第15話 魔王降臨

 静寂は闇をさらに濃くするようだ。

 学は自らの体を確かめる。

 身体中に今まで感じたことのない力が漲っている。それと。

 ジャージ上着の下の破れたシャツのことは恥ずかしいので今は考えない。

 腕もお腹も足も、何も違和感ない。人間の形をした自分がちゃんといる。

 闇に覆われていても視界は良好だと感じる。それはおかしいのだと思うが、違和感なく受け入れられている。

 何かを為すことに抵抗も迷いもない。

 それだけの力が自分にはあると知っている。

 最愛の聖女を守るために騎士になった青年を学は探す。

 見つからないのはどう言うことだ。

 チリ……怒りの思念が空気を炎に変えそうになるのを思い留める。

「フェン?」

 呼んでも答えはない。

 嗚呼。

 彼の為だけに在る自分なのに。

 どこにいる?

 学は意識を研ぎ澄ます。当たり前のように自分に満ちる力は息をするよりも簡単に扱える。

 フェンの気配はすぐ近くにあるのに姿が見えない。

「フェン?」

 もう一度呼んでみる。

 返事はない。

 心細さに涙が出そうになる。

 氷の王子と呼ばれようとも、実際はただの女子高生でフェンに恋しているだけのただ人だ。

 そう思うのに、それが許されない訳を知っている。

 フェンは光の聖女の子。闇とは相容れない。

 どうして気がつかなかったのだろう。

 闇を纏う自分がフェンに触れることが叶わないなどと。

 胸が締め付けられる。

 ずっとそばに居ると約束した。

 彼のいない世界など……

「滅んでしまえ」

 無意識に口走った自分を学はゾッとして自分の腕で抱きしめる。

 落ち着こう。

 荒ぶる自分の心はまともじゃない。

 この世界を壊したい訳じゃない。むしろ守りたい。

 この力を簡単に使うことは許されないことだと理解している。大き過ぎる力は破壊しか生まない。そして無意味だ。

 世界を闇で支配しようとも彼女の心は満たされないのだから。

 欲しいものは一つしかない。彼がいればそれでいい。

 問題はどうにも力をコントロールできる気がしないことだ。理由はなんとなく分かる。

 聖女がいないからだ。

 バランスが取れない力は不安定だ。

 学は唐突に母を思い出す。

 高坂家のルールブック。それ以前に一番尊敬する女性だ。

 いつも自分を律し、時には甘やかし、人を許すことも知っている気高い人。学の知る母は氷ではなく人間らしい熱量を抱えていた。その人の娘なのだと自負することは学に冷静さを与える。

「フェン、そこにいる?」

 落ち着いて尋ねると彼の頷く気配がわかる。

「私が、見える?」

 答えは否定。

「私もフェンが見えない。これがどういう状況か、フェンには分かる?」

 答えは肯首。

「声は届いているって認識でいい?」

 答えは肯首。

「私にはフェンの声が聞こえない」

 再び肯首。理由は分からないが姿は見えず声は伝わらない。

「聞こえないけど気配が分かる。不思議やね。フェンがいるって分かるし答えを返してくれるの嬉しい」

 フェンが戸惑ったように佇んでいる。さっきまで触れていた腕は熱を失ったように見えない。さっきまで口付けていた綺麗な形の唇はどこにあるのか分からない。さっきまで支えてくれていた分厚い胸は本当に存在するのだろうか。

「フェン」

 手を伸ばした先は暗闇だ。

 それでも温かい何かを感じる。

 フェンがそこにいる。

「どうして見えへんのかな」

 悲しい現実は学を助けてくれはしない。

 フェンのためにも言葉だけじゃなく顔を見て平気だと伝えたいのに。

 学を異世界に呼んだことを後悔させたくない。むしろかっちゃんのように勝ち組になってラッキーだと喜んで欲しい。

 どうしたらいい?

