クロワッサン
私がご主人様と初めて会った時のこと。
「具合は大丈夫ですか?」
私が初めて聞いた声である。
ここは何処だろうか。
見覚えのない部屋であることは感覚的に分かった。
だがそれは私にとってはどうでも良い話であった。
目を開ければ知らない環境など何回も経験したことである。
それより私の視界の大半を埋め尽くしているこの女性は誰なのだろうか。
綺麗な青色の髪である。
深海を感じさせる暗さと飴細工みたな光沢がある。
肌の色は恐ろしいほど白く、吸血鬼か不死者を連想させる。
頭には大きな丸いツバのとんがり帽子を被っている。
私がじっと顔を見つめていると、彼女は口を開いた。
「今、温かい飲み物を持ってきます。動いてはダメですよ」
魔女の頭が動いた事で、視界が開けてきた。
暖かい光の照明。
木材で造られた屋根や壁。
本棚には沢山の書物が入っている。
テーブルの上にはコップやお皿などが並べられているが、全く生活感が感じられない。
花瓶には青紫色の花が生けられている。
目線だけを横へ向けてみると、大きな窯が見える。
女性が消えていった方向がキッチンだとすると、何故あの場所に大きな窯があるのだろうか。
場所を特定するのには情報が少なすぎるので、これまでの私の記憶をたどることにした。
私は気を失う前の一番新しい記憶を思い出そうとする。
すると途轍もない頭痛に襲われた。
声を出すのを我慢出来ないほど痛かった。
私の叫び声を聞くと青髪の魔女がすぐに駆けつけてくれた。
おでこに暖かい感触がする
「サナーテ」
そう魔女が言うと、緑色の光が見えた。
私のおでこに当てられた手から発せられたものであった。
光を浴びているとだんだんと頭痛が和らいでいく。
それから魔女の指示通りに深呼吸を繰り返す。
一分と経たないうちに頭痛はなくなった。
「今は何も考えずにゆっくりしていれば良いですよ。ここに易々と近づこうとする人はいませんから」
それから、私のおでこから手を離した女性は人差し指をクルクルさせながら、ここは魔女の家だとか、夢の中の世界だとか訳が分からない事を言い出した。これは笑った方がいいのだろうか。
「笑う所ですよ……。手厚く介抱しているのに魔女だとか恐ろしい正体を明かすなんて、助けたいのか、逃げられたいのか、どっちか分からないではありませんか。まぁそもそもそんな状態では逃げられませんよね」
自分のボケの意図を説明する様に思わず私は笑ってしまう。
「ふふふ、笑えるではありませんか」
魔女は私の頭に手を添えながら笑った。
頭から伝わる感触はとても心地が良いものである
「白湯飲みますか? 温かいお水です。ほら危険ではありませんよ」
魔女はコップを私に見せてから、一口啜り始めた。
その後、魔女も薬が効くし、呪いが効かないとかはないから本当に安心してほしいと念を押した。
先程自分で作った設定に振り回されているようであった。
それから、私頷いて同意を示す。
そっと口にコップが当てられて少しずつ白湯が流し込まれる。
傷ついた体に心に染み入るように広がっていくのを感じる。
ふっと体の力が抜ける。
飲み終わると頭を撫でられた。
その感触を確認するとき、私の意識はもう深い底に落ちていた。
「これでは白湯に何かを入れたと勘違いされてしまいますね」
白湯に入れられたのは、毒や薬の類ではなく、ほんの少しの愛情のような優しさでだけであった。
目が覚めると、視界に映るものの変わらなさに驚いた。
まるで寝ていないかと思うくらいであった。
力を入れると体を起こす事が出来た。
首を左右に振って状況を確認していると、青髪の女性が駆け寄ってきた。
「昨日よりは具合が良さそうですね」
どうやら丸一日眠っていたらしい。
私はベットから立ち上がろうと手をついて下半身をベットから出そうとする。
すると横にいた彼女に体を抑えられた。
そして、まだベットから出ない方が良いと言われた。
何故か聞こうとするとそれを遮るかのようにお腹の音が鳴った。
「お腹が空きましたよね。少し待っていてください」
彼女はキッチンの方へ向かい、棚を漁り始めた。
程なくして帰ってきた魔女の手にはお皿があった。
そこには何かが乗せられていた。
「クロワッサンというパンです。外はサクサク、中はモッチリで美味しいですよ」
そう言うとシーツの上。
私の膝のあたりにお皿が乗せられた。
私はそれを手で掴んで口に運ぶ。
言っていた通り、サクッと音が鳴る程に心が弾むような食感だった。
噛んでいるとバターの香りとほのかな甘さが口いっぱいに広がる。
気がつくとあっという間にべ終わっていた。
「お口に合ったみたいですね」
彼女の手が頭に伸びる。
「昨日も言いましたが、今はしっかり休んでください。私と会話が出来るくらいまで回復したら色々と説明しますから」
