(3)

「明日から出社しなくていいから」

 たった一言で僕は解雇された。あまりに呆気ない童話の幕切れだった。大掛かりなドッキリを仕掛けられているとさえ思った。僕は世界でも屈指の大企業に勤めていたのだ。倒産というリスクはまったく考えていなかった。

 もちろん、解雇通知を言い渡されたのはそれが原因ではない。母体であるアメリカの本社が、他の企業に買収されてしまったのだ。独裁的かつ大規模なリストラが敢行されたのは、その発表の二日後のことで、どこかそのニュースを他人事と捉えていた僕は、まさかその余波が自分のところにまで及ぶなんて思いもしていなかった。現実とは実に不条理にできており、予想外のところから横槍を刺されるなんて往々にして起こり得るものなのかもしれない。むしろ、あらかじめ親切に予告してくれることの方が少ないのかもしれない。解雇のお達しが手元まで届いてしまえば、それを拒否する権限なんてこちら側にはあるはずもない。僕はあくまで雇われの一般社員で、とくに功績を残していたということもなかった。

 買収の余波を受けたのは僕ひとりだけではなかったらしく、日本支社からは合計でおよそ百人もの従業員が解雇された。それに対する彼らの反応はそれぞれに違っていて、ショックを受けて早速路頭に迷い込もうとする者やこれを機に思い切って他業種に挑戦しようと意気込んでいる者、仕方ないと割り切ってひとまずは失業手当をアテにこれからのんびりと過ごそうとしている者など様々だった。

 買収のニュースをテレビで見た母も心配して、頻繁に連絡をくれるようになっていた。これから先、毎月の仕送りはどうなってしまうのか。仕送りが滞ってしまえば、いま住んでいる高層マンションを引き払うことになりかねない。

 失業後にのんびり過ごすという選択肢は最初から残っていなかった。僕は解雇を言い渡されたその翌日から、転職活動に奮起する同僚たちの流れに身を委ねる形で、およそ三年ぶりに大手就職支援サービスに登録した。

 担当してくれるエージェントに条件を伝え、オススメされた会社にいくつかエントリーシートと履歴書を送った。返答が返ってきた会社から順番に面接を受け、その結果に応じて志望する再就職先に順位をつけていった。応募する会社の業種や規模は極力制限を設けなかった。飲食業から家電メーカー、IT系にコンサルティング業界、従業員が十人にも満たないスタートアップ企業から千人規模の大手企業まで多岐に渡った。ただ、とんとん拍子に面接が進んだのはやはり前職と同じIT系の会社が多かった。リストラの波に飲み込まれたとはいえ、僕が以前まで勤めていた会社名を口に出すだけでも、採用担当はかなり好印象を抱いてくれた。「さっそく明日からウチで働いてくれませんか?」と即内定を言い渡す会社もあった。

 だが、僕は結局、最重要視していた給与面を鑑みて、半導体を取り扱う会社に再就職することに決めた。当面はごく一般的な二十代会社員としての給与額で我慢しなければならなかったものの、はっきりとした成果主義を採用している会社で、人によっては二十代のうちから二千万円近くの給与を受け取っている者もいた。また、とある経済誌では特集が組まれるほど国内外からは注目されており、五年ほど前から東証への上場も果たしている。

 頑張り次第では年収が億に達することもある。最終面接で採用担当の男が口にしたその言葉に、僕は胸を躍らせた。頑張ることに関しては昔から得意だった。リストラされた時はショックだったけど、結果的には人生が好転しているのかもしれないわね。母もそう言って僕の再就職を祝ってくれた。

 それからあっという間に二年が過ぎた。


 勤め先の会社はオフィスビルの中層階に事務所を構え、同じフロア内には大手建設会社やテレビのCMでよく見かける保険会社が入っていた。エレベーターホールのすぐ横には、自動販売機を備えた給湯室と共用トイレが設置されている。