 学は温かな何かのある先を見つめる。

 きっとそこにはフェンの藍色の瞳があって、本当なら自分を真っ直ぐに見つめていることだろう。

 そう思うと勇気が湧いてくる。

「フェン。待望の魔王降臨やで」

 彼に笑って見せると、彼は苦笑したようだ。

 これだけ感じられるのならば今は問題ない。

 いつまでも姿が見えないのは勘弁して欲しいが、今この時だけだと思えば我慢もできる。

 彼の世界を変えに行こう。

 学は意を決して歩き出した。


 外の世界は暗闇ではなく、晴れ渡った空に心地よい風が吹き、耳をくすぐる鳥の声がしている。

 生き物の気配がそこかしこにあり、煌めきに満ちている。

 それは学が知らなかった世界に思える。命の満ちる輝きを今までは気付けなかった。

「うーん、定番はお城の破壊?」

 即座にフェンから拒否の思考が発せられる。ずっと姿は見えないのにそばにいるのは分かる。意思の疎通も若干ながらできている。

「ふふ」

 学はこれは変わったデートなのだと思うことにする。手は繋げないし、声も聞こえないけれど。

「フェンはお仕事に戻らなくて大丈夫?」

 ずっと気になってたことを聞いてしまった学は、彼の答え如何では自分が耐えられないことを分かっていながら彼の立場もあるのだと理解もしている。

「あ、本当?」

 大丈夫だと彼は言っている。そんなことよりも大事なものが目の前にあるから、と。

「あ、そうやんな。魔王降臨やもんな。え、待って。つまり、第一騎士団の本当の仕事は魔物討伐やから、つまりは私を狩るってこと?」

 疑問詞は尻すぼみになって消えていく。

 フェンは無言だ。いや、言葉は聞こえないのだから思念が閉じたと言うべきか。

 つまり正解だと言うことだろうか。

「フェンを助けたかったのに」

 不安が頭を占領していく。

 これから、どうなる。

 魔術棟から城に向かって歩いているはずなのに誰にも会わないこともおかしい。

 立ち止まるとフェンの気遣う想いが伝わってくる。

 ふう。

 学は立ち止まって息をついた。

 空を見上げると底抜けに明るい青空がある。ふと黒いシミのようなものが空に見え、訝しげにしているとソレは段々近付いてきて輪郭を明瞭にしていく。

 デスラー魔術騎士団団長のところの精霊ランテスだ。

「これは……いや、まさか」

 彼はすぐそばまで来て宙に浮いたまま学を見下ろしてから呻くように呟き、逡巡した後に地上に立った。

 そしてぼんやり見ている学の前でその片膝を折り、胸に手を当てて低頭する。

「え、何?」

「私の今の主はカーライン・デスラーですが、古の主人であるあなた様に逆らうことはできません」

 黒髪の精霊は学の言葉を待っている。

 意味分からん。

 そう言いたいものの、それではいけないことも分かるのでしばらく考える。

「デスラー君を支えて守ってあげるのがあなたの役割やと思う」

「……寛大なお言葉に感謝を」

 彼は更に頭を下げ、それから立ち上がる。

「主人を持つことをお許し頂いたとは言え、我々の存在意義はあなたのためにある。人間どもがあなたを邪魔しないようお側におりましょう。私はお役に立ちます」

 デスラーに対する態度とは全然違うな、と学は思いながら笑ってしまう。

「陛下?」

「いやいや、陛下とかちゃうし」

「いいえ、あなたはまごうことなき我らの王。あなたが命じれば高位の闇の精霊であっても命を投げ出す覚悟がある」

 一つも笑っていない漆黒の目が学を見つめている。

「闇の精霊?」

「はい。光の精霊は聖女の僕。闇の精霊は闇の王の僕。世の理です」

「えっと、魔物は?」

「闇に属する生き物です。ですから命令なくしてもあなたの思考一つで言いなりにできるかと」

「えー」

 嫌そうに呟いて学はフェンの存在を探す。気配を感じられない。

「ご心配には及びません。あやつは聖なるものに属するもの。こちらの領域には入ることが叶わない」

 それ、心配するべきことやん!

