(5)

 僕はオフィスビルを出て、近くの停留所に向かった。車通りの多い国道沿いを歩く足取りは重く、スーツ姿のサラリーマンたちに次々に追い抜かれていく。時折、後ろから肩をぶつけられ、ブリーフケースを膝にぶつけられ、彼らはこちらを一瞥するも、結局は謝ることなく僕の横を通り過ぎていく。障害物の一部とでも思われているのかもしれない。そう考えると、ついため息が漏れた。

 清掃は時間内には終わらなかった。田村はあれから真面目に働いていたが、サボった分の仕事量をたった十数分で巻き返すことはできなかった。お前がトイレ掃除をもたもたしていたのがいけないんだろ、と彼は僕に言い放った。

 僕たちは田村の尻拭いに付き合わされた後、現地解散を言い渡された。普段は社用車で最寄駅、もしくは停留所まで送ってもらえるのだが、この日はなにしろ時間がなかった。彼はこのあとも別の場所で清掃の業務にあたるらしい。簡単な連絡事項を伝え終えると、彼は掃除用具の後片付けもせずにさっさと一人で更衣室へ向かい、自分の荷物をまとめ始めた。去り際に明美とまた何かを喋っていたようだが、おそらくは例のクリスマスイブのことだろう。僕はそれを横目に、彼の使った掃除用具を手早く片付けた。

 オフィスビルの外は強い風が吹いていた。頭上からは鋭い日差しが降り注ぎ、遠くで鳴く鳥の声が、信号機の色が変わったことを知らせてくれる。足元に落ちている一枚の枯葉は冬の到来を予感させた。あと数日も経てば十二月がやってくる。毎年この季節になると、もう今年が終わってしまうのかという寂しさに胸が苦しくなり、無慈悲に襲ってくる後悔が目の前の景色を暗くする。こんなことをついつい考えてしまうのは、身体が疲弊しているからかもしれない。やはり足取りは重かった。

「待って、太一くん」

 道の途中、明美に声をかけられた。

 僕は道の脇に寄って立ち止まり、後ろを振り返った。

「もしよかったら、このあと一緒に軽くご飯でもどう?」と彼女は言った。

 僕はポケットからスマホを取り出して時刻を確認する。画面には九時二十七分と表示されていた。このあとの予定はない。いいよと返事をしようとして、僕はとっさに口を噤んだ。たしかに空腹感は否めなかったが、いまはあまり人とも会話する気にはなれなかった。とくに彼女とは、どういう顔をして会話すればいいかもわからなかった。彼女が陰で僕のことを馬鹿にしているのではないかという不安は、いまだに頭の片隅に放置されていた。

 それでも彼女は執拗に僕をご飯へ誘った。

「すぐそこににあるファミレスでいいよね? 今日はすごく疲れちゃったから、どうせならゆっくりしていこうよ」

 僕はぶっきら棒に尋ねた。「どうしてそこまでしておれに構うの?」

「どうして太一くんは不機嫌なの?」と明美は返した。

「別に」と僕は答える。

 彼女はこちらの質問には何も答えてくれなかった。その代わり、彼女は僕の顔を不思議そうに見ていた。「何かついてる?」と尋ねたが、彼女は横に首を振るだけで口を開かなかった。しかしながら、その怪訝そうな瞳は「急にどうしたの?」と僕に問いかけているようだった。バイト中は普通に会話してくれてたのに、とどこか責めるような気配すら窺えた。

 僕は彼女の視線から逃げるようにスマホに目を落とす。電源を入れるとまた時刻が表示された。九時二十八分。声をかけられてから、まだ一分ほどしか時間が経っていない。いつの間にか遠くから聞こえる鳥の鳴き声は止んでいた。それと入れ替わるように車のクラクションの音が聞こえた。

 僕は胸の中にある釈然としない気持ちを、どうやって解消すればいいものか迷っていた。「きみは僕のことを陰で笑っているんじゃないの?」と直接的な表現で訊いてしまえば、きっと彼女はそれを否定するに違いなかった。だからこそ僕は核心の部分をわざわざ何重にも覆い隠し、不恰好に丸くなったその球を用心深く彼女の方へ放りたかった。ただ、それをまっすぐに打ち返される準備は、まだできていなかった。かといって、それを後回しにできるほど、僕はこの件に関して無頓着にはなれなかった。

