コミュニケーション・ぶレイクダウン

古野典太郎

第1話  ぶ少年と、セミの声


 ジー…ジジー、ジー。


 背後から届く、途切れ途切れなノイズ音。

 少年は必死に思い出そうとした。この音、どこかで聴いたことがある―と。

 

 ジジジー、ジー…。


 思い出した。小学校時代の夏休み、おじいちゃんの家で聞いたのだ。

 慣れない布団の上で迎えた朝、窓の外に響いた「セミの声」である。


 あれは確か、まず一匹が控えめに、


 ジー…。


 と、探るように鳴き始める。その直後、ツマミの目盛りをジワジワ上げるように、二・三匹が呼応して…!


 ミーン、ミンミンミン!

 シャワシャワシャワシャワ!

 カナカナカナカナ、カナカナカナカナ!

 フィヨー、フィヨー、フィヨー、フィヨー!


 桁外れな「大合唱」の幕開けだ。


 合唱といえば聞こえはいい。が、あくまでその歌声は、オスからメスへの「へいへい、オレの女になりんさい」的、分別無視の猛烈コミュニケーションなのだ。

 眠りから叩き起こされたヒト科生物にしてみれば、盛りのついた虫野郎のアピールは、ただのノイズ音に相違ない。


 ミンシャワカナフィヨー!


「ぐぉぉ、うっせぇぇぇ! うっぜぇぇぇぇ!」


 と、こうなる。

 所詮、人と虫とは、わかりあえないということか…。


「う、ぐぅぅ…」


 そんな苦しい思い出に誘発され、少年の妄想は、さらに加速し始める。

 夏のサディスティックな目覚ましといえば、騒音だけにとどまらないではないか。虫どもがわめき始める時間帯には、太陽神様が降臨なさるのだ。

 ミンミンシャワシャワのファンファーレに乗せ、太陽神様は熱い、熱すぎるパフォーマンスを地球の民に見せつける。


 まぶたの皮なんぞ、容易く突破する熱光線!

 畳張りの客間を、サウナへ変貌させる熱暴走!


 ヒトひとりを鉄板上の肉状態にするに充分な熱量が降りそそぎ、「ジー…」は「ジュー…」へと語感を変えて、五感を拷問せしめるのである。


 いやはや、まったく、


「夏にろくな思い出はないのぉ…」


 と、彼はため息をつかざるを得ない。


「…いや、夏に限ったことじゃないじゃろ」


 少年はしみじみと考えた。


「これまでの人生、ろくな試しがあったじゃろうか?」


 そう、まさしく今だって。太陽光線に匹敵するほどの鋭い光に目も開けられず、身体中から汗が吹き出している状態なのだ。

 暑い、そして息苦しい。


「こりゃ、ほんまにヤバいかも…」


 彼は、脱水症状を心配し始める。


「もし…。この哀れな中学生が倒れた場合、どうなるんじゃろ」


 まず大人たちは、バケツで水を浴びせるか。いや、そんな古典マンガ的手法よりも先に、病院に連絡するだろう。瀬戸内海沿いの小さい田舎町に救急隊の出動だ。現場はパニック状態に。そして駆けつけた救急隊員たちは、横たわる少年の意識確認すべく、以下のように声をかけるのだ。


「大丈夫ですか?」

「あなたのお名前は?」

「ご年齢は?」

「ご趣味は?」

「好きな食べ物は?」

「好きな女子のタイプは?」


 新手のナンパ師のごとき、数多のクエスチョンが襲いくる。果たして正確な聞き分けと話し分けができるわけがない。

 で、しどろもどろになっている隙に、病院に運ばれるだろう。


 …病院は怖い!


 体中の毛穴から吹き出す汗の一粒一粒が、「不安」となって全身にまとわりつく。身震いする少年は、脳内の救急隊員になんとか取り繕った。


「はい、僕は石橋堅司。十四歳です」


 こんな自己紹介じゃ足りない。まともであることを証明せねば。


「はい、周りからは『ベン』と呼ばれとります。えぇ、本名が『けんじ』じゃけん、『ケン』ってあだ名になりそうじゃないですか? なのに『ベン』なんです。名付けたのは、ニーチャンです。その由来を語りますと少々長いのですが、そもそもオレが無駄に弁がたつ…というところから来ているそうです。無駄にって、失礼ですよね」


 加えて、趣味くらい応えておくほうが良い…と、思う。


「趣味は読書です。が、学校の国語は嫌いです。あと、直近の趣味というか習慣は、授業中に、机の削れた穴っぽこのとこに、消しゴムのカスを詰め込むことです。んで、餅をつくようにシャーペンでこねるんです。えぇ、これをいずれ練り消しゴムのようにして、再利用できるんじゃないかと思いまして…」


「うひゃぁ、この子、正気じゃない!」


 点滴の二、三本打ち込まれるだけでは済みそうもない。

 いや、意識確認はおろか、そもそもの問題点は…。妄想少年・ベンは、ゆっくり目を開けた。


 ―オレ、人とうまくコミュニケーションできんけんなぁ。


 一応の自覚はあった。


「じゃけん、オレが倒れたら、こいつらを頼るしかないわ」


 ベンはすがるように、自分の真横に顔を向けた。

 視線の先に、坊主頭のメタボリックが立っている。いや、改めて認識すると、同級生の「少年」とはいいがたい、「男」としか言えないような貫禄ある風体。あだ名はボンゴである。

 この男、こんなイカついナリをしていても、もし隣で人が倒れようものなら、


 ピロポロピレピレポロピレピレポロ!