 もはや日常と化したトイレ休憩は、僕の唯一安らげる時間だった。狭い個室の中に引きこもり、スマホゲームに没頭して仕事から意識を遠ざける。それはある種の正当な防衛反応であり、ただの現実逃避でもあった。そこは人の出入りが少なく、静かな場所だった。人知れず落ち込むには何かと都合がよかった。

 ひとしきりスマホゲームをやり込んだのち、しばらく何もせずにぼうっとして洋式便座に座っていると、人感センサーと連動している天井のダウンライトは、この室内には誰もいないものだと勝手に判断して照明を落とした。慌てて立ち上がる素振りを見せると、人感センサーは「ごめんごめん、そこにいたんだね」と詫びるかのようにすぐさま明かりを点けた。でも彼はすぐにまた僕の存在を忘れてしまう。何度かそれを繰り返しているうちに、僕は暗くなるたびにいちいち動くことが面倒になり、暗闇の中でそのままスマホをいじることにした。ブルーライトは僕の情けない表情を下から照らした。指先は目的もなく画面の上を彷徨い続け、やがてエッチな広告を頻繁にタップするようになる。難しいことは考えたくなかった。

 やがて人感センサーが作動し、照明が点いた。僕はほとんど動いていない。つまり誰かがトイレにやってきたということだ。ほどなくして個室の外からコンコンと足音が聞こえ、僕は息を潜めた。おそらくは男性二人組が小便器の前に並んで立っているのだろう。自動で反応する水洗が流れ始めると、それとほぼ同時にベルトを外す金具音が聞こえ、それから二人の会話が否応なくこちらにも聞こえてきた。僕はハッとした。その二人組の声が、明らかに直属の部下と直属の上司の声だったからだ。

「それにしてもさ、お前ハズレくじ引かされたよな」と上司は言った。

「なにがですか?」と部下は尋ねた。

 僕はとっさに罪の意識を抱いた。たとえこの状況が自発的につくられたものではなくとも、二人の会話を盗み聞きしていることに何ら変わりはない。女湯を覗いているような後ろめたさすらあった。こちらの存在に気付かせるために、わざと咳払いをしてやろうかとも思った。しかし、その直後に彼らの口から思いもよらぬ言葉が出てきたため、僕はただちにその行為を中止した。

「福田のことだよ」と上司は言った。その声にはこちらが聞き取れるほどわかりやすい嘲笑が入り混じっており、その場にいない僕のことを馬鹿にしようとしているのは明白だった。「あいつ、お前の上長だろ?」

「……そうですね」と部下は控えめな返事をした。

 僕はその受け答えにすら若干の違和感を感じた。部下の声からは、何故だか遠慮がちな様子が窺えたからだ。部下はまるで答えにくい質問に直面しているかのような、あるいは上司に向かって何かを「察してくださいよ」と暗に仄めかしているような、そんな雰囲気すらあった。彼は上司からように思えてならなかった。

「もちろん最初は期待してたんだよ」と上司は言った。

 なんとなくその始まり方は不穏な気配を漂わせていた。部下は口を挟まない。

 上司は淡々とした口調で続けた。「あいつが前に勤めてた会社って世界的にもかなり有名企業だろ? だからどんなエリートが来るんだ、って社内でも結構噂になってたんだよ。あの頃の社内には、メジャーリーグから助っ人外国人を獲得したような空気感すらあったよ」

「らしいですね。経理の人も似たようなこと言ってました」と部下は言った。

「まあ実際のところ、頑張ってはいるんだろうけどな」、上司はそう言ってから数秒間の沈黙を置き、それからため息を吐いた。「でも、まさかあんなに仕事のできない奴だったとは、誰も想像してなかったよ」

 僕は胸をきゅっと締め付けられた。紐の痕が赤く残るほどに。

 しばらく部下は何も答えなかった。僕は彼が上司に言い返してくれるのではないかと、心のどこかで期待していた。やがて沈黙のうちに、二人のどちらかが小便器の前から離れたらしく、向こう側で水洗が流れ始める。

