第16話 エピローグ


 だんだんと、ぼやけていた感覚が鋭くなっていく。

 泥の中に居るような、生暖かくさが消えていく。鈍い触覚が鮮明になり、状況を把握し始める。

 瞼からは差す光の強さが気になる。

 夢の狭間のような曖昧な状況から、現実に引き戻されていく感覚。

 ゴチャついていた線が、定まっていく。

 冴えていく脳が、目覚めを望む。


 気付けば、瞼は空いていた。

 真っ白で知らない天井が飛び込んでくる。

 そこが自分の身を害する場ではないとうっすら確信して、ゆるりと脳が周り始めた。

 彼、クロノは、惚けた頭で眠る前を思い出す。

 鼻が曲がるほどに濃い血の匂い、突き刺さるような強い痛み、身も凍えるような絶望。

 混沌、危機、そして、



「!」



 思わず、クロノは飛び起きた。

 遅れて、嫌な汗が吹き出てくる。

 それから、自分の体が五体満足であることと、痛みがどこにも走っていない事に気付いた。

 あれだけ濃かった血の匂い、土や草の匂いがなく、人工物ばかりに囲まれている。

 学園の施設巡りで一度訪れた、保健室だ。

 


「俺は……」


「ようやく、目が覚めたか」



 横から声をかけられた。

 すぐに、クロノはその方向を向く。

 椅子に座って、仏頂面でこちらを見つめる男は、クロノも知る男だ。その男は、本を片手にこさえて、脚を組みながらクロノに向き合う様子は、とても様になっている。

 至極、穏やかで、落ち着いているのだろう。

 敵意や殺意といった、以前抱えていた負の感情が、消え去っている。

 彼は、意識を失う直前、共に居た唯一の人間、アリオス・アグインオークであった。



「丸二日寝ていた。怪我は全て、先生方が治してくれたよ。俺もお前も、もう完治している」


「……他の、皆は?」


「何も。全員無傷だったよ」



 クロノの問いに、淡々とアリオスは返答する。

 傲慢さは鳴りを潜め、むしろ、生真面目な雰囲気が前に出ていた。

 とても、静かな人間に感じる。

 静かに何かを心の内に秘めるような、そんな強さがあるように見えた。

 他に人も居ないからか、やけに静寂が響く。

 そして、



「それでお前、どこまで覚えている?」


「え?」


「演習の森を結界が破壊されたらしい。俺が覚えているのは、お前に負けた所までだ。何が起きたか、思い出せるか?」



 その言葉をトリガーに、クロノの記憶は蘇る。

 夢見心地で思い出してはいたのだが、今回はより明確にだ。

 実際に目の前で起きたような、強いヴィジョンが、網膜の裏に映り込んだ。

 チカチカする視界に耐えかね、目を抑える。

 嫌なものが見えてしまったからか、胃のムカつきも同時に起きる。



「……嫌なものを見た、気がする」


「具体的には?」


「何か、居てはいけないものが、居て……それで、戦おうとして……」



 顔色がぐっと悪くなった。

 血の気が酷く引いてきたのを、クロノは感じた。

 思い出そうとするのだが、その度に、ノイズがかかる感覚がするのだ。

 それでも、無理に思い出そうとする。

 だんだんと、鼻の奥にこびりつく、血の匂いが濃くなってきた。

 


「そう、だ……血が、飛び散って、それで、」


「…………」



 五感の全てが、不快感を訴える。

 喉の奥が突っかかるような感覚がした。

 息がどんどん浅くなっていることには、クロノは気付けない。

 自分の掌以外、何も見えなくなってくる。

 たっぷりと時間をかけて、吐き出すように言う。



「駄目だ、上手く、思い出せない……」


「……そうか」



 残念でもなさそうに、アリオスは頷いた。

 沈黙が、落ちる。

 それ以上、触れないように、近寄らないようにしているのかもしれない。

 気遣いなのか、嫌悪からなのか。

 取っ掛かりすらなくて、どうにも気まずい。

 だが、困ったような雰囲気から、何を話していいのか分からないのは確かなようだ。

 

 アリオスは、じっとクロノを見つめる。

 これまで、こんな穏やかな状況で顔を合わせる事はなかったからか。

 どことなく緊張が張り詰める気がした。

 

 

