第11話 夢想夜曲

 朝靄に包まれた世界が力強い浄化の光を待つほんの短い闇の残り香のする時間。

 学は未明の空を見上げて吐息をついた。

 昨夜は結局落ち着かない気持ちのまま眠れず、日の昇らないうちに庭園へ出てきてしまった。

「何をそんなに思い悩んでいるんだ」

 頭上から声が降ってくる。

「大精霊ショウハン」

 学の呼びかけに美しい精霊のショウハンは苦笑した。

「大精霊はいらない。それで?」

「あー、思い悩んでること?言ってもいいけど、笑わんといてくれる?」

 学はじーっとショウハンを見上げて言おうか言うまいか、と考えている。

「人の子の悩みを笑うなどとんでもない。我はこれでも精霊の長だぞ?」

「そうやんな。人望ないとできひん仕事やんな。人やないやろうけど。よし、聞いてもらおうか」

「なんでも言ってごらん」

「あのな、私」

「うん?」

「好きな人に抱いてもらいたいねん」

「……ああ、そういう」

「どう思う?」

 真剣な様子で学がショウハンに詰め寄ると彼は目線を宙に逸らしている。

「元いた世界では結構仕掛けられることがあって、そういう体の欲とかうんざりしてたくらいやねんなあ。でも、こっちにきて、なんていうか、目に見える繋がりが欲しいって言うか、あの人を自分のものにできひんかなって考えてしまう」

 誰も見たことのない学の悩む姿をショウハンが見下ろして、そして微笑んだ。

「いいのではないか?人間たちはそうして肉体を繋げることによって魂を繋げることと同義とし、安堵を得る。まあ、子孫も得るが。それはつまり、人間にとっては必要なことなのであろう。多くの者が勘違いしているが、人間の心と体は密接に繋がっている。肉が満足すれば心も満足する。そう言うことだ」

 賢者の言葉に学が感動に潤んだ瞳でショウハンを見上げる。

「そう言ってもらえると、なんか勇気が湧いてきたわ」

「ところで、元の世界で仕掛けられていたとは、どんなことをされていたのだ」

 ふと気になって尋ねてみた、というていのショウハンに学は口ごもる。

「あー、女の子が突撃でチュウしにきたり、密室で素っ裸で迫ってきたり、まあ、色々?」

「ほう」

 興味を引いたのかショウハンの顔が近くなる。

「女子が猛然と迫ってくると言うことだな。異世界の女は自分に正直で素晴らしいな。いやいや、学が困っていたならば良いことではないと分かっているが、なかなか行動に移すのは難しいことだろうに」

「そうやねんな。その時の私は逃げることで精一杯やし、万が一既成事実なんてことになったら相手も自分も困るって思って必死に逃げてたけど、話し合えば良かったのかもなあ」

「いや、逃げて正解だ。熱情に侵された者は対話では正気には戻らぬ」

 何かの経験を思い出してか、しみじみとショウハンが言った。

「本当に感情って処理するのが難しい」

「それが人間だろう?思い悩め、それで良い」

 多くの人間たちに寄り添ってきたであろ精霊の表情は優しい。

「今まで避けてきたものを突きつけられて物事の本質を知ることになるっていう、ちょっと情けない状況に落ち込んでるんやけど、それを知らなかったよりはこうして身につまされることになって良かったとは思ってるんよ」

「そうか。それでは進歩したと思えば良いのではないか」

「うん。ただ、今回は自分だけじゃなくて相手がどう思ってくれてるかっていうこともあるしね。待つのが正解かな」

「答えは出ているのだな」

「無理強いされて困った経験がある身としては、そう」

「そうか。ならば熱情に焦がされても耐えるしかないな」

「うん」

 良い話し相手がいて良かったと学は思う。

 ショウハンのお陰で心の整理がついたように思う。

「ありがとう、ショウハン」

「礼を言われるほどのことはしていないぞ。いずれ、其方はもっと深いところで悩まねばならん。その時に我は力を貸すことができないのでな。今だけは温かい場所で包まれていてくれればと思う」