 学があんぐりと口を開けて思考を放棄しようかと思っているとランテスがふと目を逸らして顔を赤らめる。

「何?」

 訝しげに問うと彼は「お許しください」と言って学のすぐ側までやって来て、素早い手つきで彼女の上着の前を閉じる。

「私は精霊ですが、人間と長くいた為に、その、女性へ対する配慮も教わりました」

 つまり、学の破れた衣類からこぼれ落ちているささやかな胸の膨らみだとかそういうものが目の毒になっていると言うことらしい。

 自分のささやか過ぎる女性の特徴にはあまり思い入れのない学は、ふと考える。

 フェンはこれで満足できるのだろうか、と。とてつもなく不安になってくる。

「陛下?」

 真面目な顔をして考え込む学に機嫌を損ねただろうかとランテスが首を傾げて学を呼ぶ。

「あ、いや。大丈夫。別に見られて困るもんでもないけど、そうやんな。普通は好きな人以外に見せたらあかんよな。勉強になった」

「はぁ」

 学の答えに訝しげな瞳が返る。

「とりあえず」

 学はジャージの上のジッパーを上げながら挑戦的な目をランテスに向ける。

「この壁みたいなもん、取り払える?」

「領域を解放する、という意味でしょうか」

「領域って言うんや。まあ、とにかくフェンの顔が見られればそれでええんやけど」

 ランテスは学の言葉を少し考えて首を横に振る。

「領域は所謂城砦です。取り払ってしまえば他の領域にも影響がでましょう。であるならば、領域はそのままに、陛下が外へ出てはいかがでしょうか」

 ランテスの言葉に今度は学が考える。

「平たく言うと、ここは私の国で、国はそのままにフェンのいる世界へ行けるってこと?」

「まあ、そう言うことです」

 ランテスは笑顔で頷く。本当にデスラーと一緒にいる時の顔と違うな、と学はまじまじと彼を見る。

「何か?」

「え、いや、何も。それじゃ、フェンのいる場所に移動するにはどうしたらええん?」

「まず認識として、陛下の姿は濃い霧のようなものとしてあちら側にいる人間たちには見られているでしょう。力が強大であるから領域を超えてその存在が認識される。けれどその姿そのものは領域の壁のせいで伝えることはできない。それが領域が守る世界の違いです。つまり、同じ場所にはいるが、姿は異なって見えると言うことです。精霊も同じような理屈で見えたり見えなかったりする訳ですが。もしも私が魔力のないカーラインに私の言葉を聞かせたり見えるようにする為には契約という魔法がいる。まあ、実際には契約するには相手に絶大な魔力があることが大前提ですが」

「そうなん?君たちは契約婚ってことか」

「契約、婚」

 呟き返して、ランテスは学の言葉に何か言いたそうにしているが諦めて無言を通す。

「それで?」

 学がランテスに説明の続きを促す。

「はい、領域を渡るにはある程度の魔力があればどうにかなります。大精霊ショウハンは絶大なる魔力のお陰で精霊界、人間界、我々の魔界、そして神々のおわす天上界などを行き来できています。我々の王である陛下におかれましては、きっと意識することもなく移動は可能。今は人間であった頃の認識が邪魔をして世界を渡れないのだと推測されます」