「まあ、無事で、良かった、よ……」



 妙にカタコトになりながら、アリオスは言う。

 直前まで見つめていたのに、喋り始めた時には他所を向いていた。

 それが何だかおかしくて、クロノは軽く笑ってしまう。

 それにアリオスは、心外だ、と言わんばかりに口をへの字に曲げた。



「無事で良かった、か……そんなことを言ってもらえるなんてなあ……」


「……俺は、お前に許されない事をした。処罰を受ける覚悟は出来ている」


「しないよ。するわけがない」



 自然と上がる口角。

 ふわりと軽くなった雰囲気。

 輝きの灯る瞳。


 あらゆる要素が、前とは違う。

 見ようとしなかった、目を逸らしていた時とは違う。

 今まで以上に満足し、幸福を覚えたのは、全力で問題にぶち当たったからだ。

 何も知らない故にただ満ちていて、求める事を止めていたのではない。足りない事を知り、それを埋めるために足掻いてきた結果だからだった。



「俺は、教えてもらったんだ。今まで、人を見てこなかった俺の視野の狭さを」


「…………」


「初めて喧嘩した相手が、お前で良かった」



 クロノは笑う。

 朗らかに、自然に、笑みが溢れる。

 これまで徹底して関係を排されてきた、惨憺さんたんな人生。コミュニティを築き、身を寄せることを求めて、しかし、そのやり方はマズかった。

 だが、今回、ようやく少し分かったのだ。

 何にせよ、まず相手を見ることから始まる。そこから、自分を相手に示さなければ、何にもならない。


 初めて、そうして歩み寄れた。

 人としての第一歩を踏み出せたと、自覚する。



「色々あったが、改めて言いたい」


「……なんだ?」


「俺と友達になってくれ」



 バカ正直な、幼い提案。

 アリオスは咄嗟に、損得や罪悪感、様々な思考が頭をよぎる。

 だが、すぐに止めた。

 差し出された手に、理由を付けるのは野暮が過ぎる。

 ただ、心のままに返答をすべきだと、アリオスは直感していた。



「……俺は、あまり出来た人間ではなかった」


「…………?」


「これまで、ただ傲慢に振る舞ってきた。そうでなければ、自分に価値があるものだと思えなければ、自分の空虚さに耐えられなかったからだ」



 自分の悪いところなど、いくらでもある。

 それを語れなければ、始まらない。

 溜まった膿を吐き出さなければ、立ち行かない。

 愚痴のようなものになってしまうが、それでも、付き合って欲しかったのだろう。

 アリオスの沈んでいくような言葉は続く。



「自分が一番だと思わせて、喜んでもらえる人が居た。そのために、色々とやった。自分の価値を認められたかった」


「…………」


「自分を持てなかったくせに、他を見下ろしていたくせに、お前が、俺を見下せる人間が現れれば俺は癇癪を起こした。その程度の男だ、俺は」



 自己嫌悪に、潰されそうになる。

 痛くなった胸に手を当てて、暗い影が落ちる。

 アリオスは自分の言葉が出る度に、刃物で心臓を刺されたような、鋭い痛みを感じた。

 だが、それでも淀みなく、自傷は続く。

 


「資格がない。俺は、お前に釣り合わない。お前が俺を魅力的に感じているのは、言葉の通り、初めて真剣に接したのが俺だったというだけだ」


「…………」


「止めておけ、こんな男は。今はそんな気はさらさらないが、心変わりしてお前を貶めるかもしれん。止めておいた方が良いぞ」



 蓄えてきた、自己嫌悪。

 感じてきた、他との違い。

 抉られるような苦痛に、耐え続ける。

 そして、



「俺は……」


「駄目だ」



 クロノは、アリオスの肩を掴む。

 沈み続ける彼を、引き上げるように。



「そうやって、自分を貶める事をまず止めろ」


「…………」



 怒っている。

 クロノは、アリオスに怒っている。

 強襲した時も、怒る事はなかったのに。

 彼が怒りの感情を発するトリガーを、アリオスは掴みかねる。

 困惑の間にも、クロノはアリオスに向けて、



「そうやって、悪いところばっかり見るな。それだけがお前じゃないだろう?」


「…………」


「理由がどうこうじゃなくて、お前は鍛えてきたし、実際に強い。真面目に勉強だってしてたんだろ? お前が賢いのは、俺でも分かるぞ」



 何を言いたがっているのか、図れない。

 貴族として腹芸ばかり磨いてきたか、彼の迂遠でも、悪意もない言い方が、咄嗟に呑み込めない。

 思わず言葉を探したのは、やはり、自分のクセが出そうになったからだろう。

 それをするなと、言われた所なのだから。

 