 そう言って微笑むショウハンにどういう意味かと尋ねようとすると、彼は唐突に消えた。

 朝日が目に入る。

「まぶしっ」

 思い切り目を閉じる。学は光と共に暖かさを感じて再び目を開ける。

 世界は今日も美しい。

 学は意気揚々と朝ごはんを食べに屋敷の中に戻る。

 すると出かける出立のリーインに出くわす。

「おはよう、学」

「おはようございます。もうお出かけですか」

「ああ。寂しい思いをさせてすまないな」

「いえいえ、お仕事大事ですからね」

 学の言葉にリーインが微笑みを浮かべる。

「それはそうと、明日我が家で舞踏会を開くぞ」

「はい?」

「楽しみにしていなさい」

 そう言って颯爽と出かけていくリーインを見送って、学は衝撃から立ち直らないままアトリスに見つけられて部屋へ連れ戻されるのだった。


 朝食後、軽く身だしなみを整えられながら、学はぼうっと鏡を見ていた。鏡の中には浮かない顔の自分がいる。

「お嬢様?」

「え、なに」

「舞踏会のこと、お気になさっておられるのでしょう?」

「うん、まあ」

「会場は別宅の屋敷ですので準備は家の者が全て終えますし、お嬢様は着飾ってそこへ赴けば良いだけですよ」

「うん、そうなんやけど、緊張するわ」

「初めてですものね。今回は見知った顔ばかりだと聞いております」

「いや、見知った顔って、メレスとか、デスラー君とかやし、余計嫌って言うか。むしろ知らん顔の方がホッとする」

 知った顔ならばマナーの採点をされるようで落ち使いない。

「ふふ、お嬢様ったら、その堂々とした顔に少しでも不安だと書いていて下されば、誰も無理を言わないと思うのですけれど」

 そうなのだ。元々目つきが悪いだの、澄ました顔だの言われてきたこの顔だ。無表情というか、狼狽えている感情を顔に表してくれないのだから仕方ない。

「フェンは来てくれへんのやろ?」

「お仕事で都合がつかないと伺っております。その代わり、旦那様がエスコートされますので安心してください」

 だから仕事を詰め込んで早朝から城にいるらしい。

 自分の為だと思うと尚更申し訳なくなる。

「お嬢様が心配されることはありません。旦那様がお嬢様を最初にエスコートしたかっただけですから、気に病むだけ損だと思ってくださいませ」

「そうなの?」

「ふふ。秘密ですよ。フェン様にお任せするより前に実は自分がエスコートしたかっただなんて、きっと死んでも口になされない方です。旦那様も感情が顔にも口にも出ない方ですから誤解を受けることが多いのですけれど、許して差し上げて下さいね」

「うん、そういうことなら舞踏会全然頑張るよ」

 それぞれの想いがある。

 学は異世界に来て大切にしてくれる人たちに恩返しがしたいと思う。

 両親や兄たちには何も返してあげれなくなったが、その分、この世界の人たちを大事にしていけたらと思うのだ。

「さあ、これから仕立て屋と宝石屋が来ますので、お嬢様の明日の装いのチェックをしましょう」

「う、頑張る」

 鏡の中の自分は少し柔らかい表情になっていたと思う。

 学は何とか苦手な分野をこなし、クタクタになりながら一日を終える。まさかドレスの最終チェックに半日、貴金属をドレスに合わせて見るのに数時間もかかるとは思ってもみなかったのである。

 至福の夕食とお風呂を終えてベッドに倒れ込むと、もうウトウトしてしまう。

 もうこれ以上は無理、と思っているとアトリスが丁寧に布団に包んでくれる。それから照明を落として出ていく音を夢現に聞いていると、ここが夢か現実か分からなくなってくる。