「ふうん」

 学は分かったような分かってないような顔で頷いて見せる。

「どうなさいますか」

「どうって、できる余地があるんならやってみる」

 学はキッと前を睨みつける。

「よし」

 気合を入れて両の手の拳を握り、脇を閉める。

 兄に駆り出されて喧嘩を止めに赴く時にしていた気合いの入れ方だ。意識を集中し、フェンのいる世界を思い起こす。彼のそばに行きたい。

 学は目を閉じて彼を思い浮かべる。

「いくよ」

 短く呟いて目を開ける。

 世界を超える。

 まばゆい光に包まれて、学は音と視界が鮮明になっていくのを感じる。

 目の前にはずらっと騎士が並び、学に向けて戦闘隊形を取っている。いつでも攻撃できるという意思をひしひしと感じる。

 学は圧倒されて怯んだ。

 会いたい人はどこにいるのだろうか、と首を巡らす。

「学」

 斜め前方、少し離れた位置に彼はいる。

 困ったように藍色の瞳を揺らして。彼の手には手枷が嵌められ、両隣には近衛騎士の刃が光っている。

 遠目にそれを視覚に入れた途端、学は跳んだ。

 一瞬にして距離を埋め、学が近衛騎士たちからフェンを奪還し、空高く舞い上がる。

 青いジャージ姿の敵が空へ消えたことで騎士たちが別の陣形を取ろうと動いているのが目下に見える。

 学は両腕に抱きしめたままのフェンを見つめる。

「なんで!なんで拘束されてんの?」

「反逆罪だ。王を裏切り、魔物を助けた罪」

「助けた?魔物討伐をさせられてたんやろ?」

「ああ。魔物は、討伐した。そして私はこの世界に魔王を喚んだ」

「そう、喚んだだけやん。そうやろ?私を拾ったんはメレスやし。そしたらメレスが反逆罪に問われるべきやん」

「ふふ。学の理屈は面白い」

 切ない夜空の瞳が学を映す。

「私には覚悟がある。いずれ断罪され、命を奪われても躊躇はない。ただ……貴女の笑顔を誰かに奪われることになるのは耐えられない」

 フェンが泣き出しそうな顔で微笑む。

「言ったやろ?私はフェンのものやでって。なんで信じひんの」

「私は自惚が強いタチではないから」

 困ったように、不安そうに、フェンが眉を寄せる。

 手を上げて学の頬に触れようとしたフェンの手首で手枷が揺れる。

「こんなもの、フェンには似合わへんのに」

 学にひと睨みで手枷が粉々に崩れ去る。

 宙にいるはずなのに、フェンは地面と同じようにしっかり自分の足で立てていることに気が付いた。

 魔術騎士団の騎士たちはできるかもしれないが、宙に浮いたり飛んだりすることは難易度が桁違いに高い。つまりこれは学の力だと気がついて、彼は学を見る。

「会いたかったんやで」

「ああ、私もだよ」

 フェンは学を抱きしめる。愛しそうに彼女の髪に顔を埋めている。

「フェン?」

「こんなことを言うと引かれるかもしれないけど、貴女の匂いを嗅ぐと落ち着く」

「引かへんよ」

 学は顔を上げてフェンの頬を両手で包みこむ。

「フェン、大好きやで。やから、私の加護を受け取ってもらえへんかな」

 ドキドキと胸の鼓動が煩い。学の心臓の鼓動がフェンにも伝わっていきそうだ。

 彼女の視線を受け取って、フェンが彼女の手にキスをする。

「貴女がくれるものは何でも受け取る」

 チュッ、チュッと音を立てながらフェンの唇が学の手首を辿り、ジャージを捲って彼女の腕の柔らかな内側を滑り、そして止まる。

 じっと見つめられて学が真っ赤になっている。

「そこまでですよ、陛下」

 ランテスの声と手が二人の間を割る。

「すみませんね、フェン様。光属性のあなたに我が王の加護は受け取れません。正確に言うなれば、受け取れなくもない。だが、勿体無いし」

「ランテス。いいところやのに、なんで邪魔すんの」

 学のブーイングにしれっとした顔でランテスがずいっと彼女に顔を近づける。

「陛下の無駄遣いに一言物申さねば立派な臣下とは言えないですからね」

「臣下とちゃうやん。友達やろ」

「……友達」

 衝撃を受けたかのようにランテスが固まっている。

「こら、そこ!俺たちを無視して何遊んでんだ」

 甲高い少年の声が飛んでくる。

「デスラーくん」

 学が眼下を見下ろして手を振る。

「手を振ってる場合か、学。お前、自分の立場を分かっているのか!」

 若いのに額に青筋を立ててどうしたんだろう、と学が見ていると彼は意を決したように学のいる位置まで飛んでくる。

