第5話

山に雪がちらつき始めると、猟師は囲炉裏端にちあやを呼んだ。

「街へ行け。山での冬越しはつらい。それはわしも同じだ。わしも山を下りる」

「じゃあ、一緒に」

「駄目だ」

「何故」

ちあやは猟師に迫った。もう身内と別れるのは嫌だ。一緒に里で過ごして、また春になったら一緒に山に入ればいい。そう思った。だが、

「お前ももう女だろう」

老猟師の言葉にちあやはぐっと息を詰まらせ、顔を赤らめた。

 つい先日ちあやは月の物が始まったのだ。老漁師は持ち前の嗅覚でそれに気づいていた。

 人間である老猟師でも分かるのだ。獣はもっと少ない血でも気づく。山で血の匂いをさせていれば、豺狼や熊に見つかる確率が高くなる。そう言う意味でも、女は山で生きるのには向かないのだ。老漁師がちあやに山のことを教えたのは、生きる術の一つとしてだ。山での生き方を学ぶことは、里で生きる時も役に立つ。時期を選べばいいだけだ。

 しかし、そうするにしても、里に拠点が必要になる。何よりも、彼はちあやに幸せに生きてほしかった。女として目覚めようとしているちあやを、このまま自分の手元に置いておくわけにはいかないと思ったのだ。ちあやに、女としての幸せを、得てほしかったのだ。

「……街の宿に昔なじみの女将がいる。彼女のもとへ行くといい。そして、そのあとのことはお前の好きにして構わない。だが、ここへは戻ってくるな。あとは女将を頼りにするんだ」

「でも、」

ちあやの目に涙が浮かんだ。嫌だと言いたかった。おじじと一緒にいたいと言いたかった。それでも、月のものの話が出た時、ちあやが思い出したのはあの言葉だった。


「お前は血綾だ」


血が、またも血が、私から大事なものを奪う。そう思った。

 それでも、自分が纏う血の匂いが、大好きなおじじの身を危うくする。それも理解できた。ちあやは、黙って頷くしかなかった。

「いい子だ。わしはこの最後の時に、良き友を得た」

そういって猟師はちあやのあたまを撫でた。

「おじじ様」

(とうさま)

涙があふれた。

 ちあやはなんとなく気づいていた。老漁師の、命の色が、薄くなってきていることに。あの靄のようにはっきりと分かるわけでは無い。けれども、山に住んで、命の始まりと終わりの場所に住んで、少しばかりそういうことを感じられるようになった。老猟師はもう長くは生きられないということ。そして、それを、彼自身が気づいていることも。

 二人はその日、寄り添って眠った。本物の、祖父と孫のように。

 爆ぜる薪の音を聞きながら、いつまでもいつまでも、覚めない夢を見ていた。


 そうして、ちあやは今度は老猟師からの文を持って件の宿を訪ねた。女将は老漁師よりは随分若く見えた。気の良い女将で、ちあやを娘のように可愛がってくれた。

 その女将の宿に旅人が忘れていった荷物を届けに行ったのが始まりで、その足の速さと身軽さを買われ、それを生業にするようになった。

 それは、やがて近所にとどまらず、遠くまで行くようになった。女将は随分と心配したが、近くに来た時に必ず顔を出すことを条件に許してくれた。

 それからちあやは仕事がてら全国を回った。いつも一つ所に留まらず、誰とも深くかかわらず。

 それが、彼女の処世術であった。留まらなければ、深くかかわらなければ、誰にも災いは降りかからない。そう、思っていた。

 その分だけ、彼女は誰にでも愛そうよく接することが出来た。誰にも執着しないということは、誰に対しても平等であれるということでもあった。

 その分だけ、孤独も背負わなければならなくはなるのだが。

 そんなことは、些細なことだと、思っていた。

 このままずっと、一人で生きていくのだと。


「ずっと……一人で……」

寝間で零れたちあやの寝言を、外を通りかかったクガイが聞いていた。

 何も言わずに夜空を仰ぐ。

 大きな月だけが、じっと見ていた。


「それで?どこへ行くの?」

宿を出て、三名は歩き始めていた。だが、ちあやは彼らの目的地を知らない。そもそもどうしてそこへ自分を伴うのかという事情についても、詳しいことは分からないままだ。

 クガイは足を止めてちあやをじっと見つめた。他の二人も足を止める。見られていることに気付いたちあやはきょとんとして目線を返した。するとクガイはついと視線を外して遥か彼方を見た。