「マナブ、もう眠ったのかな」

 好きな人の声が聞こえた気がする。

「貴女に伝えなければならないことが多すぎて、一体何から話せばいいのか」

 ベッドが軋んで、学の肩の側に彼が腰を下ろしたのを感じる。

 フェンの声は耳に心地いいのに、彼がどこか遠いところにいる気がする。

「貴女を愛している。心から。だからこそ、貴女に言わなければならないことがあるのに伝えられないでいる」

 ふわっと髪に彼の手が触れる。

「貴女を失うわけにはいかないのに」

 そっと額に彼の唇が当たる。

「今ならまだ間に合うかもしれない。しかし」

 胸を切なく苦しめる、そんな独り言が降りてくる。

 フェンの温もりが去っていく。

 夢なのか、現実なのか、彼は消えていく。

 側にいることを赦されるのならば。

 彼の揺れる想いを感じ取って、学は呼び止めようとするのに声が出ない。指一本動かせないでいる。

 彼が孤独に堕ちていく前に引き止めなければと思うのに、何もできない。

 そんなのはいやだ。

 学は渾身の力で腕を動かそうとする。

 呪縛が解けるように体が自由になって、そして。

 目が覚める。

 明るい空はもう陽が昇っていることを教えてくれる。

 身を起こすと汗が頬を伝う。

「夢、じゃない?」

 分からない。

 一体何がどうなっているのか。

「お嬢様?あら、汗びっしょりですね。お湯を準備しますからお待ちくださいね」

 顔を洗うための桶を持って引き返し、アトリスが湯浴みの準備を整えてくれる。

 朝風呂でさっぱりして、学は気持ちが落ち着いた。

 とにかくフェンに会わなければならない。

「夜会の前にですか?」

 学の頼みでフェンに会えるようにしてくれないかと言われたアトリスは困ったように眉尻を下げる。

「第一騎士団は今遠征に出られているはずです。フェン団長にお会いするのは難しいかと。でも一応連絡してみますね」

 そう言ってくれるアトリスに学は抱きつく。感謝の言葉がうまく出てこない故の行動だったが、アトリスにはお見通しらしい。愛しむように微笑まれた。

「ありがとう、アトリス。会えないなら仕方ないけど、どうしても気になることがあって何かしないと気が済まなくって」

「そのお顔を見ていれば分かります。どうにかツテを頼ってみますから、しばらくお待ちくださいね」

 そう言ってアトリスは部屋を出て行く。

 相変わらずリーインは日が昇る前に出勤して行ったらしい。一人で朝食を終え、学は部屋に戻る。舞踏会は夜なので、本来貴族令嬢なら今の時間帯から体を磨いたりするらしいのだが学はそんなことは御免だった。

 異世界人組合からの手紙を読んだり、あれこれ過ごしているうちに昼になってしまう。学は昼食の支度ができたと呼びに来たアトリスを見て言葉を呑んだ。

「ダメやった?」

 アトリスから言わせないように学は気を遣いつつ、がっかりする気持ちを胸の奥に押し込める。

「はい。申し訳ありません。やはり遠征に出ている分、会うのは難しいそうです。ただ」

「ただ?」

「お手紙を送って下さると」

「ん、アトリスはどうやって連絡したの?」

「魔法通信のできる人が知り合いにいるのでお願いしたのです。でも直接は無理でしたので副官の方に伝言をお願いしたところ、すぐに手紙を送ると約束して下さいました」

「そうなんや。手紙でも嬉しい。ホンマにありがとう」

 嬉しそうな表情の学にアトリスは安堵したようだ。それでも何か気になるようで視線を落としている。

「本当はお会いになるのが一番ですのに、力及ばず申し訳ありません」

 完璧侍女のアトリスが悔しそうに言うので学は苦笑して首を振る。

「違うよ、アトリス。アトリスがいなかったら私は大好きなフェンに伝えたいことも伝えられないまま、落ち込んでいるだけやったし。アトリスが助けてくれたからこそフェンの言葉を私まで届けてくれるねんで」

「そう言って頂けると嬉しいのですが」

「が、じゃなくて、本当に感謝してるねん。私の感謝の言葉で満足して」

「ふふ、満足だなんて。お嬢様のお役に立てれば、私は幸せなのですよ」

 どうしてこんなにいい人なのだろう、と学が感動にジーンとしているとアトリスが目を伏せる。

「お嬢様なら旦那様もフェン様も心を開かれるかもしれません。私からお話できないことでも、お嬢様にはお話されることがあるかもしれません。ですから、お二人を助けて差し上げて欲しいのです」

「……うん」

 みんな秘密ばかりだ。そういうのは、嫌だ。

「ねえ、なんで話できひんのか聞いてもええ?」

「あ、私としたことが、こんな言い方をすればお嬢様がお気に病まれるのを分かっていながら申し訳ありませんでした。私は公爵家の侍女ですから主人を差し置いてお話しする権限を持っていないのです。ですから曖昧な話をすることになってしまい」