「俺のランテスまで独り占めしてっ」

 相当怒っているらしい。

 学は少年の機嫌を取るために正面にいるランテスに「お前がどうにかしろ」と圧をかける。ランテスはランテスで顔を背け、更にギリギリまで目を逸らして逃れようとしている。

「デスラー魔術騎士団団長、少し時間をくれないか」

 この場にいる中で一番まともな神経をしているであろうフェンが穏やかに言う。デスラー少年はグッと詰まってフェンを見上げる。

「フェン団長がそう言うのなら」

 少年の答えにフェンが笑顔で感謝を口にする。

「ただし」

「なんや、条件があんの」

 学が腕を組んでデスラーを見ると少し怯えたように後退し、彼は精一杯胸を張る。

「王国に手を出さないで欲しい」

「ん?攻撃なんかせえへんけど、私。え、敵認定されてんの、もしかして」

 今更なことを言う学にギョッとしてデスラーがランテスを見る。

「カーライン、この方は全くもって敵ではないぞ」

 ランテスの言葉にデスラーはあんぐりと口を開けたまま、学に視線を移す。

「でも魔王だろ?」

 デスラーの言葉にランテスが自分のことのように誇らしげに胸を張る。

「頭が高いぞ、カーライン。我ら闇の精霊の王たる方だ」

「だよな?」

 不安そうに確認するデスラーに学はきょとんと目を向ける。

「あ、デスラーくん。君らがフェンに危害を加えるって言うなら、ちょっと覚悟してもらわなあかんけど」

「え、それは……」

 手枷を嵌められたフェンの立場を考えれば現状は良くないと言える。

「私の望みはフェンの幸せやから。それに魔物を狩るってことがどういうことかよく考えてもらわんとあかんかな」

 闇に属するものは魔王のものらしいので、そこら辺はきっちり線引きしておかなければ、と学が真面目な顔をして言う。

「ちょっと整理させてくれ。学は魔王だが、我々を侵略する気がなくて、フェン団長の無事さえ保証されれば良いってことだよな?あと魔物?の保護」

「デスラー君、魔物を見たことあるん?」

「自慢ではないが、ない」

 至極真面目な顔で返して、彼はふんぞり返る。

 秘密裏に第一騎士団が討伐していたことを彼は知らなかったのだ。

「なるほど。で、君は私らの味方?それとも敵?」

 学の問いにデスラーはチラッと地上を見下ろした。

「ランテスが学の味方なら仕方ない。俺も学の味方になる。とりあえず、学の意思を国王陛下に伝えてくる」

 そう言ってデスラーは飛んで地上へ戻る。

 その姿が小さくなって、騎士たちの間に消えるのを見届けて学は改めてフェンに向き直る。

「フェンはこれからどうしたい?」

「貴女の側にいたい」

 即答して彼は学を抱きしめる。熱い彼の体温に学はホッと息をつく。

「私、こっちの世界で暮らせるんかな?」

 異世界に来て、更には魔王の領域というものに棲み分けを強要されそうになっている。聖女と魔王がセットなら、学にもここにいる権利がありそうなものだと思うのだが。

「人は自分と違うものを恐れる」

 フェンが学の考えを読んだように言った。

「うん」

「貴女がいれば私はどこで暮らそうとも構わない。この国ではないどこかで暮らすのもいいし、森の奥でひっそりと暮らしてもいい。貴女が望む通りにしよう」

 優しい笑顔で言われると学はホクホクと心が温かくなってくる。

「フェンはそれでええの?野望があったんちゃうん?」

「貴女を妻にすることが望みだよ」

「でも公爵家に生まれて、お母さんは聖女やろ?立派な地位が約束されているのに、私みたいな、なんか人類の敵みたいに思われてるのと一緒にいたら迷惑なんじゃ」

「では貴女は私の妻にはなりたくないと?」

「ちゃうって!私はフェンと一緒にいたいのに、そんなこと言わんといて」

「ではちゃんと答えて」

 フェンは宙に浮いてはいるが跪いて学の右手を取る。

「高坂学、貴女に希う。私の妻になってくれますか」

「はい。喜んで」

 真っ赤になって答える学を立ち上がって抱きしめるフェンにランテスの冷ややかな目が突き刺さる。

「あなた方の主君をあなた方に渡すわけにはいかない。彼女はもう私の妻だ」

 フェンの言い草にランテスは一瞬考えるように目を逸らして、それから四方へ視線を飛ばす。そこにランテスのように漆黒を纏う四人の青年たちが出現する。

「古よりお仕えしてきた我らに相談もなしに、我が主君は相変わらず我儘であられる」