「ついさっきもな」と上司はまた話し始めた。

「あいつの営業に同行したんだけど、それがもう散々な出来だったんだよ。顧客のニーズに合わせた提案ができてないっていうか、ちょっと予定外なことを言われたら、途端にパニックになってその後の対応ができなくなる。応用力がないっていうか、臨機応変さが欠如してるっていうか……。まあ要するに、あいつは言われたことしかできないんだよな。いや、正確には言われたこともまともにできてないか」、上司はそう言って最後に鼻で笑った。「とにかく、あいつは買収とか関係ないところで、前の会社から切り捨てられたんだろうなって俺は思ってるよ」

 また胸がきゅっと締まる。今度は息が詰まるほどに。

「買収、ですか?」と部下はとぼけたような声で尋ねた。

「知らないか?」と上司は言った。部下はそれに「はい」と返事をする。

 外資系の大手IT企業が買収されたというニュースは、その当時(二年前)の日本を確実に賑わせていた。テレビで報道されていない日はなかったほどだ。

 きっかけは、解雇された社員の一人が、遺書を残して自殺してしまったことだった。本社が買収されたことに伴い、何の予告もなしに敢行された大規模で理不尽なリストラに巻き込まれ、妻からは別れを告げられ、手元に残ったのはマイホームのローンだけ。社会が自分を殺したのだ、とその遺書には記されていたそうだ。その件に関して日本支社の役員が緊急の記者会見を開かなければならないほど、事態は大きな広がりをみせていた。

 そのニュースすら知らないということは、おそらく彼は普段からあまりテレビを見ない生活を送っているか、もしくは社会情勢についてほとんど興味を示していなかったかのどちらかだと思った。どちらにせよ、社会人としての一般的な教養は足りていないように僕は思う。

 世の中の動きに敏感になりなさい、とは就活生でも習うことのひとつだった。無事に社会に出られたからといって、それがその習慣をやめていい理由にはならない。むしろ、無事に社会に出られたからこそ、自分が戦っている盤上のことはよく理解しておくべきではないだろうか。

 僕は出社する前に必ず新聞をざっくりと読み込んで情報を仕入れ、有料のニュースアプリで経済や国際情勢に詳しい有識者の記事を頭に叩き込んでいる。その習慣は大学四年生の頃から欠かさずに続けてきたものだった。それをいまさら努力という立派な言葉で括るつもりはないが、それでも何もしないよりは絶対に良いはずだと信じてきた。努力は必ず報われる。何をするにも、その言葉がいつも僕に発破をかけたのだ。

「相変わらず世の中のことになると途端に疎いな」と上司は笑いながら部下に言った。「それでよく営業トップの成績を残せるもんだよ」

 部下はそれに悪びれる様子もなく言葉を返した。「でも、ニュースって営業で何の役に立つんですか?」

「まあ、知っておいて損はないと思うが……。実際にアイスブレイクのときに、ニュースの話題を使えたりもするしだな」

 二人の声が足音とともに遠のいていく。どちらも用を足し終えたのか、やがて洗面台の方から手を洗う音が聞こえてきた。

 部下は言う。「お客さんとの無駄話なんて、雰囲気でなんとなくいけますよ。別に相手も最近のニュースについて本気の議論をしたいわけでもないだろうし。それに、それって結局は天気の話してるのと何も変わらないですよね?」

 上司が苦笑いを浮かべている顔は、なんとなく想像ができた。僕だって個室の中で苦笑いを浮かべていることしかできなかったのだから。頭の中には数多の反論が浮かんでくるものの、それらは得てして的を射ていないような気がした。たしかに彼の言うことにも一理ある。本質的に大事なのは、雑談や無駄話で気まずい空気を一時的に打破することではなく、打ち合わせの中身そのものだからだ。実際、彼は営業部の誰よりも数字をとっている。僕よりも、上司よりも。

