第7話
大天狗の声に応えるように、大きな、何かの声が聞こえてきた。それは、馬のいななきにも似ているが、それよりも高く澄んだ、美しい楽の音色に似ていた。
やがて、頭上の、木々の隙間から見える空を、大きな何かが横切った。と、思うや、その一瞬後にキラキラと輝きながら何かが舞い降りた。
それは、薄絹に身を包んだ美しい女性であった。
「大天狗様、お呼びにござりましょうや?」
その女性は大天狗に向かい、恭しく頭を下げた。
「そなたも知っておろう。この日ノ本が侵されようとしている。否、すでに一部に外国の爪が入った」
「はい」
女性は驚きもせずに静かに頷いた。それに対して大天狗も特に驚いた様子はない。知っていて当たり前、というような顔をしている。
(御魂には千里を見渡せる力があるのだろうか)
ちあやはその様子を感慨深く見守っていた。
「払っては貰えぬか」
「もったいない。祓え、と、言うてくださりませ」
大天狗の言葉に、女はそう言って笑った。
そして、意味ありげにクロウに視線を移す。それに気づいたゆきのかが静かに首を振った。すると、女は寂しそうに笑って、つい、と視線をちあやと千比良に向けた。
「繋ぎの乙女と現当主様ですね。奥州を守る御魂の一つ、白乙と申します。此度の件、ずっと塒より見守ってまいりました」
「御霊の御方ですね。お初にお目にかかります。八代当主、千比良です」
「あなたのことは、生まれた時から見ておりました。たいそうお美しい赤子で将来が楽しみと思うておりましたが……いや、期待を越える美しさ」
「挨拶はそのくらいにして下さりませ」
大事を放り出して語り続けそうな白乙をゆきのかが制した。
「そうですね」
白乙は悪びれずそう言うと、ちあやと千比良の手を取った。
「行かれますか」
クロウが千比良に声をかけた。
「うむ。留守居を頼む」
「承知致しました」
クロウはそう言って恭しく頭を下げた。そして、ちあやの方を向いた。
「我はここに留まり、ここを守る。ちあや、これを」
そう言ってクロウはちあやに一振りの護り刀を渡した。
「気休めにしかならぬがな」
その刀からは、優しくも強い波動が流れて来ていた。誰かを守りたい。その、想いが、くるくると刀を取り巻いている。
守るために戦うものたちに、相応しいと思えた。
「ありがとう」
ちあやはその刀を強く握りしめた。
「皆、必ず戻れ。頼むぞ、白乙殿」
「違えませぬ」
白乙はそう言って頷き、深く息して目を閉じた。すると、三名の身体がふわりと浮いた。
「わ、」
「大丈夫」
白乙がそういうと、三人の体はぐんぐんと登り始めた。そして森の木々の間を抜け、空へと飛び出した。
瞬間、白乙は巨大な紺碧の龍に姿を変えた。
「いざ、参ります」
そう言うと、白乙は空に放り出されたちあやと千比良を器用に背中に乗せ、一直線に空を駆けた。
「千比良様!ちーさん!」
矢のような速さで飛ぶ龍の後方から礼大の声がした。
「礼大!」
ちあやがそう叫んで振り向くと、そこに大きな烏に乗った礼大の姿があった。
「ほぉ、我について飛ぶとは、天狗殿もなかなか」
そう言って白乙が笑う。
「天狗?クロウ?」
「否、あれはクガイ殿ぞ」
千比良が言う。
「ええっ」
「なんじゃ、其方、知らなかったのか」
千比良の言葉にちあやはこくこくと頷いた。
「何かしらの強い力は感じておりましたが……」
「鞍馬山のはぐれ天狗。それがクガイ」
「クガイ殿、急ぎますぞ、ついてこられますかな」
「全力をかけまする!」
その言葉に続いて、大きな烏の声が響き渡った。
「女子たちも、しっかりつかまっておられませ」
白乙の言葉が終わらぬうちに、龍は更に速く空を駆けた。
ほどなく、その視線の先に、見知らぬ船が島に大挙して押し寄せてきているのが見えた。
「あれだわ!」
千比良が声を上げた。島の住民が乱暴狼藉にあっているのも見える。
「馬鹿な、」
千比良の怒りが、彼女の体にまとわりつくのがちあやの目には見える。
(王者の気質なんだわ)
ちあやは思った。民草に危害が及ぶことに心からの怒りを覚えている。ちあやはその手を取った。怒りに任せてことを行うのは、王者のすることではない。千比良もそれを知っているはずだ。ちあやの温みで、千比良の心が凪いだ。二人は顔を見合わせて笑った。
その時だった。
