(4)
一度でも躓いてしまえば、そのあと転落するのはあっという間だった。せっかく長年かけて登ってきた坂道も、下るのは一瞬のようだった。麓から見上げる山はどうしようもなく高く見え、もう二度とあそこへは立てないように思ってしまう。
数字に追われ、締め切りに追われ、上司に怒られ、部下に蔑まれ、それでも努力は報われると信じて頑張ってきた。でも、その最後の砦さえも、いとも簡単に、そして粉々に壊されてしまった。僕はいったい何のために頑張っていたんだろう。何をしていたんだろう。本当に、いったい何がしたかったんだろう。
退職届を出したのは、あくまでも自然な成り行きだった。そうした方が会社のためにもいいと思ったし、これ以上あの人たちと一緒に働けるほど、僕は精神的に成熟していなかった。
上司は何も言わずにそれを受理した。部下は「寂しいです」などと思ってもいない嘘を平気で吐き、僕はそれに「おれもだよ、でも他にやりたいことが見つかったんだよ」なんていらない見栄を張った。上手く笑えていただろうか。
退職手続きは思いのほか手際よく進んだ。まるでそれが社内にとって最重要タスクであるかのように、僕は次々に印鑑とボールペンで様々な書類にサインを要求され、辞めるこちらが思わず心配になってしまうほど簡単に担当案件の引き継ぎが行われた。そして翌週にもなれば、僕は誰からも惜しまれることなく会社を追い出された。
とはいえ、勤続年数がたった二年しか経っていない僕にも、退職金(すずめの涙ほどの金額ではあるのだが)を渡してくれたのだから、いちおう優良企業ではあったのだろう。僕はそれを元手に、ひとまずは何も考えずにのんびりと過ごすことに決めた。
出社時刻を気にすることなく目を覚まし、テレビを点け、洗面所で顔を適当に洗い流し、寝癖を整えることなくリビングへ戻り、部屋全体に軽く掃除機をかけ、腹が空いたと思えば冷蔵庫を開けて何か簡単な朝食を作り、それを食べながらぼんやりとテレビを眺めた。昼になれば、日が差す窓際で気の向くまま仮眠をとり、本を読み、そしてまた腹が空くと昼食を摂った。太陽が徐々に沈み始める頃になると、浴槽を掃除してお湯をためた。
洗濯は一週間に二回ほどでこと足りた。会社を行き来しているときは、毎日回さないとワイシャツが間に合わなかったものだが、そんなことをいちいち気にする必要もなくなった。洗濯が面倒なときには、一度使ったバスタオルは乾かしてまた使った。案外自分はズボラな性格をしていたことを、今更ながらに発見した。
風呂から上がると、決まってパンツ一丁のままで缶ビールを一本開け、それを飲みながら夕食を作った。味付けは濃いめで、できれば辛いほうがいい。夜のバラエティー番組が始まると、今度はレモンサワーの缶を空け、笑いながらアルコールを身体にじんわりと浸透させた。夕食は手早く済ませ、食器を片付けると、洗濯し終えた衣類を乾燥機を回した浴室の中に干した。時計の針がだいたい十一時を超える頃に僕はベッドに潜った。そして眠気が襲ってくるまで、横になって本を読んだ。
退職して以降、母への仕送りはストップしている。彼女は近所のスーパーで、パートタイマーとして働き始めた。私のことは何も心配しなくていいから。いまは自分が生活することだけを考えなさい。自堕落な生活を続けている僕にそう言ってくれた彼女は、やはりどこか寂しそうで悲しそうな顔をしていた。でも、そんなことをいちいち気にすることすらも、なぜだか面倒になっていった。もういいじゃないか。報われているとか報われていないとか、そういうのは考えたくもない。
ビルの清掃員として働き始めたのは、その年の秋口のことだった。そろそろ働き口を探さないと、このまま廃人と化してしまうかもしれない。そんな危機感を薄らと抱き始め、ひとまずアルバイトから始めようと思った。すっかり自堕落な生活が身体に馴染んでいたため、いきなり明日から毎日スーツを着て八時間労働を強いられても無理があった。そしてスマホでぼうっとアルバイトの求人を探していた僕は、気になる文言に目が留まった。黙々と働ける職場。対人ストレス一切なし──。僕の指は迷わず『応募画面へ進む』というボタンを押していた。
