麦茶
窓から風が吹き込んでくる。
テーブルの上に広げた布が飛ばされぬように、小柄で華奢な体を最大限広げ覆いかぶさるようにしている青い人がいる。その様子をすぐ傍で桃色の人が見ている。不意に上がる口角を隠すように、口に手を当てている。
「リリー、あちらの端を押さえてください」
青い髪の女性は腕が届かずに、ヒラヒラと自我を持ってしまったかのように舞い踊っている布に、悪戦苦闘しながら桃髪の少女の名前を呼んだ。
少女は女性の必死な形相を一瞥し、喜んでと短く返事をする。それからテーブルの反対側に回り込み踊り狂う布の端を捕まえた。
風が止むまでの数秒の間、二人は動かなかった。
女性は大仕事を終えたかのような大きな息を吐いた。
「ありがとうございます。お陰様で布を守ることができました」
「この身に余るお言葉です」
少女はスカートの両端を摘まみ上げて片足を後ろに下げてお辞儀をする。
頭の中では窓を閉める事を自分に命じれば醜態をさらし続ける事無く、布を守ることが出来たのではないかと考えていたが、素直に主人からの言葉をリリーは受け取ることにした。その代わりに彼女は話を膨らませる。
「ところで何を作っていらっしゃるのですか」
「夏服を作っているのですよ。勿論、貴方の分も作りますよ」
ここ何ヶ月かはとても忙しく、衣替えの事など忘れてしまうほどであった。
「私の職場は魔法使いだらけなので、暑かろうが寒かろうが変わらない人ばかりなんです」
言葉で原理を説明する事が出来ない現象を実現する事が出来る力。何故手から火が出るのか。何故突然に運動能力が上がるのか。体の内側にある魔力と呼ばれる力を使ってこれらの現象を引き起こす人達のことを魔法使いと呼ぶのだ。
そんな彼らにとって体温調節などは衣服に頼らずとも、息を吐くのと同じように意識を割かなくても出来ることだ。
「ご主人様は魔法で体温調節をなさらないのですか」
リリーの真っ当な疑問に対して主人は相槌で一拍おいてから答えた。
「かわいいお洋服を沢山着たいからですかね」
リリーは自分の来ている給仕服を見る。
これは主人に作ってもらったものだ。彼女は裁縫が好きで、勿論かわいい服に目がないのは知っていた。だけど微妙に質問の答えをはぐらかされていることにも気が付いていた。
「私も着たいです」
満面の笑みで答えた。魔法のことはわからないが、何でもこなしてしまう主人の事だから言いたくない理由があることはわかった。ならば、従者としてわざわざ突く必要もないので、母親にお願いを聞いてもらう子供のように振舞った。
「そうですね。一緒に着てどこかへ遊びに行けたらいいですね」
満足そうにご主人様は笑った。
服を作っているご主人様の事をただ見ているというのも退屈なので、私は麦茶なるものを作る事にした。
以前ご主人様の本棚からレシピ本を拝借した時に見つけた飲み物であった。暑い時期には重宝される飲み物であるらしいのだ。
私は調理場に立って作業を始める。そんな私を見てご主人様は笑みを浮かべていた。
麦茶作りの手順は簡単である。
乾燥させた麦を焙煎して水で煮込む。それで完成だ。
私は鍋に麦を入れて火にかける。ゆっくりとヘラを使って、焦がさないよう丁寧にかき混ぜる。10分程立った所で、麦の香ばしい、良い匂いがしてきたら、水を加えて煮詰めていく。
「良い匂いがしてきましたね」
「はい、もうしばらくお待ちください」
後は10分ほどで火を止めて、麦を取り除き冷ませば完成である。
ご主人様の方に目をやると何枚か切り出した布を縫い合わせていた。私の事を見てくれている時の優しい眼差しも好きだが、何かに集中して取り組んでいる時の眼にも心が奪われてしまいそうになる。
私は本棚からレシピ本を取り出すと、ご主人様の事を邪魔しない様に、そっと向かい側の椅子に腰を下ろす。
ページを何ページかめくり目を通していたが、窓から差し込む光。暖かい部屋。二人だけの安心出来る空間。これ以上に私の意識が沈むのに適した条件はなかった。
ふと意識が戻る。
体が横になっている。お尻の感触は木ではなく、フカフカとしている。もう差し込む光はなく、日は暮れているようである。肩にはブランケットが掛けられていた。随分と寝てしまったようだ。体に力を徐々に入れてフラフラと起き上がる。
「起きましたね。よく休めましたか?」
大好きな声であった。私はその声に元気よく返事をする。すると、手招きでテーブルまで呼ばれた。私が作った麦茶の香りがそこにはあるようだ。
「よく冷やして置いたので一緒に飲みましょう」
私は席に向かう。
私が席に着いたのを確認するとご主人様はグラスを私の方のグラスへ近づけてコツンと音を鳴らす。
「乾杯という挨拶ですよ。食べる時にはいただきますと食べ終わる時にはごちそうさまと言うように、誰かと一緒に飲む時には挨拶を交わすのですよ」
グラスを手に持つ事を促され、私はご主人様の動きを真似する。
グラスを持ち上げて動かす。ちょうど、二人の中心ぐらいの距離でグラスがぶつかる。先程聞いたより心地がよい音であった。
「「乾杯」」
グラスを口に持っていき流し込む。
口全体に麦の香りが広がってくる。頭の中には麦畑が思い浮かぶ。美味しいと思わず声が漏れた。
「うん。よい香りでスッキリとしていますね」
ご主人様の言葉が嬉しくて、ついつい口角が上がってしまう。
「そうだ!リリー着てもらいたいものがあるのですよ」
ご主人様は席を立つと棚まで行き、何か桃色の織物を取り出して広げた。
「浴衣という服です。手作りなので少々着づらいかもしれませんが」
私はご主人様のところへ向かうと浴衣を受け取った。
「いえ、とても嬉しいです!」
「今、着てもらっても良いですか?」
「はい」
「うん!似合っていますよ」
「ほ、ほんとうですか」
腕を広げると帯のようにヒラヒラとする。生地も薄くて気持ちが良い。何より給仕服よりも涼しく感じる。
私の浴衣姿を見てはしゃいでいるご主人様も青色の浴衣を着ていた。お揃いの服で嬉しい。親子みたいに見られるだろうか。頭を触ってはみるがミミは当然ながら生えてなかった。
「ご主人様もお似合いですよ!」
「それは嬉しい言葉ですね」
いつも降ろしている長い髪は頭の上でお団子を作っている。見える首が、なんだか色っぽく見えてしまう。私の髪は肩にかからないくらいに切られているので少し羨ましく感じる。
「私も髪を伸ばしたいです」
「では、そうしましょうか」
ご主人様に頭を撫でられる。心地良くて気を抜くとまた眠ってしまいそうだ。
「グラスを持って外で飲みませんか」
「喜んで」
それから、二人は軒先に出て夜風に当たりながら冷えた麦茶を飲むのであった。
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