「いいよ、とりあえず何か食べよう」と僕は返事をして、すでにファミレスへ向かって歩き始めていた明美の後ろをついていった。

 平日朝の店内は空いていて、僕たちは窓際の六人席を、誰の目も気にせずに贅沢に使うことができた。明美はチキンドリアとフライドポテトを、僕はハンバーグセットを注文した。そして去り際に「ドリンクバーはどうなさいますか?」と訊いてきた店員に、僕は指を二本立てて「じゃあ二人分で」と頼んだ。

 コップはあちらからご自由にどうぞ、と店員が手で促した先に見えたドリンクバーには、タッチパネル式の機械がひとつだけ設置されていた。明美は早速席を立ち、僕に向かって「なにがいい?」と尋ねた。

「じゃあ、コーラで」と僕は言った。

 おっけ、と明美は親指を立て、それからくるりと身体を反転させてドリンクバーへ向かった。その後ろ姿を眺めていると、僕は不意に、まるで恋人と一緒にいるみたいだなと思った。ないない、とすぐさまかぶりを振ってその勝手な妄想を振り落とす。いくらなんでもそれは彼女に対して失礼だ。せっかく彼女が、職場で腫れ物扱いされている僕なんかに気を使って(あるいは同情して)、ご飯に誘ってくれたのに、その厚意を都合よく解釈してはいけない。

 しばらくして、明美は僕の頼んだコーラと、おそらくは自分用の赤黒っぽい色味をしたドリンクの入ったグラスを手に席へ戻ってきた。指にはストローを二本挟んでいる。何事もなかったかのように正面に腰を下ろす彼女に、僕がそれは何のドリンクかと尋ねた。すると彼女は表情をひとつも変えずに「オレンジジュースとアイスティーを混ぜたやつ」と答えた。「知らない? 見栄えは悪いけど、これすごく美味しいんだよ」と彼女は続けた。

「こういうところは普段からよく来るの?」と僕は尋ねた。

 彼女はストローの片方をこちらに滑らせ、もう片方は自身のグラスに挿した。半分ほど入っていた氷がカラコロと音を立てる。そして中身をかき混ぜ、液体の色がどこも均一になるとストローに口をつけて勢いよく吸い上げた。彼女はそのまま三分の一ほど中身を減らし、それから僕の顔に視線を向けた。

「だいたい週に三回くらいは来てるかな。長いときは朝から晩まで一日中いたりもするし」

「へえ、なんだか意外だね」、僕はそう言ってコーラをストローで啜った。炭酸が乱暴に喉を引っ掻くように刺激を与え、軽くむせる。「てっきり明美ちゃんみたいな子たちは、みんな小洒落たカフェに入り浸って、写真でも撮ってるもんだと思ってた」

「はい、今の」と明美は言ってこちらに指をさした。「すっごい悪意を感じるんですが」、彼女は笑っていた。

「別にそういうつもりで言ったわけじゃないんだけど」と僕も笑う。

「はいはい、そういうのはいらないから」と彼女は言って、鼻先で飛び交っていたらしい小さな虫を手で払った。宙を見つめるその顔は、歌舞伎役者のように険しい表情をしていた。そしてようやく虫がどこかへ行ったのか、彼女は元の顔に戻して、もう一度焦点をこちらに合わせた。「でも実際、私と同年代の子たちはみんなそうやって楽しそうにしてるみたいよ」と彼女は言った。

「きみはそういうのとは違うの?」

 明美はオレンジアイスティーを吸い上げ、それから自分でもよくわからないという風に小首を傾げた。「別にそれが悪いとは思ってないんだけどね」と彼女は答え、テーブルの隅に置いてあった紙ナプキンに右手を伸ばした。そしてもう片方の手でグラスを持ち上げ、テーブルの上で丸く縁取られた水滴を紙ナプキンで拭いた。そのあとで彼女はもう一枚紙ナプキンを取り、今度はそれを半分に折りたたんでコースター代わりにグラスの下に敷いた。でも、と彼女は続ける。