「北へ」

「北?」

「そう。北」

二回目の問いには礼大が答えた。ちあやが礼大の方へ視線を向ける。

「今より少し前、京にも劣らない都があった地ですよ」

そう言って、礼大は少し寂しそうに笑った。


 今の場所で政が行われるようになる少し前、その都は滅びた。その都を収めていた奥州藤原氏の当主、藤原泰衡は頼朝の軍により、討ち滅ぼされた。

 それを以って、奥州藤原氏は滅び、都は失われた。

 そのきっかけになったのが、頼朝に敵対したとされる実の弟、源義経を庇護したことによるという。


それから既に八十を数える年が流れ、その時のことを知る者はいない。

歴史として残されているもののどれだけが真実でどれだけが作られたものなのか。

それは、誰にも分からない。


 一行は衣川に差し掛かった。

 そこは、古来、幾度も合戦が繰り広げられた場所である。近くは、藤原氏が滅びた場所でもあった。

 今は何もない。

 恐らく、生い茂った草を掻き分ければ、何らかの痕跡が見つかるのかもしれない。

だが、今はただの野原でしかなかった。

「何か、感じる?」

立ち止まったちあやに礼大が声をかけた。

「……何も?」

ちあやは首を横に振った。ちあやは特にその風景に何も感じなかった。そこには、何もない。ちあやが感じるようなものは、何も。

(……?)

そこに来て、ちあやはおかしいと思った。何も感じないことがおかしい。今まで、どの風景の中にも、多かれ少なかれ何かは感じていた。少なくとも、ちあやが今まで通った、誰かしらの通った跡であろう場所には、年代はバラバラだが、何かの痕跡は残っていた。ちあやに見える、痕跡が。

 それは、遠くに見えることもあった。近くに見えることもあった。それなのに、今、見渡す限りの平原に、遠くにも近くにも何も感じない。そのことが逆に不自然に思えた。

「では、これではどうだ?」

そう言うと、クガイが杖を大地に打ち付けた。どうん、という音が、まるで水面に波紋を広げるように伝わっていった。

 すると、ちあやの目の前の空間が僅かに歪んだように見えた。

「何、これ?」

そう言ってちあやがその歪みに手を伸ばした。すると、見ただけでは気づかなかった、何かの感触がそこにあった。

 それはふわりと、羽に触れるようでもある。人肌であるようにも感じる。それも、その質の良さは赤ん坊のそれだ。生まれたての柔肌。柔らかでほんのりと温かいそれに心地よさを覚えていると

「汝の権利を認める」

ちあやの頭の中に謎の声が響き、辺りが強い光に包まれた。


 ちあやは瞼の裏で光が弱まったのを感じ、恐る恐る目を開けた。そこには、京の都と見紛うほどの美しい景色があった。

 遠くに見える風景は、目を瞑る前に見たものと同じところもある。山々の形、そして、空の色。

 それらはむしろ今見ている風景の中の方が美しくすら見えた。

「こ、こは……」

「入れたね」

「ああ」

気づくとクガイと礼大もちあやの傍にいた。

「あなたたちは知っているの?ここがどこなのか」

「ここは、幻の都」

「滅びたはずの都だよ。一部の人間しか知らない、秘された都」

「お待ちしておりました」

三人が話していると、背後から女の声が聞こえた。声の方へ視線を向けると、そこには真っ白な女性が立っていた。

 髪も肌も抜けるように白く、着物も真っ白であった。女性というにはまだ幼く、ちあやよりもずっと年下に見えた。だが、少女というには少しばかり大きいようにも思えた。それは、彼女の醸し出す、大人びた空気のせいかもしれない。

「あなたは……?」

ちあやが尋ねると、彼女は紅を引いたような真っ赤な唇に微笑を浮かべた。

「ゆきのか、と、申します。ちあや様、クガイ様、礼大様にございますね?」

三名は驚いた。まだ名乗ってもいないのになぜ、と、顔に書いてあった。

 だが、クガイはすぐに、ああ、と声を出した。

「巫女殿にあらせませれば、我らのことなどお見通し、ということですね」

(です?)