「こうして、ベッドの前で俺を見ていてくれたのは偶然か? 俺に執着してた時も、誰にも当たり散らしたりしなかったよな? 戦った時も、俺が憎かっただろうに、奇襲はしなかった」


「……何の話をしているんだ?」


「お前の良いところだよ」



 アリオスには、分からない。

 いや、それを理解したくないのだろう。

 根本的に相容れない概念だと、心は感じていた。

 


「なあ、もう止めろよ。十年以上も、ずっとそうやって自分に呪いをかけて」


「…………」


「お前は、」


「いや、止めろ」



 アリオスが、言葉を遮る。

 自分が立ち行かなくなるかもしれない恐怖と、認めたくない意地があった。

 被害者であるクロノを相手に、アリオスが何かを制限する道理などない。

 だが、耐えられなかったのだ。

 


「もういい……いいんだよ……」



 求めた時は、過ぎ去った。

 遥か過去にあるものは、どうしょうもなく幼い願望だった。

 歳を重ね、自らに呪いを浴びせ続け、そして、思い出すことすら無くなったものだ。

 何を今更、という想いがある。

 そんなものは、もうどうでもいいはずなのだ。

 拒絶した、望まれなかった、そして、手に入る余地が無くなった。

 なら、もう、それで、

 


「いや、良い訳がない」



 しかし、その部外者は、止まらない。

 アリオスを見る、その瞳は、空のように澄み渡って見える。

 その純真さに、気圧された。

 自分よりも、この男の方が正しいのだと思わされる。この男の言葉を待ち望んでいる、アリオスも居る。

 だが、だが、しかし、



「見てられないんだ。そうして、ずっと沈んで、浮き上がるのを嫌がるお前は。だから、言う」


「待て、待て、俺は……」


「お前は、誰かに認めて欲しいんだ」



 その、剥き出しの心に、触れられて。



「お前自身を見て欲しいんだ。そして、認められたいんだ。自身を貶めた分だけ、貶められた分だけ、救いが欲しいんだ」


「…………」



 それを、否定できない。

 咄嗟に否定と拒絶を口にしようとしたのに、言葉は紡がれない。

 自己嫌悪も、虚無も、数多の呪いも、何もかもが雪がれて、そして剥き出しの心は、



「なあ。俺は、別にそのことが浅ましいなんて思わない。だって、頑張りには報いが必要なんだ。無いなら、あんまりにも寂しいじゃないか」 


「…………」


「報いが必要だ。だから言わせてくれ。俺は、心から、お前を凄いと思ったよ」



 目の前の奇跡を、受け入れた。



「そうか……」


「真面目なんだな。才能だけじゃあ、こうはならない。努力してきたのは、戦った俺が一番分かる」


「そう、か……」


「お前は強いよ。本当に、心からそう思う。何の価値もない人間が、そこまで強く成れるはずがない」


「そ、うか……」


「だから、もう自分を愛してやれよ」


   

 その言葉を、十数年待ち侘びた気がした。

 この言葉を聞くためだけに、これまでの全てがあった気がした。

 血反吐を吐くような努力、尊重されなかった日々、蓄えられていく呪い。その全てが、救われ、美化され、そして浄化されていくのを感じる。



「改めて言う。俺の、友達になってくれ」



 その言葉に、拒絶を示すことは出来なかった。

 吸い込まれるように、差し出された右手を、右手で握り返していた。

 重荷を全て下ろしたような、解放感。

 抗いがたい誘惑に負けた己は、弱いのだろうか?

 待てども待てども、アリオスに新しい呪詛が溜まることはない。

 そして、ようやく自覚する。

 自分は、救われたのだと。


 彼らは、裏に蠢く闇など知らない。

 どんな思惑があったのかなど、『うるさい黙れ』と突き返されよう。

 コレは、ようやく、初めて、互いにとっての友が出来た。

 彼らにとっては、ただそれだけの物語なのだ。



 

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