「……私には他に頑張りたいことがあるから」

「頑張りたいこと?」

 明美は目を伏せ、ストローに口をつけながら小さく肯いた。どこか恥ずかしそうな顔をしている。僕はその反応を見て、訊かないほうがよかったかな、と少しだけ後悔した。別に言いたくなければ言わなくてもいいよ。そう言おうとして口を開いたが、それよりも先に彼女がグラスに挿したストローに息を吹き込み、オレンジアイスティーをブクブクと泡立たせた。僕は喉元までせり上がっていた台詞を飲み込み、そっと口を噤み、じっとそれを見ていた。

 下品だとは思わなかった。きっと僕のような人間がそれをすれば、確実に周りから嫌な顔をされるに違いない。しかし彼女の場合は、その端正なルックスもあってなのか、不思議とその光景さえも絵になった。細長い指で横髪をかきあげ、彼女はグラスの底を一点に見つめている。そこに大事な何かが沈んでいるかのようだった。

 僕は自然とスマホに手を伸ばし、いつの間にかその姿を写真に収めていた。

 シャッター音に気付いた明美は顔を上げ、目の前で自分に向けられていたスマホを見て、驚いたように目を瞠った。

「え、ちょっと、急に撮らないでよっ」、彼女はそう言って手で顔を覆い隠した。そして開いた指の隙間からこちらを覗き、「太一くんって真面目そうにみえて、意外と盗撮癖があったんだね」と言った。

「いやっ、違うんだ!」

 僕も自分で驚いていた。どうしていきなり彼女の写真を撮ってしまったのか。その強い衝動に駆られたという確かな感覚は、いまだに薄らと手元に残っていたのだが、何故そんなことになってしまったのか、という動機だけは自分でも判然としなかった。らしくないことをした──。それだけははっきりとわかる。

 可愛い女の子を、ないしは美しい光景を、衝動的に写真に収めたいと思う欲求は、おそらく僕でなくともほとんどの人に具わっている。しかし、だからといって誰しもが、何の躊躇いもなくシャッターを切るわけじゃない。大抵の場合、欲求とは相反する理性のようなものが瞬間的に作用し、撮らない、もしくは撮るか迷う。でも僕の場合は違った。それはどこか車窓から虹を見た時の感覚と近いような気がした。逃してはいけない──。きっとそんな深層心理が働いたのかもしれない。一瞬でも迷っている暇なんてなかった。

「ごめん、今すぐ写真消すから」、僕は慌ててそう言った。

 明美は笑って首を振る。「別にそこまでしなくていいよ」

「怒ってるんじゃないの?」

「このくらいで怒らないって。まあ、相手が田村くんだったら、さすがに殴ってるかもしれないけどね」

 僕はそれにどう反応するのが正解かわからず、とりあえず苦笑いだけ浮かべた。やがてその沈黙を図っていたかのように、女性の店員がチキンドリアとフライドポテトをテーブルに運んだ。ハンバーグセットはもう少し時間がかかるから、と彼女は僕に一言断わりを入れ、それから持ち場へと戻っていった。

 いただきますと胸の前で小さく合掌した明美は、しばらく手持ち無沙汰のまま放置されていた僕を見兼ねて、フライドポテトを勝手に食べるようと促した。彼女はその皿の縁に、備え付けのケチャップを半分ほど盛った。手元のチキンドリアからは白い湯気が立ち上っている。こちらにも香ばしい匂いが届いた。彼女は猫舌だったのか、スプーンで掬ったドリアに何度も息を吹きかけ、入念に冷ましていた。それを口に運んだ彼女は、ハフハフと口から小刻みに湯気を逃し、無事に飲み込むと「おいしっ」と独り言のように呟いた。

 僕は摘んだポテトを先っぽの方からこまめにかじり、明美の食事シーンに見入っていた。ついさっきも思ったことだが、彼女の場合は何気ない行動一つとっても、それが絵になってしまう。これまでに、彼女はどれほど多くの異性から言い寄られたことがあるのだろう。そんなことがふと気になり、何故だか少しだけ気分が沈んだ。しかし、それとは相反するように、好奇心はみるみるうちに膨らんでいった。僕はそれをぐっと力強く押さえつけ、咀嚼していたポテトと一緒にそれを飲み込んだ。僕なんかが一体何を気にしているんだろう。

 ポテトを三本ほど食べ終わった頃に、ようやく僕の手元にもハンバーグセットが届いた。先ほどと同じ女性の店員は、丸めた伝票を透明の伝票立てに差し込み、「ごゆっくり」と丁寧なお辞儀をしてからテーブルを離れた。