クガイの物言いにちあやのみならず、礼大までもが驚いていた。いつもどこか尊大な態度をとっていたクガイが敬語を使っている。この女何者、という気持ちが隠せなかった。

 それを見た、わけではないのだろうが、ゆきのかが何かを察してくすくすと笑った。

「改まらなくてもよろしいですよ。私などまだまだ若輩者」

「それを申すなら、我はさらに若輩にです」

 そういってクガイは柔らかに笑った。その表情も、今まで見たことがなかった。連続して見えるクガイのみたことのない態度のせいで礼大とちあやにはもはやゆきのかは手の届かないほど身分の高いお姫様のように見えていた。

「ゆきのか様」

今度は何だと声の方へ眼を向けると、空から何者かが舞い降りた。膝をついた格好からすっと立ち上がる。その身のこなしは洗練されていて美しい。

 彼、は、クガイと同じ、山伏のような装束を付けていた。しかし、その顔は烏のようである。

「烏天狗……」

そう呟いたのはちあやであった。すると、くだんの烏天狗は声に気付いて振り向き、じっとちあやを見つめた。

「お主……」

烏の目が細められる。そして、その目から、はらはらと涙が零れた。

「な、」

そう発したのはちあやであったか、それとも烏天狗であったのか。

「クロウ殿、」

そういってゆきのかがクロウ、と、呼ばれた烏天狗を気遣った。

「なんでもありませぬ。しかし、何故……」

涙をぬぐうクロウ天狗を見て、その目でゆきのかはちあやを見た。

「やはり……」

「何が、です?」

「否、何も」

ゆきのかはそういって首を静かに横に振り、意味ありげな笑みを唇の端に刻んだ。

「お三方、まずはこの都の主に会ってもらえますか?」

「こちらも、その御方に用がございましてまいりました。先触れもせぬご無礼、まずお許しを請わねばと思うておりましたが、お見通しでございましたか」

礼大が言うと、ゆきのかはふ、と、笑った。

「なるほど。道は、開いていくもの。時が満ちれば……」

そういって、見えぬ目で空を仰ぐ。

「時が、動こうとしている」


 ちあや達はゆきのかとクロウに連れられて一つの屋敷へとたどり着いた。目の見えないはずのゆきのかは、迷うことなく道を歩く。クロウがゆきのかを連れているわけでは無い。むしろ、クロウはゆきのかの少し後ろを従うように歩いていた。

「ゆきのか様」

門番はゆきのかの姿を見るなりさっと門を開けた。

「千比良殿はおられるか」

「は、本殿にてお待ちです」

「ありがとう」

ゆきのかはそういって門の中へ入っていった。

「クロウ様、外からの客人ですか」

門番は目の前に立ったクロウに声をかけた。

「そうだ」

「珍しいですねぇ。私は初めてですよ。外の人間を見るのも」

「こら、失礼をするな。千比良殿の客人だぞ」

「は、そうでした」

そういって門番は引き下がった。しかし、その顔には笑みを浮かべている。心なしかクロウの表情も柔和になっている様な気がした。二人の会話は、馴染みのものと話している気安さがある。そこに、人と烏天狗と言う違いは、何ら意味を成さないように見えた。

 クロウはちあやたちに目配せすると門をくぐった。ちあやたちもそれに続く。

「すまないな」

クロウが歩きながら言った。

「ここは外と隔絶されている故、外を知らぬものも多いのだ」

「いえ、別に」

ちあやはそう言って残りの二人を振り向いた。自分は気にしていないが、礼大達はどうだろうと思った。だが、その心配は要らなかった。二人はどこか機嫌良さそうに笑っている。

 長い廊下を渡ると、クロウが足を止めた。それに従って三名も止まる。

「そこだ」

クロウの声と視線に導かれて目を向けると、一つの部屋の前でゆきのかが待っていた。

 ゆきのかは四人を見ると、こくりと頷いて中へと顔を向けた。

「件の者、お付きです」

「入られませ」

ゆきのかの声に続いて中から凛とした女の声が響いた。

「さ、」

ゆきのかに促され、ちあやたちは部屋の入り口へ進んだ。そこで膝をつき、深く頭を下げる。

「秘されし国へようこそ」

先ほどと同じ声が聞こえ、さわさわと衣の擦れる音がして、近くに人の気配を感じた。ちあやが思わず顔を上げると、目の前に若く美しい女の顔があった。

「其方がちあやか。私は千比良。この都の主だ」

「女子……」

「こら、」

「よい、クガイ」

そう言って千比良は笑った。

「男が言うたのであれば許さぬが、ちあやも女子じゃ。構わぬ構わぬ」

そう言って、千比良はぱらりと扇を開いた。金に染められた、美しい扇だ。

「外の世では、まだまだ男子が中心。女子が主であるのは珍しいには違いない」

そう言って、一瞬、遠くを見る目をした。そして、それをすぐに翻し、ちあやに向ける。

「したが、ちあや。ここでは男子も女子も無いぞ。皆同じように暮らして居る。ちあや、ゆるりと寛ぐがよい。後ほど、美味い菓子など持ってこさせよう」

「千比良さま」

はしゃぐ千比良を、ぴしゃりと嗜めたのはゆきのかの一言であった。

「……分かっている」

それだけで、千比良の空気が変わった。

 一人の女子から為政者のそれへ。


「ふむ……」

「で……」

「鎌倉殿は……」

(よく、分からない……)