「それってリーインさんとフェンの関係の話なんよね?」

 遮るように言った学にアトリスが目を見開く。

「え、ええ。そうです」

「何かあるとは思ってたけど、やっぱり何かあるんや」

「知っておいででしたか」

「ううん。何となくしか分からんかったけど、そうかなって」

「あのお二人の確執はフェン団長がお産まれになる前から始まっているのです。王家ともつながっている話ですので、おいそれとはお話しできず……」

 気になるがアトリスに罪はない。

「フェンにちゃんと聞いてみるから大丈夫。アトリスは気にせんとってな」

「お嬢様」

「さて、夜会だか舞踏会だかの準備でもしようか?フェンからの手紙は頑張った後のお楽しみや」

「はい、お嬢様。ではお召し替えを致しましょう」

 アトリスが他の侍女も呼んできて準備が始まる。

 もう座ってられない、と根を上げかけた頃、ようやく学は公爵令嬢らしく仕立て上げられる。鏡を見ても、もう自分ではない他人のようにしか見えない。

 伸びかけの黒髪はウィッグを使って結い上げられるだけの長さになり、うなじを見せるように結い上げられたその髪には宝石を使った簪や髪飾りが上品に飾られている。そして首元にも触れるのも恐ろしいくらいの大きな藤色の宝石のはめられたネックレスがかけられている。ドレスは学の少ない語彙力では説明しようもない豪華なデザインだ。学曰くの「ヒラヒラしたレースがこんもりしている」デザインが女性の華奢で柔らかな肢体を気品溢れる艶やかさで包んでくれる。触り心地も滑らかで肌に触れていても軽やかな上級のものだ。

「ええ仕事してはるねえ」

 流石の学もこれには文句のつけようがない。ドレスというものに慣れてきたとはいえ、気楽なジャージやツナギが欲しくなる学でも、ちゃんと着ようと思えるものだ。

「ふふふ、旦那様の力の入れようがお分かりになられますよね」

「リーインさんにほんまモンの娘ができたらエライことになるんちゃう?」

 義理の娘でこんなことになるのだから、自分の血を分けた子ならば尚更愛しいだろう。学はどこか申し訳ない気持ちになってしまう。

「あら、これはお嬢様だからこその配慮ですわ。他の誰であっても、これほどの物はご用意なされないと思います」

「それはそれで問題では?」

 どこの馬の骨かも分からない異世界人に公爵がお金を使うのは公爵家の威光を大いに光らせたいのだろうから、かなりプレッシャーになってくる。

「そういう意味ではありませんのに」

 アトリスが困ったように学を見つめる。その意味が分からない彼女だが、とにかくリーインに恥をかかせてはいけないことは理解している。

「馬車の用意ができているようです。少し早いですが、邸宅へ移動しましょう」

 アトリスに促されて学は馬車まで移動する。

 公爵家の家紋が堂々と入った馬車は大きく、六頭立ての立派な物だ。いつもの小じんまりしたやつでいいのに、と恐れ慄きながら学が着席すると御者が滑らかに馬を走らせる。

 全く揺れることなく馬車は貴族の邸宅街を抜け、やがて郊外へ出て森の中へ入っていく。

 かなりの時間が経ったように思うが、まだ到着しない。

 向かいに座っているアトリスに物言いたげな視線を送ると彼女はにこりと笑みを浮かべる。

「心配なされなくても大丈夫ですよ。夜会の会場は別荘地になりますので今お嬢様が過ごされているお屋敷から距離があるのです。その代わり、広い敷地がありますので多少騒いでも問題ないかと」

「いやいや騒ぐような余裕は全くないからね」

 学は何を期待されているのか分からず、全力で逃げ出したくなってしまう。でも頑張ると決めたのだから、と耐えている。

「邸宅ではお嬢様のお部屋に軽食をご用意しております。夜会でお腹が空いて目を回されてはいけませんから、必ずお召し上がりになって下さいね。その後お化粧直しをして本番です」

「はい」

 もう言われるままやるしかないのだ。

 学はやっと到着した森の中のお城のような邸宅の自分の部屋というものに案内され、目を見開く。普段過ごしているお屋敷の部屋よりも数倍大きく、意匠も凝ったものだ。「どうなってるんや、公爵家」と叫びそうになる。

 お金持ち、半端ない。

「お嬢様?」

 アトリスが物言わぬ学の様子に心配そうに声をかける。

「うんうん、大丈夫やで。平気平気。ご飯、食べよっかな」

 一人しか使わない部屋のただっ広い食卓でサンドイッチやら果物を腹に詰め込み、学は紅茶をあおる。この世界なら未成年でもお酒が飲めるのだ。ちょっと気持ちを昂らせるのにお酒が欲しくなる。だが頭の中に高坂家のルールブックの声がかかり、理性を繋ぎ止める。