「ねえねえ、学歴くん」
入口の方から声が聞こえ、僕は個室トイレの扉を拭いていた手を止めた。僕のことを「学歴くん」と呼ぶ人は、この職場に一人しかいない。
四つ歳下の田村は洗面台の前に立ち、左手首に巻いた黒いゴムのベルトの腕時計に目を落とし、予定時刻が迫ってきていることをこちらに知らしめるかのように、右手人差し指でその円盤をトントンと軽く叩いた。
「もうすぐここの会社の人たちが、続々と出社してくる時間だ。急がないとこのままじゃ間に合わないよ。まだ他にもやることは残ってるんだから」
「すみません。急ぎます」と僕は彼に謝った。それから止めていた手を、急ピッチで動かし始めた。まだ拭いていない扉は二枚も残っている。二人でやればすぐに終わるだろう。しかし、手伝ってくださいよ、とは言えなかった。
田村は洗面鏡の前で、自らの前髪を呑気に整え、汚れてもいない手を軽く洗い流し、それから当たり前のようにその場から立ち去ろうとした。「じゃあ、十分後にまたチェックしに来るから。それまでに、洗面台の拭き掃除までは終わらせておいてくれな」
どうせまたどこかに隠れてサボる気なんだろう、と僕は彼のうしろ姿を横目に見ながらそう思った。
僕が申し込んだ清掃アルバイトの仕事内容は、主に郊外のオフィスビルを清掃するというものだった。時間帯は午前五時から九時までの四時間。オフィスビルの会社に勤めている人たちが出社してくるまでに、エントランス、エレベーターホール、各階の廊下、そして各階の共用トイレ、その他諸々のスペースの清掃を済まさなくてはならなかった。
なお、時給は一〇五〇円で、交通費は会社が負担してくれる。また、清掃は五人体制で行われ、その中には必ず現場を執り仕切る正職員が一人は割り当てられていた。今回でいえば、それは田村の役割だった。
高校卒業と同時に清掃員として働き始めた彼は、この清掃会社に勤めて六年以上が経っていたという。清掃に関する経験と知識がともに豊富で、トイレ掃除にいたっては、社内の誰よりも手際がいいと評判だった。
また、若くして自信を得たが故に、彼はアルバイトの清掃員に対して、かなり強気な態度をとることでも有名だった。彼は自分よりも役職が下の者をまるで道具のように扱い、とくに学歴や経歴に優れている者を執拗なほど目の敵にしていた。僕のことを名前ではなくわざわざ「学歴くん」と呼んでいるのも、彼の学歴コンプレックスの表れだったように思う。最終学歴が高卒で止まっている彼にとって、国内でも有数の国立大学を卒業し、新卒で大手外資系企業に入社した僕の経歴は、面白くなかったのかもしれない。「いくら頑張っていい大学に入ったって、いい企業に雇ってもらったって、結局いまはアルバイト生活だもんな。どうだい? 高卒の俺に使われてる気分は」と彼は毎回のように勝ち誇った笑みを浮かべていた。
僕はそれに何も言い返さなかった。言い返したところで、この状況が好転することはないとわかっていたからだ。それに今となっては、学歴や経歴は僕にとってもただの足枷でしかない。そんなものを背負ってさえいなければ、周りから向けられる視線は、もう少し優しいものになっていたのかもしれない。
アルバイトで雇われている従業員の年齢層は、平均して四五十代が多かった。そのため、僕のように比較的若い従業員は、ここで働いているだけでも注目を浴びた。