 

 などと、白黒の鍵盤を、慌てて連打し続けるのが関の山だろう。白黒分からなくなるとは、まさにこのこと。根が臆病なこと、ベンはよく知っている。今もあのサングラスの奥で、つぶらな瞳がビクビクしているに違いない。


「ダメじゃ、こいつじゃ頼りにならん」


 続いてベンは、さらにその奥に立つ後輩に目をやった。

 いつも先輩をからかう不届きもの、タッパだ。その名の通り上背があるから、倒れたベンを、おぶって運んでくれるのではなかろうか。

 とはいえ、今の姿を見てみろ。直立不動、切れ長の目も泳いでいる。あぁ所詮は中一、まだまだガキんちょだ。

 そんなベンの見方に反論するかのように、


 ズボボボボボボボヴーンボベベベベ!


 と、唸っているのも、可愛いもんである。


「こいつも、頼れん」


 で、ベンの後方に座するもうひとりの少年。もっとも付き合いが長いクラスメイト、カカシである。こ奴は、目の前で人が倒れた場合、どうするだろう。

 普段は「会話」というのもおこがましいほどの無口が、緊急事態ではそのギョロ目をさらに見開いて、


 ズダラドダダドンドパラタシャーン!


 などと、激しい打撃音とともに、意外にもテキパキ動いたりするだろうか。

 いや…。カカシのボンヤリした性分が、急に変貌しようはずもない。


 つまり。


 トラブルが発生した場合、詰んでしまうというわけだ。

 誰も頼りにならないのだから、倒れるわけにはいかない。


「はて…」


 ここで、ベンは不思議に思った。

 先ほどから、ボンゴ、タッパ、カカシの三人が一斉に、こちらを凝視しているのだ。

 気味が悪い。新手のホラーか…。


 ジー、ジジー、ジー。


 ハッと、ベンは我に返った。

 さっきまでセミの声だと思っていたのは、自分の真後ろに備わる「アンプ」の通電音だったのだ!

 そして自分は今から、手元で弦振動を起こし、音を電気信号に変換せねばならない。左手はネックを横移動し、右手はピックの縦移動せねばならない。

 つまり、ベンはステージ上でギターを弾いている真っ最中だったのだ!


「や、ヤバい、ヤバい! こっから、何するんじゃったっけ?」


 妄想から覚めた脳内が、とたんに回転し始める。

 そう、今まさに、ライブのセットリスト一曲目を弾き終えようとしているところだった。


 ―ラスト一音の合図は、お前のジャンプだからな。


 師匠のニーチャンから、こう教わっていたことを、思い出した。

 リーダーであるベンの合図がなければ、みな演奏を終えられない。それゆえ三人が、そろって睨みつけているというわけだった。


「飛ばんにゃいけん!」


 と、ベンの左手が上がり、ギター・ネックを天高く掲げる格好になった。同時に、両足がステージ床から離れる。自覚した瞬間に体が自然と動いたのは、今年の夏休みの間、ほとんど毎日四人で集まっていた成果だろう。

 それはもう、うんざりするほどに…。


 そんな夏の記憶の片隅に、海の方を眺めていた女子が、こちらを振り向く姿が映った。瀬戸内の波止場に、ひとりぼっちでたたずむ少女である。

 ショートカットで、白く細い腕が大きめのTシャツからのぞき、胸の膨らみは控えめだが、人の心を見透かすような力強い二重まぶたを持つ女の子。

 そんな美少女と、ぶ少年のラブコメが現実に起きようとは、どの角度からも想像できない。いや、そんなことわかりきっている。


 だからベンは、少女の幻影をかき消すよう、


「なんで…」


 空中で、我知らず叫んでいた。


「なんで萌えキャラじゃないと、バンドやっちゃいけんのじゃ!」


 マンガだって、アニメだって、小説だって、映画だって。

 設定のわりに、キャラクターは決まって美男美女だ。


「オレらみたいな、ぶ少年の青春が…」


 それはまさに、


「存在したってえかろうが!」


 心からの訴えと言ってよい。


 まったく、いつもこうなのだ。

 いつもそんな風にして、妄想から現実に引き戻されるのだ。

 現実逃避もままならず、そしてまた、情けない気分に苛まれるのだ…。

 悲しみに暮れるベンが、不細工な着地をするのを、ぶ少年の仲間たちの視線が追ってくるのがわかった。


 ピロッ

 ボボッ

 ダダッ

 ジャッ


 同時に、曲が終わった。

 これまで大音量の渦中にいたからか。静寂に包まれた空間が、より静かに思えた。


 ジー…。


 再び、背後のアンプから、か細い通電音が届く。

 この日、初めて味わったスポットライトの光は想像以上の熱さだった。

 と、一筋の汗が、ベンの天然パーマの髪の間をぬって、目のすぐ側を通っていくのを感じた。汗は頬へ流れていき、あごで一瞬せき止められると、一粒の雫になり、引力に逆らえず、足元に落ち…。

 その一滴を受け止めるスニーカーに、感触があった。


 バシャッ

 

 もちろん、そんな大げさな音がするはずはない。が、ベンにはそう聴き取れた。

 それは、いつかの雨の日を思い起こさせる音だった。

 

 さて、ここから彼の記憶は、二ヶ月前の梅雨の時期まで遡るのである。

 ジー、ジジー、ジジジー…。

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