 僕がその後ろ姿をなんとなく目で追っていると、「もしかして、ああいう人が好みのタイプなの?」と明美は尋ねた。

「違うよ」と僕は慌てて首を振った。「ただ、真面目で一生懸命な人だなって見てただけ」

「それを言うなら、太一くんだってすごく真面目で一生懸命な人だと思うよ」

「真面目で一生懸命なんてものは、結局社会じゃ何の役にも立たないけどね」

「そんなことないでしょ。むしろそれって一番大事なことじゃない?」

「馬鹿にしてるでしょ?」と僕は言った。とっさに口角を持ち上げ、向こうから見て不自然たと思われないような表情をつくる。「いいよ、正直に言いなよ」

「馬鹿になんてするわけないじゃん」と彼女は言った。

「どうだか……」、僕はその言葉を素直に受け止めることはできなかった。

 僕の素っ気ない反応が面白くなかったのか、明美は口を尖らせてこちらを細い眼差しで睨みつけた。しかし、「ほんとのことなのに」と言い放ったその言葉ですら、僕は信じることができなかった。きっと彼女は嘘をついている。あるいは、僕に気を使っているに違いない、とついそう思ってしまう。

 だからこそ、どうしても彼女の本音を聞いてみたいと思った。僕のことを全て知ってもらった上で、彼女は改めてどんな反応を示すだろうかと興味がわいた。怖くなかったわけじゃない。むしろ不安ばかりが頭の中で渋滞していた。軽蔑したような冷たい視線を向けられるかもしれない。もしくは、つまらないとはっきり言われてしまうかもしれない。

 それでも僕は、心の片隅で、彼女が自分のことを受け入れてくれるのではないかと期待していた。彼女の言葉を信じたいと祈る、情けない僕がそこに立っていた。そうでなければ、わざわざ身を削る思いで昔話を披露したりなんかしない。僕は決して面白くはない身の上話を彼女に語った。つまらなくて、情けなくて、惨めで、平凡な遍歴を、たった一枚の履歴書にまとめるみたいに、無駄な言葉をできるだけ削ぎ落として話した。

 彼女はそれを黙って聞いていた。

「努力は必ず報われる。その言葉をずっと信じて頑張ってきた。勉強して有名な大学に入って、有名な会社にも入ることもできて、最初は全部が上手くいってて浮かれてた。でも、現実はそんなに甘くなかった。勉強と仕事はずいぶんと違ったんだ。おれは全く仕事ができなかった。最初に入った会社では、若手だから仕方ない、ってある程度のミスは許されてたから、なんとか誤魔化すことができてた。いや、実際には誤魔化せてなかったのかもしれない。でも、あることがきっかけでその会社を解雇されてからは、おれの仕事のできなさが至るところで露呈し始めた。それに周りは続々と失望していった。いつも一生懸命頑張ってはいたんだ。でも、その頑張りはずっと無駄なことだったらしい。再就職した会社のある後輩に指摘されて、ふと気付いたんだ。ああ、いままでの努力って、ただ時間を浪費してただけだったんだって。そしたらさ、いつの間にか働く気力もなくなっていって、気付けば無職になってて、いまは歳下の田村くんにへこへこしながら汚い便器を磨いてる。おれみたいに要領の悪いやつは、どんなに見栄えをよくしようと頑張っても、いつかはメッキが剥がれ落ちるみたいに実力が見えてきて、いずれは社会から必要とされなくなる。反対に、田村くんや前の会社の部下みたいに生まれつき要領のいい人たちは、たとえ有名な大学を出ていなくたって、有名な会社に入っていなくたって、社会からはちゃんと必要とされる。結局、この世は努力じゃなくて才能で優劣が決まるんだと思うんだ。もちろん、世の中の努力すべてを否定しているわけじゃないけど、おれの場合、努力で報われるほど有能じゃなかった」、僕はそう言って明美の顔をまっすぐに見つめた。「どう? これでもまだ、真面目で一生懸命なことが一番大事だって思える?」

 明美はしばらく何も答えなかった。いつの間にか飲み干していた空のグラスに残った氷の残骸を、ストローで優しく撫でるようにゆっくりとかき混ぜた。そして、底に溜まった溶けた水をたまにストローで吸い上げ、ごろごろと品性に欠ける音を立てた。とはいえやはり下品には見えなかった。いまその光景を写真に収めてしまえば、おそらく今度こそ怒られるだろうな、と思いながら僕は黙って彼女の動向を眺めていた。彼女はいったいどんな言葉をくれるのだろう。