彼らの目を通してみれば、僕の姿はいまだに親の脛をかじりながら生活している自堕落な青年に見えたのかもしれない。あるいは、過去に何かとんでもない不祥事でも起こしたのではないか、と勘繰られていたのかもしれない。なにしろ、学歴と職歴には誰もが知っている有名どころが並んでいるのだ。そんな人が若くして清掃のバイトをやらなきゃいけなくなるなんて、きっとそこにはそれ相応の理由があるに違いない。そんな風に、僕は周囲からワケあり物件のような、疑い深い視線を向けられていた。
十分ほどが経ったのち、田村は予告通り清掃の進捗具合を確かめるために、トイレの中へ入ってきた。
彼は洗面台の前に立ち、洗面鏡を乾拭きしていた僕の隣でまた前髪を整え始めた。サボっている暇があるなら手伝ってくださいよ。そんなことを言ってしまえば、鋭い目つきで睨まれることはわかりきっていた。僕は口を噤み、彼の邪魔にならないように、さっさと洗面台の拭き掃除を終わらせた。
「急げ〜、急げ〜」と田村はどこか他人事のような口調で言った。彼はいまだに鏡の前で身だしなみをチェックしていた。さっきまでと比較しても、格好良さはまったく変わらない。「早くしないと間に合わないよ〜」
僕はそれに何も返事をせず、スポンジと洗剤を手にして、小便器の掃除に移った。高い場所から低いところへ汚れを落としていくように、小便器の側面や内側を丁寧かつ迅速に磨いていく。それは田村に習ったことだった。
仕上げにはウエスと呼ばれる布を使い、水拭きと乾拭きの両方をする。それから僕は隣の小便器の前へ移動した。同じ工程をあと四回繰り返さなければならない。田村が手伝ってくれれば、あと二回で済むのだが。
僕が三つ目の小便器を磨き終えると、洗面台の前でスマホをいじりながら適当に時間を潰していた田村は、「じゃあまたチェックしにくるから、ちゃんと終わらせとけよ〜」とそれだけを言い残し、僕に何の詫びも入れずにトイレから出て行こうとした。
その際、向こうの耳には届いていないと思っていたのだが、田村は入口の途中で立ち止まり、こちらを振り返って「あ、てかお前。目上の人に向かって舌打ちとかするなよ。それくらいは大学でも習うだろ」と言うもんだから、僕は思わず首をすくめた。
やがて廊下の方から、田村と誰かが会話している話し声が聞こえてくる。
「田村さん、いつまでサボってる気なんですか?」、女性の声だった。若々しくてハリがある。そしてたしかな芯の強さを感じた。「このままじゃ間に合わないんですけど」
「ごめんってば、かのちゃん。すぐ手伝いに行くから」、田村はどことなくおどけたような口調でそう言った。その声にはいつも僕に向けるような鋭い棘はなく、どちらかといえば、媚を売っているかのような愛嬌すら窺えた。「それよりクリスマスイブの件、ちゃんと考えてくれた?」
思いのほか彼らの声は大きかった。あるいは、誰もいない廊下はよく響いた。その後も二人のやりとりは、こちらにまではっきりと聞こえていた。
「だから何度も言ってますけど、その日は無理なんですって」と女性は言った。
「どうして。だってきみには彼氏はいないんだろう?」、田村は困惑したような疑問符をつける。どうやら誘いを断られるとは、思ってもいなかったらしい。彼の口調からは焦りすらみえた。「言いたくはないけど、あそこのレストランを押さえられたのは、かなり奇跡的なんだ。偶然、おれの知り合いが急遽キャンセルしたから予約できたものの、普通に予約しようと思えば、二年待ちなんてくだらない。しかもクリスマスイブに行けるなんて、普通じゃまずありえないんだよ」
女性は深いため息をついた。「とりあえずその話はあとにしてください。いまは仕事中なんです。このままだと、本当に間に合わなくなりますよ?」
「大丈夫だって。俺が本気を出せばあっという間に終わるんだから」
「いい加減にしてくださいっ」
女性の大きな怒鳴り声が廊下に響いた。彼らの会話はそこで途切れ、やがて廊下には沈黙が広がった。そのやりとりだけを聞いていると、不意にどちらが正職員であるかわからなくなってしまう。何故だか僕はさっきまでよりも、気分が軽くなっていた。胸につかえていたものがスッと落ちたような気がして、爽快感すら残っていた。