ちあやが急に周囲を見回した。島に押し寄せる見た事も無い鎧の戦士達。その戦士たちが乗っている舟の上に、黒い雲のようなものが見えた。
「ちあや?」
「あれは……虎?」
黒雲の中に見え隠れするその姿は、正に虎であった。黒い息を吐き、朱い目をらんらんと燃やした、大きな虎。その虎が大きく吠えた。思わず耳を抑えたちあやの頭の中に、悲鳴のような声が響いた。
「苦しんでるんだ」
「ちーさん、あれは?」
いつのまにか隣についていた礼大が声をかけてきた。
「大きな虎が、この外国の軍に力を与えているみたい。でもあの虎は多くの人の念に捕らわれてる。でも、本人は抜け出したいんだと思う。これは、あの虎の本意じゃないはずよ」
「元は守り神のようだ。おそらく、我らの御魂様のように」
千比良がそう言うと、白乙は頷いた。
「人の念につかまったか」
そう言ったのはクガイだった。
「御霊様、彼らを救えますか。外国の御魂様も民も、そして我らの国の民も」
「あれもこれもと、人は随分と欲張りですね」
そう言って白乙は困ったように笑った。
「それが人にござりますれば。その業の中で悩み、迷い、足掻きながら、短い生を生きております。それが……」
「我らには何とも眩しい。さればこそ、寄り添い、時に手を貸し、共に生きてきた」
クガイと白乙がそう言って笑い、息を吐いた。それは、手のかかる子供を育てる母親のように、何とも優しいため息だった。
「あなたたちも力を貸してね。我らが人の域に手を出すは禁忌。そこに人の意思が添うてこそ、許される。我らはあなたたちの願いがなければ動けない」
龍の声が心に響く。大きな力に助力を頼むには、強い意志がいる。それを忘れてはいけない。そしてそれは、決して私利私欲のためであってはならないのだ。
「さあ、あなたたちの願いは?」
「日ノ本の守りを。攻め寄せるものを、御魂を縛る念を、祓い清め給え!」
二人の声が響いた。
オウ、と、応える声が、いくつも重なった。
「クガイと礼大は島のみんなをお願い。私たちは虎の方を何とかする」
ちあやの言葉にクガイはすぐに礼大を乗せたまま、島へ向かった。
「攻め手だけを」
そう言いながら争いが起きているそのすぐ上を飛んだ。大風が起き、なぜか攻めての兵士だけが飛ばされた。
「よし、」
そう言うと、礼大はクガイの背中から飛び降りた。
彼の目の前で、今にも蒙古の戦士に切り捨てられそうな村の若者がいたのだ。若者の後ろには数名の村人たちがいる。そこには怪我をした者や、年老いた者、すぐにはその場から逃れられない者達がいた。
彼らを庇うように立つその若者は、ちあやの幼馴染、弥一であった。
礼大はそれを知らぬまま、蒙古の戦士と弥一の間に立ちはだかった。そして、錫杖を地に突き立てると、そこから竜巻が起こり、蒙古の戦士を吹き飛ばした。
「な、なんだ」
弥一がその竜巻を見上げる。その竜巻のはるか上に、ちあやを乗せた龍の姿が一瞬、見えたような気がした。
「ちあや……?」
その呟きは、礼大の耳に、確かに届いた。
虎の方向へ向かう途中、ちあやは一瞬だけ村を振り向いた。名を、呼ばれたような気がしたのだ。だが、すぐに向き直った。もう眼前に虎がいるのだ。
「気を付けて。我を失ってる」
白乙が緊迫した声を出した。ごくり、と、誰かの生唾を飲み込む音がする。
かあっと音がして、虎が口から火の玉を吐いた。
「いけない!」
「避けちゃ駄目!」
叫んだのは千比良だった。避ければ背後の村に火の玉が落下する。
「!」
咄嗟の行動だろう。千比良は龍の背中に立ち上がり、両手を広げてその日の玉を受け止める形を取った。
「無茶よ!」
驚いて声を上げる白乙。
「ちあや!千比良様!」
状況に気付いた礼大とクガイが声を上げる。クガイが咄嗟に人の姿に戻り、手にした杖を火の玉に向かって投げた。と、同時に礼大の錫杖も同じ方向へ飛ぶ。
そして、同時にちあやが千比良を足掛かりに高く高く飛んでいた。
クロウから預かった、守りの刀を掲げて。
二つの杖と刀。それが火の玉に突き刺さった。瞬間、それは、大きな音を立てて弾けとんだ。強い風が辺りを吹き荒れ、停泊していた蒙古の船が次々となぎ倒された。
「くっ……」
礼大はその強風の中、必死で耐えていた。他の仲間たちの安否が不明だ。それを確かめたかった。
砂埃の中、凝らした目に、空から降ってくる二つの人影が映った。
(千比良殿と……白乙殿か!)
