも不思議なほど優越感に浸ることができ、かつ気分も落ち着いてくるのだった。
しかし…。
どうもこの日は例外だった。今日に限っては、学校で着火した怒りが、簡単に鎮火してくれそうにもない。
いや、鎮火したいとも思わなかった。
なにせ顔に飲みかけの牛乳をかけられたのだ!
…これほどの屈辱があるだろうか…。
ふと、ベンはギターを弾く手を止めてつぶやいた。
「ニーチャン。今日、クラスでギター持ってきたやつがおったんよ」
この件は、まだニーチャンに話していなかった。なにか口にするのがためらわれたのだ。
「へぇ。学校でギター弾いてるの、お前だけじゃなかったのか」
「うん。そいつはオレの大嫌いなやつなんじゃけど…。
じゃけど、かなり上手かった。いや…」
言いながらベンは気がついた。
「…オレより、だいぶ上手いみたいじゃった」
だから、言いたくなかったのか。
「すごいな。その子も、人知れず練習したんだな」
「…どうやら噂じゃと、学年のメジャー集団でバンド結成して、
文化祭にも出るって張り切っとるよ」
牛乳事件の後、クラス中がその話題でもちきりであったのだ。
しかしニーチャンの応えは、ベンの望んだものではなく、
「ふーん。バンドか。いいな」
至極、あっさりしたものだった。
「……………」
ベンは二の句が継げなかった。
—モンキチに、負けた。
と、敗北を自覚しそうで不安になるばかりであった。
悔しさに、惨めな思いまで上乗せされてしまいそうだ。
これは、おかしい。
テストの点が振るわなかったとき、母親に怒られたとき、早朝ダッシュしても遅刻してしまったとき。自分が落ち込んでいるとき、ニーチャンはいつも、自分を肯定してくれる唯一の味方のはずだった。
なぜ今に限って、ニーチャンはそっけないのだろう。
「あのねぇ、ニーチャン。そいつは小学生のとき、クラスの連中とグルになって、
オレを無視したことがある奴なんじゃ」
ベンはすがるように、思い出したくないエピソードまで持ち出した。
「最初は、ストーブの取り合いって、それだけじゃったのに」
—小四の冬の日のことである。
帰りのホームルームで、女帝キリコが、いきなり問題提起した。
「男子がストーブ占領して、いけんと思いまーす」
これに、当時のベンは、つい、反論してしまったのだ。
「トイレの鏡をいつも占領しとる人が、言えることなんでしょうか?」
早く帰宅して「ロビンソン・クルーソー」の続きを読みたいがために、イラだっていたのだ。
そしてこれが、マズい結果となった。
次の日からクラス中が結託し、ベンは徹底的な無視をされ続けたのである。休憩時間になると、自分の周りからあからさまに人が遠のいていった。こちらを指差しながら、何やら笑っている…というようなことも、しばしばだった。
「石橋のやつ、女子トイレをのぞいたんじゃない?」
根も葉も無い噂も立った。
トイレの鏡の話は、他の女子がコソコソと話していたことを、引用しただけだったにすぎない。
とはいえ、当時から女帝としての才分をいかんなく発揮していたキリコに、女子が加勢するのは仕方のないことだったかもしれない。
そしてその加勢は、それだけではなかった。
仲が良いと思っていた男子らも、無視攻撃に加担し始めたのである。
最もつらかったのは、そのキリコ加勢組の中に、モンキチもいたことだ。
その頃、モンキチはベンと相当に親しく、「モンキチ」「堅司くん」と呼び合い、互いの家を行き来する間柄でもあった。
仲が良いと思っていた友達に、自分は裏切られた。
それ以降、同級生とも積極的に付き合えなくなってしまった。
だからこそ、これまで目立たぬようにおとなしくしていたというのに、今日またとつぜん、一方的に「口撃」された。
ゆえに今のこの憤慨も当然だ!
…と、ベンは光平ニーチャンに、一息に訴えた。
で、どうも話が暗い方向に行き過ぎたと自分で気がついたのか、
「―あの頃、オレ自身がロビンソン・クルーソーみたいに孤立しとったんよ」
などと、適当に茶化して、話をまとめようとした。
ニーチャンに笑ってもらって、あるいは、なぐさめてもらおうとしたのだ。
が、ニーチャンの表情は動かなかった。
ベンは焦った。
思っていたのと、全然違う。
「じゃけどまぁ、オレの方もあんなやつらとは話もしたくないんじゃけど。
『話が通じん』って言われたけど、それはあいつらの方じゃろ?」
強気で言いつつ、またも相手の反応をうかがった。
しかし、やっと口を開いたニーチャンの応えは、やはりあっさりとしたものだった。
「ふーん」
ベンはそれから先、なにも言えなくなってしまった。
自分が何を言っていたのか、よくわからなくなる。
店先から聴こえる雨の音が、一段と強くなった。
ゴロゴロゴロ…と、雷がくすぶっているようだ。
客足も途絶えた店内に、二人の息遣いだけが残っていた。
ふいにニーチャンが、尋ねてきた。
「…でもお前、カカシ少年とも仲良いし、そのグループに毎日、
何かされてるわけでもないだろ?」
「ま、まぁね。女帝らのターゲットは、すぐ違うやつに移るけん。
小学校の無視攻撃も、実質一ヶ月くらいじゃったし、助かったよ。
今は別の女子が標的になっとるみたいで、そいつは登校拒否に…」
そのときだった。雷が近くに落ちたらしい。
ピカッと激しい光が差して、
ガガーン!
大きい音が鳴り、店内の照明が、不安げにチラチラと瞬いた。
驚いたベンはP箱から腰を浮かせたが、ニーチャンは微動だにしなかった。
夕闇の薄暗がりと蛍光灯の灯りが交互に切り替わる中、静かな笑みを向け続けている。
目の前の青年が、何を考えているのかが理解できなかった。
ベンは動揺した。少し怖いとすら感じた。初めてのことであった。
「…じゃあ、自分でも、やってみりゃぁいい」
雷鳴の残響にまぎれ、闇に響いたその声は、普段のニーチャンの口調と違って聴こえた。
「…え?」
ベンは狼狽しつつ、聞き返した。
「自分でも、やってみればいいじゃないか」
「バンドを…ってこと?」
「そう」
「…………バンド」
確かに、その発想はなかった。
いや、学校での人脈のなさを、無意識的に考慮していたのか。
「じゃけどオレ、友達少ないし…」
自分で言ってて、ベンは情けなくなった。
「それこそ、カカシはどうなんだ」
「カカシかぁ。あいつ、音楽に興味なさそうじゃし…」
「お前だって、音楽というか『ギターを弾く』って行為自体に興味持ったんだろ」
「そ、そうか…。うん、あいつ誘ってみよぉかの」
応えながら、ベンはそっと光平ニーチャンの顔を確認した。
安定を取り戻した蛍光灯の下には、いつもと変わらぬ笑顔があった。
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