 一人が言うともう一人が頷き、更に一人はため息をついて、最後の一人に至っては無言で目を閉じている。

「なんやねんなっ、人が人生最大、正念場のプロポーズを受けて幸せを実感してるとこに邪魔しにきてからに。あんたら、許さへんで」

 ギロリと学の目が四人に突き刺さる。

 フェンには見せたことのない迫力ある鬼の形相に四人の目が泳ぐ。

「覚えがあんであんたら。私が私でなかった頃から知ってる顔や」

 なんなら名前も性格も把握している。

 自分が正しく魔王なのだと思う瞬間だが、それは一先ず他所へ置いておく。

「整列」

 学の言葉に瞬時に反応して五人が主人の目の前に一列に並ぶ。

「ランテス、イティス、アドラス、メイトラス、ロイティアス。異議は?」

 学の冷ややかな問いに全員が渋々「無し」と答える。

「よろしい」

 ふんぞり返って言う学にフェンが思わず吹き出している。

「え、フェン?なんかおかしかった?」

 ドキドキ。

 好きな人に笑われるのって心臓に悪い。

 学が青ジャージを整えながらモジモジしているとフェンは学に愛しそうに微笑んでくれる。

「貴女が貴女らしくいられるならば私は何の不満もない。貴女が幸せであることが一番なのだから」

 フェンの言葉に学が感動して目をうるうるさせていると視界の端で蠢く人影に気付く。

「ん?」

 視界の下に騎士団が陣形を取っているのが見える。中心にはメレスがいる。

「そこの青ジャージの魔王」

 よく通る声で呼ばれる。

「降りてきて私と会談の場について貰おうか」

「会談?」

 きょとんと学がメレスを見ると王城では見たことのない武装姿のメレスが大きく頷くのが見える。

「とにかく、地上へ降りてこい、学」

「えー、それだけやる気満々な格好しといて無条件で降りてこいって酷くない?」

 学が高度を下げながらメレスに言うと、彼は自信満々でふんぞり返る。

「王族とは言え私たち人間が魔王に敵うわけないだろうが」

 この人のこういう正直なところが好きなんだけどねえ。

 学は苦笑しながらメレスの前に降り立つ。いつの間にかフェンも五人の僕も側に立っている。

「学、一言言わせてくれ」

 メレスが彼女の前に進み出て改まる。

「何?」

「その青ジャージ、譲ってくれ」

「嫌や」

 即答である。

「何でだよ。お前、また作って貰えばいいだろう。そのジャージは貴重なものの上に開発されたばかりの上もの。今のところ異世界人しか手にできないんだよ。王族でも手に入らない上に格好良いときた。お前と私の仲じゃないか、譲ってくれ」

 熱弁をふるっているように見えても、ただの催促である。

 しかし、今、その青ジャージの下は破れたシャツでまな板とは言え公衆の面前で見られても良いようなものはない。ここはお引き取り願うのが最善だ。

「メレス、言いたいのはそれだけ?」

「いや、違う。本題は和平条約に調印してもらいたい、ということだ」

「和平?」

 争ってもいないうちから和平だということに学は眉を上げる。そもそも、敵認定されることが間違っていると声を大にして言いたい。

「お前には色々不服があるだろうが、取り敢えず会話のできるテーブルにつけって話だ。いいか、学。お前の出方次第で、フェンの待遇も魔物の待遇も決まる。うまくやろうとするのならば、私との話し合の席に就くことがその第一歩だ。力任せに要求を通そうものなら、こちらの屍の山の上に孤独を抱えて立つことになるだろう。私たち人間は弱い生き物だが、群れて強い結束力を生み出す。そうなると困るのはお前たちになるのだぞ」

「んー、本当はメレスの口八丁には乗りたくないんやけど」

 下から睨めつけるように彼を見上げる。

 冷や汗を垂らしそうなメレスを視線で舐めまわし、満足したように学は引いた。

「メレスが私を拾ってくれたから一応話を聞いてあげるわ」

「それでは王城へ案内する」

 メレスが手を挙げると騎士団が道を作る。

 緊張した面持ちの顔馴染みでもある騎士たちを横目に学は王城への道を進んでいく。後ろにはフェンたちが続く。騎士の中にはフェンの部下もいるようで気遣うような視線が入り混じる。

 この日、王国の歴史に刻まれる『魔王降臨』は青ジャージを巡る戦いであったと後の歴史家から推測されることになるのだった。

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