そして程なくして、誰かがまたトイレに入ってくる足音が聞こえた。四つ目の小便器を磨いていた僕は、手を止めて入口の方に目を向けた。
「太一くん、大丈夫?」と彼女は僕に尋ねた。目の前には、すらっと背筋の伸びた若い女性が立っていた。ついさっきまで廊下から聞こえていたハリのある声だった。「やばそうなら手伝おうか?」
僕は彼女に向かって小さく首を振った。「大丈夫だよ、心配してくれてありがと。それより明美さんの方はもう終わったの?」
「ううん、まだあと少し残ってる。でもこっちの様子が気になって見にきたの」と明美は言った。「だってほら、ここのトイレってほんとはあいつの担当だったでしょう? それなのに太一くんにばっかり仕事押し付けて、自分はさっきからずっとサボってる。ほんとありえないんだから」、彼女はそう言って親指を背後に向けた。
あいつというのはきっと田村のことで間違いない。「大丈夫? まだその辺にいるんじゃない?」、僕はつい心配になって尋ねた。
「へーき、へーき。べつに聞かれてたって、全部あいつが悪いんだもんっ」と明美は何の悪びれもせずに言って、それから無邪気に笑ってみせた。「それよりほんとに大丈夫? 私からあいつに強く言ってあげようか?」
「そこまでしなくていいよ、大丈夫。もう慣れっこだからさ。それに、どうせ誰かがやらなきゃいけないことだし」と僕は言った。そして小便器に目をやり、彼女との会話を半ば強引に終わらせた。やらなきゃいけないことはまだ残っている。残りの小便器を磨き終えたあとは大便器の掃除、それから床掃除と備品の補充までしなくてはならない。わざわざ心配して様子を見にきてくれた彼女には悪いが、ここで談笑している余裕はなかった。
明美もこちらの意図を汲み取ってくれたのか、「やばかったらいつでも言って。私すぐそこのエレベーターホールにいるから」と言い残すと、掃除の邪魔をすることなく潔くトイレを出ていった。僕は引き続き目の前のやるべきことに没頭した。同時にいくつも手をつけられるほど器用ではなかった。
それでも明美が居なくなったあと、僕は気付けば不意に彼女の顔を頭に思い浮かべていた。どうしていつも彼女は僕のことを気にかけてくれるのだろう。ずっと不思議だった。年齢は僕よりも一つ年下で、勤続年数でいうと彼女の方が二年先輩だった。
明美は控えめに言っても、顔立ちがよく整っていた。ファッション誌のモデルを務めていると突然打ち明けられても、まんまとそれを鵜呑みにしてしまうくらい、彼女の容姿レベルはいわゆる美人の類に含まれていた。目尻の持ち上がった大きな瞳と、一本太い管でも通っているかのような、見事なまでにまっすぐな鼻が特徴的で、バイト中はほとんど何も施していないと言っていた肌は、信じられないほどキメが細かくて綺麗だった。日々の手入れが隅々まで行き届いている証拠だろうか。アルバイトの傍ら、何か人に見られる仕事でもしているのかい、と不躾に尋ねてみたことがある。その際、彼女は苦々しくも笑みを作りながら「まあね」と肯いた。「でも、太一くんが思ってるような職業とはたぶん違うんだけどね」と付け加えて。
茶色に染めた髪は、肩につかない程度に切り揃えられ、耳には小ぶりなピアスも開けていた。それらは一見して我の強そうな印象を相手に与えるが、実際に話してみるとそんなことはなく、気さくで、明るくて、誰とでも仲良くなれる人当たりがいい女の子だった。
初めて現場で一緒になった時から、彼女は僕のことをまるで地元の旧友であるかのように「太一くん」と呼び、そして彼女自身も、自らのことを苗字ではなく「明美」と呼んでほしいと注文してきた。彼女と同じ苗字を持つ職員が他にいたらしい。混同しちゃいけないから、と彼女は言った。その日から僕は彼女のことを「明美ちゃん」と呼んでいる。彼女以外に、下の名前で呼ぶような間柄の女性は他にいなかった。