白乙は大きな龍の姿を取ることを捨て、力を温存するために小さい人型を取ったのだろう。しかしそれでも、空に留まることはできず、千比良を助けることも出来ていない。
礼大はどうにか二人を助けようと走った。だが、二人同時はさすがに無理がある。
「……クガイ、クガイ!」
礼大は走りながら叫んだ。
二つの人影はどんどん地面に引き寄せられる。
(まさか、クガイ)
クガイは自分よりもあの爆発の近くにいた。もしかすると、深手を負って動けないのかもしれない。
「南無三!」
礼大は叫ぶと、二人の真下で両手を開いた。
(千比良を笑えないな)
死ぬかもしれない。けれども、どちらを見捨てることも、まして自分だけ逃げることもできない。運が良ければ、誰かが生き残る。そうしたら、
「日ノ本を守ってくれ」
礼大がそう零した瞬間、
「気味が悪い」
そう、嘲笑する声を聞いた。
直後、黒い影が目の前を横切り、千比良の身体が消えた。同時に白乙の身体が落ちて来て、礼大はそれをどうにか受け止めた。元々人でない白乙は軽く、受け止めることにさほどの労力は必要なかった。
「千比良……千比良殿は……?」
白乙は動けない体で必死に千比良を案じていた。
「無事だ」
白乙の問いにクガイが答えた。その手には千比良が抱えられていた。意識もある。
「すまない、無茶をさせた」
肩口に傷を負ってはいたが、軽傷だった。白乙が全力で千比良を庇ったためだ。そのかわり、白乙はその力のほとんどを使い果たしてしまった。
「皆、傷だらけだな」
そう言って苦笑する。礼大も、クガイも、衣服は破れ、あちこちに血が滲んでいる。無傷のものなど一人もいない。
その時、千比良ははっとして辺りを見回した。
「ちあやは……ちあやはどうした?あの虎は?」
他の皆も可能な限り辺りを探した。しかし、どこにもそれらは見当たらない。
「まさか……」
千比良の脳裏に、火の玉に守り刀一つで飛び込むちあやの姿が映った。
「……ちあや?」
その時、全く別の方向からその名を呼ぶ声がした。
「あいつが、どうしたんですか?」
そこには、腕に深手を負った弥一が立っていた。
気が付くとちあやは真っ暗な空間に居た。
(ここ……どこ?)
首を動かしても、見えるのは真っ黒い空間だけ。何も見えない。
ああ、死んだのか、と、ちあやは思った。何の事はない。自分の命は尽きたのだ。だからこんな空間に一人で居る。そう思った。
目を凝らしても、自分の手さえ見えない。否、そこに手があるのかどうかすら分からない。自分の身体の感覚も無いに等しい。意識だけが、そこにあるようだった。
(さて、これからどうすればいいんだろう)
思いのほか、頭の中は静かだった。自分が死んだことを嘆くこともない。それは自分が執着していないということなのだろうか。何にも、誰にも。
(誰にも?)