 やがて彼女は思い立ったようにフライドポテトを二本同時に指で摘み、ケチャップをたっぷりとつけて口へ運んだ。時間をかけて咀嚼し、それから何回かに分けてそれを飲み込む。

「ドリンクのおかわり、いらない?」と彼女は尋ねた。

「あ……、じゃあお願いします」、僕はほとんど反射的にそう言ってグラスに残っていたコーラを飲み干し、空になったグラスを彼女に渡した。予想外の問いに僕は拍子抜けしてしまっていた。

「なにがいい? 同じのでいい?」

 僕は肯いた。それから明美は席を立ち、ドリンクバーへ向かった。戻ってきた彼女は、またしてもコーラとは別に、自分用のオレンジジュース入りアイスティーを手に持っていた。僕は礼を言って彼女からグラスを受け取る。そしてテーブルの上ですっかりその存在を忘れ去られていたハンバーグに手をつけ、コーラと一緒に肉の脂を胃の中へ流し込んだ。

「私の実家、自営業をやってるんだけどね」と彼女は何の前触れもなく唐突に語り始めた。短いセンテンスで細かく区切り、そのあいだにスプーンで掬った一口大のチキンドリアを口へ運びながら話を続ける。「両親はずっと、将来は私がその店を継ぐものだと思ってたらしいの」

 僕はハンバーグを食べていた手を止め、彼女の話に耳を傾けた。

「食べながら聞いてよ」と明美は言った。「別に大した話じゃないから」

「わかった」と僕は返事をしてフォークを握った。

「でね」と彼女は続ける。「大学一年生のときに本気でやりたいことが見つかって」、相変わらず彼女はチキンドリアを大きな一口で頬張っていた。「大学を卒業するタイミングで両親を半ば強引に説得して、いまもそのやりたいことを続けさせてもらってる。たぶん両親はいまだにそのことを快く思ってないでしょうね。定期的に『いつになったらこっちへ戻ってくるんだ』っていうメッセージが届くくらいだからね」

「それがさっき言ってた、頑張りたいこと?」

 彼女は僕の問いに肯いた。そして自嘲するかのように鼻を鳴らし、軽く首を横に振った。「でもね、それがぜんぜん上手くいってないの。もう来年で十年になるんだけど、それはもう恥ずかしいくらいに結果が出ない」

「そうなんだ」、僕はできるだけ普段通りの相槌を意識した。彼女が「大丈夫だよ」なんていう慰めを欲しているわけではない、ということは理解できた。浅はかな同情ほど相手を惨めな思いにさせるものはないと、僕は身を以て知っていたからだ。

 明美はチキンドリアを何度も何度も咀嚼し、やがてそれを勢いよく飲み込んだ。「でもね、今年はもしかしたらいけるかもしれない」、彼女はそう言ったあとに恥じらい、苦笑いを浮かべた。「まあ、毎年そうやって思って頑張ってるんだけどね」

 僕は彼女の顔を極力見ないように、ハンバーグに目を落とした。見ないでと言われたわけじゃないのだが、なんとなく、もしも彼女が自分だったら、その表情は見られたくないと思ってしまう気がした。

「私が戦ってるところはさ、こういうご時世になった現代でも、いまだに男社会が色濃く残ったままだし、女ってだけで軽んじられることだって少なくないの。それに、こういう見た目をしてるから、『っぽい』とか『っぽくない』っていう勝手なイメージに縛られて、したいことをやらせてもらえない、なんてことは日常茶飯事で……。いくら頑張ったって評価されないことの方が多いし、反対に、頑張ってない人たちが自分たちよりも評価されることだってある。そのたびに、この世の中が決して公平につくられていないことを思い知らされたような気がして、無性に泣きたくなる。こんなに頑張ってるのに、どうして私は報われないんだって。周りの友達は続々と結婚や妊娠をしていく中で、私はいったい何をしているんだろうって、焦ることだってある。もうこんなことは辞めて楽に生きた方がいいんじゃないか、って思ったこともある」、明美はテーブルのある一点を見つめながらそう言った。そしてやがて顔を上げ、僕の顔を見て続けた。