頭の感触を確かめながら彼女の話を聞いた。
お腹が一杯になったからか、瞼が重くなってくる。
体がゆっくりとベットに倒されていくのを感じた。
耳元でおやすみなさいと囁かれた所で私の意識は限界を迎えた。
それから三日後の朝。私がこの家に来て六日目の朝である。
視界に刺さるような光によって私の意識は覚醒した。
久しぶりに浴びた太陽の光であった。
「うん、やっと朝に起きることができましたね」
ついこの間まで知らない顔だったが今は見ると安心感を覚える顔である。
「おはようございます」
彼女は挨拶をする。私も返そうと口を開く。
「」
言葉が出なかった。もう一度口を開き直す。
「」
聞こえなかった。
いや、彼女の声は聞こえるのだから耳は正常なはずだ。だとすると、声が出ていないのか。
しかし、何度繰り返しても声は出なかった。
「焦らなくて大丈夫ですよ」
突然抱きしめられた。
「無理もありません。大きなショックにより一時的に声が出なくなることは珍しいことではありませんから」
大丈夫。大丈夫と私の背中を優しく叩いて落ち着かせてくれる。私の目から涙が溢れた。それから私が落ち着くまでずっと抱きしめていてくれた。
「悲しいことだけではありませんよ。一緒に立ち上がってみましょうか」
彼女に支えられながら私はベットから下半身を出して床に足をつける。そして腰を浮かせて上半身を真っ直ぐにする。立つ事ができた。それから、足を少しずつ動かす。右足を踏み出しす。左足を踏み出す。また、右足。支えられながらではあるが歩く事も出来た。
「うん!病み上がりにしては上出来ですね」
彼女に抱き上げられて、テーブルの席まで連れて行かれる。テーブルにはクロワッサンが用意されていた。彼女は私の向かい側に座る。
「私が貴方に教える最初の事は食前の挨拶です」
そう言うと彼女は両手をピッタリ胸の前で合わせる。真似をすることを促され、私も同じように両手を合わせる。
「食事の前には感謝をするのです。そしてある言葉を口にします。ですが、大事なのは気持ちなので声が出せないときは無理をせずとも大丈夫ですよ」
「いただきます!」
私も彼女に続くように心の中で繰り返した。彼女がパンに触れるのを見て、私も手に取る。口に運ぶと思わず笑みが溢れる。
「本当に美味しそうに食べますね」
青い眼でじっと見られているのが恥かしかった。
「私もクロワッサン好きなんですよ。これから沢山美味しいものを教えてあげますから」
そう言うと彼女は笑った。これからという部分に引っかかり私は頭に疑問符を浮かべる。表情を察してくれたみたいで説明してくれた。
「行くところが無ければ、これから私と一緒に住みませんか?」
(え!どういうこと?)
「私なら貴方の事を守ってあげられます。絶対に一人にしませんし、絶対に酷いこともしません」
そう言うと彼女は魔女の帽子を外した。頭には獣の耳が生えていた。魔女なんかではなく獣人だったのだ。私は反射的に椅子から立ち上がり彼女から距離を取ろうとする。しかし、上手く足を動かさずバランスを崩して尻もちをついてしまう。
「落ち着いてください。今の貴方の足では私から逃げる事は不可能です。それに逃げた所で......。」
獣人は左手の掌から炎が出る。
魔術の類であるとすぐに察しがついた。もうここで終わりだと全身の細胞一つ一つが警告しているようであった。それに気がつくと私は腰を抜かした。頬には涙が伝っていた。
しかし、次の瞬間には炎が消えていた。
「恐い思いをさせてしまいましたね。こうでもしないと冷静になって貰えないと思いました」
魔女は頭を下げていた。頭を上げると私にゆっくりと近づき、目の前で膝を折る。
「言ったではありません。傷つけないと。少しショックでしたよ、私のミミを見るなり怯え出すなんて」
魔女は頬を膨らませている。よく見ると幼子のような顔立ちである。
「ですが、獣の耳が生えた人からは咄嗟に逃げるというのは人間の国では常識ですからね。今のは私も水に流すので、魔法で脅したことも許して下さい」
私は頷く。彼女は両手を叩いて話を仕切り直した。
「もう一度聞きます。一緒に住みませんか。もし、嫌なら近くの街の兵舎にでも迷子として送り届けます」
一緒に住むなら頷く。
住まないのなら左右に振る。
私の答えは一つしかなかった。
もう、あんな場所に帰るなんてごめんだ
頷いた。
「はい、よろしくお願いします」
彼女はそう言うと笑った。
私も真似をして笑って見せた。
「自己紹介がまだでしたね。私の名前は」
机の上の青紫色の花。エリンジウムの花が風に吹かれて揺れていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます