第2話  たいぎぃ!

 その日の朝は、昨晩から降り出した雨がさらに激しさを増し、地面を強く叩きつけていた。


 だだだだぜっぜっ、

 ハァァァー、ぜっぜっ

 バシャバシャバシャバシャッ


 瀬戸内の海岸線沿いの国道185号線に、水たまりを踏み切る音と、荒々しい呼吸音が響く。

 走っているのが、ベン少年である。


 期末試験期間も過ぎ去って、学生たちが夏休みを待つばかりの七月上旬。

 天然パーマの髪と半袖のカッターシャツを、雨と汗とでビショ濡れにしながらの全力疾走は、パッと見、青春の一ページのようなドラマチックさもあるが…。


 事実は、そうでもなかった。


 斜めがけのカバンの中で教科書が揺れ動き、左肩にグイグイ荷重をかけるから、固定させようと、ストラップを両手でつかみながらの走行フォームは極めてぶ格好。

 折りたたみ傘もカバンに入っているくせに、まったく開く気配がない。少しでも空気抵抗を軽減するためらしい。

 役目をまっとうする機会すら与えられない傘は、雨でなく涙に濡れるほかないのだ…。


 何より、ベンの猛ダッシュの原因は、時間ギリギリまで布団から抜け出ない自堕落さゆえの遅刻寸前状態、つまり自業自得につきるのである。


「はぁぁ、ぜっ、ぜっ、…なんで、毎日、毎日…こんな目に…たいぎぃのぉ」


 呼吸の合間に、か細い声が漏れている。

 まったく「なんで」とは恐れ入る。被害者づらもはなはだしいのだ。


 ちなみに「たいぎぃ」とは、主に中国地方でよく聞かれる方言で、面倒くさい・つかれる、といった意味である。

 その点においては、毎朝、息子をドヤさなければならない母親の方が「たいぎぃ」に決まっているのだが…。

 こともあろうにこの息子、


「読書好きの親のせいじゃ。子供も、夜遅ぉまで本読む習慣がついてしもうとる」


 などと、遅刻を正当化するには極めて隙だらけな理屈をもって、親の育て方を恨むばかり。

 もはや「情けない」の代名詞と化すヘリクツ小僧に、同情の余地はないのであった。



 さて、ところは、広島県呉市・津々浦町。

 町の名産品は、カキとビワ。柿と琵琶ではなく、牡蠣と枇杷の方だ。

 海の幸と山の幸ということで、お察しのとおりこの辺りは、海岸線から内陸に向かって二、三百メートルも歩けば、もう山の麓に出る、という地形になっている。


 海も山も両方楽しめる環境―といえば、グルメ好き、アウトドア好きの方々の触手も動くかもしれない。


 が、過疎化の進む津々浦町に、牡蠣料理や枇杷料理を専門に出すような小洒落たレストランはなかった。

 特産品は季節になったら他所に出荷されていくくらいで、むしろ地元民には馴染みが薄い。


 また、無数の島が浮かぶ海の沖合には、牡蠣の養殖イカダが並び、地元漁師たちの小型船が頻繁に行き交うばかり。

 砂浜なんぞは隣町に行かないと見当たらないから、マリンスポーツを自由にできるような場所もない。


 山々の斜面には、ポツンポツンと民家やお寺の檀家の墓が立ち並ぶ程度。

 登山を楽しめるほどの標高や、乗り越えるほどの難所があるわけでもなく、遭難を心配するほどの深い森や谷があるわけでもない。


 コンビニは駅前と、隣町へのバイパスの入り口付近に一軒ずつ。

 家電や衣服類は、車で30分ほどかけて、別の街に出かけないとそろわない。


 要するに何もかもが、レジャーやエンタテインメントからかけ離れた、小さな港町なのだ。


 そんな環境下において、ベンの中学校までの登校ルートは、自宅から総距離1キロ半。

 中学生の足であれば、およそ徒歩15分〜20分程度だが、ベンは毎朝、始業まで10分を切って家を飛び出す。当然、余裕などなかった。


 そのくせ、親・教師たちの叱責や、クラスの連中の好奇の目にさらされるのは避けたいときている。だから焦りと不安のプレッシャーで、おのずと足が走り出す。

 そして、カバン重い・肩痛い・たいぎぃ…と、弱音形容詞の三段活用となる。

 明日は早く起きてみよう、明日こそは…という負のループを、ベンは中学に入って一年と数ヶ月、延々と繰り返し現在にいたるのだ。


 あぁ、反省という行為において、猿にも劣る人間がいる—と、ここに実証されてしまったというわけだ…。


 それだけではない。

 最もマズいことは、この小僧が、早朝全力ダッシュという苦行の中に、一種の「楽しみ」を見出していることに尽きるだろう。


 足音と呼吸音のリンクする様がそのひとつで、


 だだだだぜっぜっ

 ハァァァー、ぜっぜっ

 だだだだっぜっぜっ

 バシャバシャバシャバシャッ


「…これが世に言う、ランナーズ・ハイじゃろうか」


 などと思っているから、呑気が聞いて呆れるではないか。


 次いで、ハイになった脳内でゲームを始めるのである。

 歩道の数十メートル先に、


「オバチャリがあらわれた!」


 となると、第一ステージのバトル開始だ。

 道を通せんぼする、近所のおばさんがのんびり運転する自転車。毎朝、墓参りにでも行くのだろうか。これまで幾たびも対峙してきた敵であった。


 勝利条件はたったひとつ。

 オバチャリを、追い越すことができればよい。


 スピードは全力疾走のベンの方が速い。が、この日はあいにくの雨。半透明のカッパを着た相手は、普段にも増して安全徐行運転で、見事なディフェンスといえよう。「この先通してなるものか」という強固な意思が、相手をドン・キホーテの風車巨人さながらの、堂々たる体躯に見せているのである。


 そこでベン・キホーテは、車が来ないことを見計らいつつ身をよじり、一瞬、車道に片足をつくと、これは三角飛びの要領で、オバチャリの真横を走り抜けた。


 このテクニックを、こ奴は脳内で、「シャドウ・ラン」と名付けた。

 いや、中学二年ゆえの一種の病といえるだろう…。


 必殺技のえじきになった敵がキコキコとペダル音を立て、後ろに遠のいていくと、


「よっしゃ、まず一勝!」


 ベンは小さな喜びを感じつつ、内陸に入る道に、角度を変えながら突入していくのであった…。



 ネクストステージの難敵は、「地獄坂」である。

 津々浦中学校は小高い山の中腹に建てられているから、生徒らは日々、坂道の往復を強いられているのだ。


 坂は三段階になっており、まず東向きに100メートル。

 次に傾斜が少しきつくなって、西に向いて50メートル。

 この中間地点に、去年新築されたばかりの体育館があって、最後に30メートルの坂を北に登り切ると、やっと校舎にたどり着くことができる。


 絵に描いたような、急勾配のジグザグ坂道。

 これを「地獄」とはよく言ったものだが、きっとベンと同じように、登校時に地獄を見た生徒が、名付け親なのだろう。


 さて、地獄坂を見上げると(地獄なのに見上げるとは妙だが)、大量の雨水が滝となって斜面を滑り落ちてきた。走るのに劣悪なコースには相違ない。


 息切れもひどかった。さっきまでのゲーム感覚もさすがに大雨と疲労には敵わず、今ベンを覆うのは、ひどい倦怠感のみである。


「…ハァ、ハァ、…なんで、山の上なんかに学校建てとるんじゃ」


 何を言う。

 こうした地形の町ではよく見られる公共施設の特徴で、有事の際の避難場所にもなる大型の建物は、安全で目立つ場所にあってこそなのだ。


 が、そんなことは今のこ奴には聞こえまい。

 最後の全力ダッシュをかけなければならないので、呼吸を整える必要があるのだ。


「ハァ、ハァ、…ほんま、学校なんか、ろくなことがない」


 制服や髪の毛だけでなく、グショグショになったスニーカーすらアメーバ状となって体にまとわりつき、行動の自由を奪われていくようだ。

 しかしその一方で、こ奴はこんなことも考え始めていた。


「…アサミ先生も、雨に濡れとるじゃろうか」


 フォーマルな白ブラウスが似合う、担任の美人教師のことだ。

 彼女は車通勤だし、まさか遅刻寸前小僧のように、雨の中を猛ダッシュすることもなかろうが…。

 しかし、ベンの脳内におけるアサミ先生の濡れたブラウスは、ピタリと腕や背中に張り付いて、ほんのり白い地肌を透けさせているのである。


「よし!」


 それが唯一のカンフル剤になってか、ようやく坂を駆け登る準備ができたらしい。


 校舎までのラスト・スパート。

 さぞ凛々しく立ち向かうのかと思いきや、


「あぁぁ! ほんまに、たいぎぃのぉ!」


 口をついて出るのは、やはり不平不満だった。

 果たして本当に「たいぎぃ」のは学校か、あるいは、こ奴のことか…。


 だだだだぜっぜっ

 ハァァァー、ぜっぜっ


 素晴らしく無様なスタンディング・スタートを切って、妄想ヘリクツ少年は、絶え間ない雨水の激流に対し、逆走し始めたのであった。

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