ちあやの中で、何かが震えた。
(皆は、どうなったのだろう)
自分は、色々な人達の運命を左右する局面に居たはずだ。そもそもそれはどうなったのか。自分は、守るために居たはずだ。その、歴史の一場面に。
(知りたいか)
声が聞こえた。
(知りたい)
ちあやが応えた。
(守りたいか)
(守りたい。助けたい)
誰かを。
(されば、)
その声と共に、ちあやの周囲の闇が払われた。ぽっかりと、そこだけが光っているように見える。そして、闇の中から、その空間にクロウが姿を現した。
「クロウ!」
ちあやが駆け寄る。クロウはそれを笑顔で迎えた。しかし、その顔はどこか疲れているようにも見えた。
「クロウ?」
「大丈夫だ」
そう言ってクロウはちあやの頭を撫でた。
「クロウ、ここはどこなの?」
「危険な状況だったからな。あの場から切り離した」
「奥州の都のように?」
「そのようなものだ」
護るために現世から切り離した場所。今も同じようにちあやを現世から切り離した。大天狗の力を、クロウの意識を媒体にして具現化した。無茶を承知で。
ただ、護るために。
「礼を、申さねばならぬな」
急にかけられた声に二人はそろって振り向いた。そこには件の虎の姿があった。しかし、もう黒い靄は纏ってはいない。ただの虎の姿だった。
その虎の姿が、ぼやけて歪み、小さな年老いた仙人の姿になった。
「やれ、人の欲と言うものは、何とも限りのないものじゃな。この儂が取り込まれることになろうとは」
そう言って千人は後ろから黒い水晶玉のようなものを取り出した。否、それは、透明な水晶の中に、黒い靄を閉じ込めたものだった。
「これは……」
「儂を取り込んでおったものよ。あの爆発で一瞬でも隙が出来た故な。こうして封じることが出来た」
「人の……欲?」
ちあやは恐る恐る訊いた。自分も人だ。欲も人並みにある。それが、御魂を取り込み、人を危険にさらすものになるのかと思うと恐ろしさを覚える。
「欲はの。人が生きる原動力にもなる。何事も過ぎるのが良くないのじゃ。水も過ぎれば洪水となり、津波となる。風も過ぎれば竜巻となり、火も過ぎれば大火事となる。分かるな?」
仙人は優しく微笑んだ。とてもあの火の玉を吐く虎と同じだとは思えない。
「此度のことは、あなた様の意志の外のことにござりますな?」
クロウが言うと、仙人は頷いた。
「いかにも。そも人の世の諍いに過ぎぬよ。否、其方らの働きで、人の世の諍いで済んだというべきか。結果的には、の」
「どういう、こと?」
ちあやだけが二人の会話の意味を測りかねていた。
「あの火の玉が、村に、国に、人の群れに当たっていたら、どうなったかな?」
仙人にそう言われ、ちあやの顔から血の気が引いた。
「そういうことじゃ。其方らが止めてくれたからこそ、そうならずにすんだ。嬢ちゃんも、人の身でありながらよう尽くしてくれた。礼を言うぞ」
「そんな」
ちあやは首を横に振った。自分は護りたいものを護っただけに過ぎない。それがうまくいっただけでも上々だと思っている。それも、他の皆が同じ思いで動いてくれたからだ。ちあや一人の力ではない。
「我らとて、殺戮が目的ではありませぬ。ただ、このまま其方らにはお帰り願いたいが、如何」
クロウが静かに言った。ちあやはその言葉に微笑んで頷いた。誰も傷つかないのが一番いい。
「仕った。彼らにはこのまま帰らせよう。帰路は儂が守る。それが儂の本来の仕事じゃからの」
「承知。されば、これ以上、手出しは致しませぬ。が、次があれば、また同じようになるやもしれませぬ。我らにはこの国を守るが本来の役目」
「その時はその時じゃ。人の願いに添い、共に在る。願いは欲とも言える。添うてなくてはならぬが、二度と捕まらぬようにせねばなるまい。やれ、人の御守も楽ではないの。お互いに……クロウ、其方」
「は?」
仙人がじっとクロウを見た。そして、ふむふむ、と、何かに一人で納得した後、口を開いた。
「クロウ、其方こちらへ来ぬか?そう、なってまで、そこ、に囚われることは無かろう。もっと広い世界を見るのも一興じゃぞ?」
仙人の言葉にクロウは大きく目を見開いた。それからゆっくりとその目を細め、ぽかんとしているちあやの頭に手を置いた。
「折角ですが、私はこのちを好いておりますれば」
そう答えるクロウを、仙人は寧ろ満足気に見ていた。
「さもありなん。されば、次に相まみえる時を楽しみにしていよう」
「その時をお待ちしておりまする」
「うむ、さらばじゃ」
そう言うと、仙人は高く杖を掲げた。その杖から光が迸り、辺りを白く染めた。
「ちあや、奥州で待っている」
光の中でクロウがそう言った。
「うん。皆と、帰るね」
ちあやはそう返して一度クロウの手を握った。
「帰る、って、素敵な言葉ね」
そう言って、笑う。
クロウも笑い返す。
手が離れても怖くない。
きっとまたその手を取れると、知っているから。
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