 そんな状況下で何か口出しでもしてしまえば、それは負け犬の遠吠えにしか聞こえない。要は、結果を出した者が最も偉いのだ。会社というものはそうやって成り立っている。統計学のようなデータがそれを物語っているのではない、あくまで身を以てそれを知っているのだ。結果を出せない者は虐げられ、蔑まれる。僕のように入社前からあらかじめ期待値が大きいと、なおさらその落差に周囲は落胆し、手のひらを返したように愛想を尽かした。

「やっぱ営業部のエースは言うことが違うよなっ」と上司は部下を持ち上げるように言った。そして彼はそのあとに余計な一言を加えた。「福田にも何かお前からアドバイスしてやってくれよ」

「いやあ」と部下は小首を傾げた、ような気がした(こちらからはその姿が見えていたわけではないので正確にはわからなかった)。そして続ける。「なんて言えばいいんですかね。あの人の場合、ものすごく頑張ってることはこっちにも伝わってくるんですけど、僕にはその努力が全部なことにしか見えないんですよね。だから、どこからアドバイスしていいのやら……」

 言い終えたあとに鼻で笑ったような音が聞こえたのは、もしかするとただの空耳だったのかもしれない。あるいは、頭の中で被害妄想を極限まで膨らませた末に、ストレス過多に陥った僕自身が、つい漏らしてしまったため息だったのかもしれない。どちらにせよ、僕はこれまでコツコツと長年積み上げてきたものを、一瞬のうちになぎ払われたような喪失感に襲われた。もしくは、自分でも薄々気付いていたものを、誰かにはっきりと指摘されてしまい、その耐え難い事実からついに逃れられなくなったという感覚に囚われた。

 これまでにもそれに近しいことを指摘してくる者は何人もいたが、それを「無駄なこと」だとはっきりと断定する者はいなかった。だからこそ、僕はずっと周りの言葉に耳を傾けず、それこそが正しいのだと信じ続けることができた。

 それでも本当は薄々気付いていた。出来ることなら一生気付きたくなかった。

 努力は必ず報われる。あれはぜんぶ嘘だ。

 これまで積み重ねてきた僕の努力は、たとえそれがいくら天高く積み上がっていようとも、大きく膨らんでいようとも、それはぜんぶ意味のないものと同じだったのだ。無駄なものをいくらかき集めたって、その集合体に価値はない。誰よりも社内で結果を出している直属の後輩がそう言っているのだから、それはきっと間違っていない。

 僕は便座の上でうずくまるように背中を丸め、シャツの襟首あたりを右手で力強く掴んだ。奥歯を食いしばり、スマホを握った左手で硬い拳を作り、太ももの側面を何度か殴った。そしてその音は上司の高らかな笑い声にかき消された。

「そんなにはっきりと言ってやるなよ、あいつが可哀想だろ」

「でも実際そうなんですもん。このあいだ福田さんの営業に同行した時も、あの人、ひとりでずっと空回ってて大変だったんですから」

 二人の笑い声はトイレの隅々にまで響いた。壁面で乱反射を起こした声は、やがて僕の胸を次々に射抜いていく。サンドバッグのように力なくぶらさがった僕の心臓は、胃の底に張った水面に焼けるように熱い血液をぽつぽつと落とした。それはじゅっと音を立てて蒸発していく。その熱のせいで、胃の粘膜が溶けていくようだった。その後も血液は心臓の表面を伝って滴り落ちていく。そこに目に見えるほどわかりやすい擦り傷でも負っていれば、まだ簡単に止血できたのかもしれない。自分でも傷口がどこにあるのかすらわからなかった。

 僕はシャツの襟首を掴んでいた右手をそのまま左胸にやり、心臓の音を確認した。まだ動いている。必死に、懸命に、鼓舞するように、そして泣き叫ぶように動いている。僕は薄っぺらい皮膚で覆われたその左胸を、壁面に貼り付けたポスターでも剝ぎ取るかのように力強く握りしめ、思い切り引っ張った。内側で泣き叫ぶ心臓を手元に手繰り寄せるように、そして助け出すように。

 いますぐにでもここを飛び出して、笑う二人の顔に向かって唾でも吐ければどれほど楽になれただろう。あいにく、僕は喧嘩というものをこれまで一度も経験したことはなかったし、面と向かって誰かに暴言を吐けるほど肝は据わっていなかった。

 二人の言う通り、僕は頑張るだけが取り柄の、だからといってとくに結果を残すわけでもない、ただの凡人だった。いや、もしくは凡人以下なのかもしれなかった。それはもはや服を着させられただけのマネキンに等しいように思えた。毎日自分で服を選ぶことすらできず、誰かしらの指示を頼りにポーズを決め、四六時中休むことなく店頭に立つことを余儀なくされる彼らは、僕とどこか見えないところで繋がっていた。

 ある意味では、僕は彼らよりも脆い存在だったのかもしれない。僕には彼らと違って、感情というものが具わっていた。上手くいかないことが続くだけでも傷ついたし、周囲に非難されれば簡単に壊れかけた。それを見かねた誰かが修繕してくれるわけでもない。傷の手当は自身で施さなければならなかった。大丈夫、努力は必ず報われるんだから──と何度も言い聞かせて。

 母はこの傷を見て何を思うだろう。同情してくれるだろうか。毎月の仕送り金額は年々、右肩下がりになっていた。当然だ。仕事ができない人間に多くの給料を分配されるほど、会社は不合理にできていない。社会とは非情なほど合理的で、残酷なほど理不尽にできている。

 母は昨年まで住んでいた高層マンションを引き払うとき、少しだけ悲しそうな顔をしていた。僕はそれを見て責任を感じた。しかし、ごめんと言葉にはできなかった。彼女に首を振らせたくなかったからだ。ううん、大丈夫だよ。母はそう口にするに決まっていた。無理やり許しを乞うのは反則技だと思った。

 そんなことを考えている間に、二人の笑い声は止んでいた。それからもう一度洗面台を叩く水の音が聞こえ、やがてハンドドライヤーがどちらかの手に勢いよく温風を吹き当てた。

 その音が聞こえてくると、僕はなんとかこの場をやり過ごせたと安堵した。このあと、二人と会った時にどんな顔をしていればいいのかについてはまだ決めかねていたが、彼らはこの会話を盗み聞きされていることに気付いていないはずだった。それもそれが本人の耳に直接届いているなんて、到底思いもしないだろう。それなら表面上を取り繕うだけでも、その場が成立したように見せかけることは十分にできる。僕が我慢して頑張ればいいだけなのだ。幸い、我慢と頑張ることだけには長けていた。

 二人の足音が出口へ向かっていく。その音に耳を傾けながら、僕はゆっくりと丸まっていた背中を起こし、背もたれにもたれかかった。静かに空気を肺に送り込み、細く長く吐き出した。いまだ心臓からはどこからともなく血液が漏れている。それはもう時間経過とともに止まってくれるのを祈るほかなかった。

 その直後にスマホからけたたましい警報音が鳴り響いた。

 僕はハッと息をのんだ。遠くで二人の足音が止まったのがわかった。あまりに突然のことで気が動転してしまい、僕はつい手に持っていたスマホを離してしまう。ぱたんっと足元で大きな音を立てる。床の上で暴れ回るように、スマホはいまだ警報音を鳴らし続けていた。

 慌ててそれを拾い上げ、画面に目を落とすと、そこには『北朝鮮から弾道ミサイルが発射されたものとみられます』と記されてあった。ロックを解除すると警報音は無事に止まった。最近この手のアラートが後を絶たないことはわかりきっていたことだが、今この瞬間であってほしくはなかった。

「もしかして、ずっと誰かいたのかな?」と遠くから上司の声が聞こえてくる。

「え、じゃあさっきの会話も全部聞かれてたってことですか?」と部下は言う。

 やや沈黙が流れ、その間に二人のあいだで何か示し合わせた合図でもあったかのように、彼らの足音は少しずつこちらに近寄ってきた。

「まさか福田さんじゃないですよね?」と小声で部下は上司に言った。

「まさかな」と上司も、おそらく小首を傾げてそう言った。

 やがて二人の足音は僕が入っている個室の前で止まった。扉を隔てた向こう側に、つい先ほどまで僕のことを散々罵って馬鹿にしていた二人が立っているんだと思うと、途端に様々な感情が胸の中で陣取り合戦でもするかのようにせめぎ合いを始め、結局は混沌とした。まだ状況の整理が追いついていない。これから自分が何をすべきなのかも、何をしたいのかもよくわからなかった。僕はその場に立ち尽くしたまま、二人の会話に耳を澄ますことしかできなかった。

「そういえばさっき、福田さんトイレに行くって言ってたような……」、部下は重大なことを思い出したような慎重な声色でそう言った。

「たしかに。あいつさっき事務所にいなかったもんな」と上司は言う。

 脇の下から嫌な汗が噴き出した。ついに気付かれてしまったのだと心臓が跳ね上がる。そしてまた計ったようにスマホからけたたましい警報音が鳴り始めた。扉の向こうから一斉に、うわっ、と驚くような声が聞こえてきた。

 今度はなんだ。僕は慌てて警報音を止め、画面に目を移すと、そこには『北朝鮮から発射されたとみられる弾道ミサイルは、青森県の上空を通過し、日本の排他的経済水域の外側の太平洋に落下したとみられています』と記されてあった。

 ひとしきり沈黙が流れる。

 やがて向こう側からひそひそと会話が聞こえてきていたが、その内容はどれも日本国を心配するようなものではなかった。彼らは弾道ミサイルの報道については何も思うところがなかったのだろうか。あるいは、どちらもスマホを事務所に置いてきて、報道のことを何も知らないのかもしれない。現に二度とも僕のスマホからしかアラートは発令されなかった。どうやら向こう側から電話をかけられる心配はなさそうだ。こちらから扉を開けなければ、個室にいたのが僕だとバレることはないだろう。とはいえ、このままずっとこの中に引きこもっているわけにもいかなかった。どうせなら、たった今この瞬間にこのビルにミサイルでも落ちてくれればいいのに、と思ったのはここだけの話だが、それくらい僕は身動きがとれずに切羽詰まっていた。

 その後もしばらくは膠着状態が続いていたが、その状況についに痺れを切らしてしまった上司は、向こう側で大きな舌打ちを鳴らし、それからは開き直ったような口調でこう言い放った。

「ったく、こういう時にすぐビビって外に出てこれねえから、お前はいつまでたっても仕事ができねえんだよ。そのまま一生カタツムリみてえに殻にこもって生きてろよ、ばーか」

 その声の余韻が消えないうちに、一つの足音はコツコツと目の前から遠ざかっていった。きっとそれは上司のものだった。それを慌てて部下が追いかけるように、もう一つの足音が遠のいていく。あたりは途端にしんとした静寂に包まれ、トイレからは僕以外誰も居なくなってしまった。

 僕は倒れるような勢いで便器の上に座り込んだ。貧血を起こしたようにめまいがした。呼吸の間隔が乱れ、急に息苦しくなった。もう二度と足に力が入らないような気がした。そのとき僕は仕事を辞めようと思った。辞める理由なんて見つからなくても、きっと誰かがそれっぽいものを見つけてくれるのではないかと思った。なにしろ僕は仕事ができないのだ。頑張っても頑張っても結果につながらないのだ。代わりはいくらだっている。そんな奴、ひとり辞めたって会社には何の悪影響も与えない。むしろ歓迎されるかもしれない。そんなことばかり考えていると、やがてひどい頭痛に見舞われた。

 人感センサーは僕のことをいないものと見なし、照明を落とした。

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