「でもね、私はやっぱり、手を抜いていつか後悔するくらいなら、やれるところまで一生懸命頑張ってみたい。たとえそれが、結局は後悔する結果を招いてしまっても、心の底から欲しいと思えるものに対しても全力で手を伸ばせない人になるよりは幾分かマシだと思うから。だって、そこで一生懸命になれない人は、たぶん何をやっても中途半端に終わるに決まってる。『本気を出せば──』って言うやつって、結局は本気を出せない臆病者なのよ」、明美はそう言って最後に笑ってみせた。あいつみたいにねっ、と。その瞳の奥には、テコでも動かない堅い意志のような彼女の逞しさが垣間見えた気がした。

 僕はその顔につい見惚れていた。

「一生懸命って怖いものだから、一生懸命って勇気がいるの」と彼女は言った。

「……どうして、きみはそこまで強くいられるの?」

「知りたい?」

 明美はそう言って、何か悪いことでも企んでいるかのように、にやっと笑った。そして僕が肯く間もなく、彼女は口を開いた。「それはね、いつも近くに、何事にも一生懸命に、真面目に頑張ってる人がいてくれるからだよ」

 まっすぐに向けられる彼女の視線を、僕は正面から受け止めることができなかった。恥じらいはたしかにあった。ただそれよりも、僕は彼女の眼差しをきちんと受け止められるほど、自分のやってきたことに自信が持てなかった。あるいは、恐れていたのかもしれない。彼女は僕にとってはあまりに眩しくて、偉大で、かっこよくて、憧れの存在だった。そして誰よりも嫌われたくない人だったから。

 僕は黙ったままコーラに手を伸ばして一口飲んだ。いや、正確には何か言葉を発することが怖くて、コーラに逃げた。炭酸が不意に喉を引っ掻き、僕はむせる。ほらやっぱり。思い上がるのも大概にしておいたほうがいい。この世の万物がそれを勘違いだと言っているような気がした。

「クリスマスイブは空いてる?」

「えっ?」、僕は思わず大きな声を出した。そして慌てて平常心を取り戻し、軽く咳払いをした。「空いてるけど。でも明美ちゃんは、その日は予定が入ってるんじゃないの?」

「まあ一応ね。大事な予定が入ってるの」と彼女は言った。

「……ああ、そうなんだ」

 僕の淡い期待は線香花火のように一瞬だけ明かりを灯し、宙を弾き、ぼてっと情けない音を立てて地面に落ちた。やがてそこには空虚な暗闇だけが残った。

「でもちゃんと空けておいてね」と明美は明るい口調で言った。

 何のために、とは言わずに僕は静かに肯いた。元々、クリスマスイブを埋めてくれる予定なんて僕にはなかった。


 言われた通り、僕はクリスマスイブに何の予定も入れなかった。そしてやはり明美から連絡がくることもなかった。僕は一日中、家の中にいた。

 夜になってふとテレビを点けると、漫才の日本一を決める大会が放送されていた。僕はビールを片手に、それを何気なく眺め、出場者ごとに独自の点数をつけながら暇を潰していた。

 八組目の出場者がテレビに映ると、僕は目を瞠った。いつもの作業服姿とは違い、グレーのスーツを身に纏ったその姿は、さながら戦闘服を着たヒーローのようにも見えた。出囃子が鳴っているあいだに階段を駆け下り、センターマイクの前に立つ。マイクの高さを合わせている動き一つとっても、やはり彼女の場合は絵になった。

「どうも〜。タツの子ですっ」

 狩野明美は堂々として舞台に立っていた。

「いやあ、実は最近、釣りにはまってるんですけどね」と彼女は言った。

 僕はしがみつくようにテレビの画面を見つめていた。一瞬たりともその雄姿を見逃さぬように、目を大きく見開いて瞬きをやめた。会場から笑いが起こるたびに、胸が熱くなる。審査委員の笑っている顔が画面に映るたびに、目頭が熱くなる。僕はいつかの空虚な空の下に立ち、誰にともなく踏み潰されていた線香花火の燃殻を拾い上げた。その淡い期待の正体は、見えずともわかりきっていた。それをこれからも決して失くさぬようにと、大事に胸ポケットへしまった。

 やはり彼女は、僕にとってはあまりに眩しく、偉大で、かっこよかった。

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