その日の夜、食事を終えると、礼大、クガイ、千比良、クロウ、ゆきのかの五名は、礼大が持参した文を広げ、問答を始めた。

 偶然、その時厠に立っていたちあやは、五人が頭を突き合わせているところに帰って来た。集中しているのか、誰もちあやに気付いていない様子だった。

 皆の難しい顔を見れば、何か重要な話をしているということはわかる。その邪魔をするのもはばかられて、ちあやは部屋の隅に座って大人しく会話に聞き耳を立てていた。だが、声は小さく、話している内容は難しそうで、何を話しているのか理解できなかった。

 疎外感があるのは珍しいことではない。どこにも住み着かないちあやは、どこにいってもよそ者だった。辛いと思ったことはない。

 少なくとも、それまでは。

「ちあや」

ふいに千比良がちあやを呼んだ。知らず俯いていた顔を上げると、奥で手招きをしている。ちあやは立ち上がり、千比良の近くに行くと、遠慮がちに腰を落とした。自分が混ざっても良いのかと、思う気持ちは拭えない。

「ちあやは、この国が好きかい?」

千比良の顔が近くに寄る。

 ちあやも女のような格好はしていないが、千比良も女物の着物は着ていない。男のように狩衣を身に着け、烏帽子をかぶっている。髪は結わず、被髪ではあるが、女ほど長くはない。男が髪を下したような長さだ。ちあやとそう変わらないだろう。

 だが、とても美しい。女のちあやも見ほれるほどに。

「ちあや?」

花弁のような唇が、もう一度ちあやを呼ぶ。

「え、あ、ああ、そう、ですね」

ちあやはふっと我に返った。もう一度千比良の言葉を頭の中で反芻する。ぼぅっとしていた頭が徐々にはっきりしてきた。

 好きかと問われればわからない。この国に生まれて育って、色んなことがあった。育った村での思い出はその村を出た時の、辛い思いで塗りつぶされている。それでも、そのあとに出会った人々はちあやに優しく接してくれた。おじじ様にしろ、女将さんにしろ。その時の方が、手放しで幸せだったのではないだろうか。

 もっと幼い頃と言っても、母の記憶はない。父は優しかった。それだけだ。

 それだけでこの国を好きかと問われてもわからない。黙していると、千比良は笑った。

「正直だなぁ。適当に答えるということが出来ぬのだね」

「千比良殿、」

「よいでしょう?クロウ様。今はもう他に誰もおりませぬ。ねぇ、ゆきのか様も」

「…・…女子の身で人の上に立つは苦労も多かりましょう。せめて我らの前でだけでも、気を抜いてもよいのでは?」

ゆきのかはクロウに向けてそう言った。

「しかし、」

そういってクロウはクガイと礼大を見た。

「お国の大事なれば、忌憚なき意見を交わすためにも、ここは心を開いて話し合った方がよいかと」

礼大は自分も態度を崩したい気持ちが漏れていた。

「我らとて、ここでのことを口外するつもりはございませぬ」

クガイが丁寧に頭を下げた。

「ほら」

千比良が味方を得たりと、勝ち誇って笑った。クロウがやれやれといった顔で黙った。

「その、ここはどういった場所で、千比良さまはどういった御方なのですか?」

ちあやはずっと疑問に思っていたことを話してみた。すると、一同は同じような顔をして、見合い、頷きあった。

「もしかして、何も知らないのは私だけ?」

「いや、黙っていたわけではないよ?こっちとしても確証がなかったわけだし」

「お偉いさんの事情も絡んでいるわけだしな」

「私、やっぱり必要ないんじゃ……」

礼大とクガイの援護もむなしく、落ち込んでいくちあやの肩を千比良がつかんだ。

「そなたが在らねば、この国は門を開けなかった。そなたの存在こそが鍵なのだ」

「私…・…?」

「少し、昔話に付き合ってくれるか」

そういって千比良は哀しそうに笑った。

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