明美はよく笑う子だった。拳が丸々入ってしまいそうなくらいに大口を開け、どちらかといえば下品な笑い声を発しながら笑うことが多かった。もはや呼吸困難になるのではないかとこちらが心配になるくらいゲラで、僕のつまらない話にもいちいち大きなリアクションをとりながら笑ってくれた。
そして反対に、僕も彼女によく笑わせてもらっていた。どちらかといえば、そっちの方が多かった。彼女の話にはいつも痛快なオチがあり、最近起こった出来事や学生時代の失敗などを順序立ててわかりやすく語ることが上手だった。独特な言い回しとセンスに満ちた言葉選びは、聴く者をあっという間に魅了し、時折垣間見せる可愛い顔に似つかわないほどの毒舌っぷりには、強制的に聴く者を沼へ突き落とすかのような中毒性があった。
また、明美は僕が田村に目の敵にされていることも知っていた。いつも彼が僕にちょっかいを出すたびに、「どうして何も言い返さないの?」と彼女は僕の代わりに腹を立ててくれた。「あんな奴、思いきり一発殴ってやればいいのに」と可愛らしい顔をハムスターのように膨らませて。
僕は彼女と会話をするのが楽しかった。と同時に、やはりどうして彼女が自分なんかに構ってくれるのかについては、未だに不思議なままだった。何のメリットがあって僕に優しくしてくれているのだろう。そう考えれば考えるほどに、僕はやがて迷宮に入っていくように混乱に至り、根深い不安が脳裏によぎった。もしかすると、陰では彼女も僕のことを馬鹿にしているのかもしれない。
考えたくもなかったことだが、一度でもそんな予感が頭の中に生まれると、どうしようもなく胸が苦しくなった。すでに完治していたと思っていた古傷が、いまさらになって疼き始め、枯渇していたはずの涙が目頭を熱くした。そういう時に限って嫌な記憶が目を覚ます。以前勤めていた会社の上司と部下の顔がはっきりと頭の中に浮かび、彼らの嘲笑するような笑い声はけたたましい警報アラートのように、耳の裏で鮮明に聞こえてくるかのようだった。奇しくも、僕はまたトイレの中にいた。
やはり僕は明美に騙されているのではないだろうか。表面上では優しく接して、いつか盛大に手のひらを返すのかもしれない。そのとき僕はきっと絶望したような表情を浮かべ、周りはそれをケラケラと声をあげて笑うのだろう。
冷静になって考えてもみれば、僕と彼女とでは明らかにこの職場内での立ち位置が違っていた。無口でとっつきにくく、周りからも扱いづらい存在として認識されていたはずの僕と、社交的で誰に対しても愛想のいい彼女とでは棲む世界が違っていた。彼女は僕のように周囲から腫れ物扱いされていなかったし、むしろ年配の清掃員たちはこぞって彼女のことを娘のように可愛がっていた。田村でさえ彼女に明白な好意を抱いていたほどだ。
そんなことを考えているうちに、僕はいつの間にか小便器の前で手を止めていた。時間がないことはわかっているが、いかんせん僕は複数のことを、同時に遂行できるほど器用ではなかった。考えがまとまらない以上、明美に関する不安は、絶え間なく波のように押し寄せてきた。
それでも、ひとまずいまこの瞬間は、目の前の清掃を早く終わらせることを優先しないといけなかった。また以前と同じように、周りから役立たずの烙印を押されるわけにはいかない。明美に失望されたくはなかった。僕は頭の中でずっと居座っていた明美に、一度その場から退席してもらうように伝えた。彼女はまたしばらくしてからやってくることを言い残し、一時的に席を空けた。
人感センサーで反応する小便器の水洗の音に耳を傾けていると、不思議と頭の中に溜まっていたものが押し流されていくような気がして、妙に心が落ち着きを取り戻し始めた。僕は無心で手を動かした。
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