 食後の歯磨きと化粧直しをしていると外はもう暗くなっている。

 侍従がリーインが邸宅に到着したと知らせ、入れ替わりに彼がやって来る。

 乳白色の光沢のある生地にかっちりしたデザインの夜会用の服に身を包んだリーインは、それはそれは美しく、鈍く光る銀色のマントを羽織っている。

 絵画から抜け出てきたような麗しさに学は文字通り固まった。

「学?」

「……へ?」

「どうかしたのか」

「いや、なんもありません。ハイ」

 魔性というものが存在するなら、これだ。

 学はそう思って、リーインの姿を記憶に留めるように見つめる。眼福とはこのことか、とスマホで写メできないのを悔しがる。

 冬香に見せたかったな。そんな風に思う。

「学、とても綺麗だ。今夜は君が主役だ。存分に楽しんでくれ」

「ハイ、ありがとうございます」

 煌めく魅力溢れんばかりのリーインの社交儀礼はスルーして、学はそわそわとドレスのフワフワしている部分を手の平でならす。

「落ち着かない様子だな?」

 リーインの声が真横で聞こえて学はギョッとして身を引く。リーインが覗き込むように毛穴が見える距離で見つめてきていたのだ。完璧な美貌の彼には毛穴など存在しなかったのだが。

「ちょ、近い。めちゃくちゃ近いし!」

 思わず真っ赤になった学にリーインが目を細めて見せる。

「初心な反応は男を喜ばせるだけだぞ?」

 リーインが何を言っているのか、最早分からない。

 学が口をパクパクさせて反論らしい反論ができずにいると、すかさずアトリスが間に割って入る。

「旦那様?」

 ギロリと睨むだけでリーインが両手を挙げて降参の意を示している。

「アトリス、悪気はないんだ。そんな目で見るな」

「さようでございますか?私の目には旦那様がお嬢様を手籠にしようとしているように見えましたが?」

「はは、まさか、そんな。娘に対してそんなことあるわけないだろ」

 大人っぽいはずのリーインが自分の兄のような軽薄な感じに見えて、学はプッと吹き出す。二番目の兄が浮気をして彼女に責められている時と同じ顔だ。

「学、笑ってないでアトリスをどうにかしてくれ」

 心底困っている風にリーインが助けを求めてくる。

「リーインさん。アトリスはいつも正しいことしか言わないですよ?」

「それはそうなのだが」

 味方がいないと分かって、リーインが白旗を上げている。

 初対面で会った時の冷酷そうな印象が嘘のようだ。人は見た目では本当に分からないものだな、と思いながら学は思いっきり笑い声を上げている。

「君の緊張がほぐれて良かったと思うことにする」

 リーインが咳払いをして体裁を整え、打って変わって公爵の仮面を貼り付ける。

「お手をどうぞ、我が愛しの娘よ」

 エスコートする為に手を差し伸べてくれるリーインに学も手を差し出す。

 彼の大きな手にすっぽり収まる自分の手を不思議に思いながら、学は一歩ずつ歩き出す。

 部屋を出ると三階建くらいの吹き抜けのあるダンスホールにエスコートされる。

 階段を降りるように演出された初めての舞踏会は頭が真っ白になってしまっていた。

 名を呼ばれて表舞台に出ると拍手に迎えれらた。リーインに手を引かれて階段を降り、メレスやメレスの部下たち、騎士団の見知った青年たち、そして王城で出会った真摯に働くご令嬢たちの顔に安堵してやっとぎこちない笑顔を浮かべられた。

 最初のダンスはリーインと踊って、それからメレスと交代して、兄弟喧嘩のように足の踏み合いをして、それから会場に繋がるバルコニーへと足を向けたのだった。

 冷たい夜風に浮かれてしまっていた頭を撫でられて落ち着いてくる。

 楽しいと素直に思える。

 ここにフェンがいたら、と思うけれど。

 華やかな音楽がバルコニーまで聞こえている。

「狡いな」

 ふと耳に聞こえた声に学は辺りを見回す。

 フェンの声が聞こえた気がしたが、ここにいるわけがない。

「私が最初に貴女を華やかな世界に連れ出すのだと思っていたのに」

 フェンの声だけが耳元で響く。

「フェン?」

「マナブ。愛しい貴女の手を握り、貴女は私のものだと皆に知らしめたかった。兄上は本当に狡い」

 彼の声は諦めに満ちている。姿が見えないだけにとても不安になる。

「フェン、兄上って誰のこと」

「リーインブルク・ドリュードシュバン。母は違うが、父は同じ異母兄弟だ」

「それって」

 苗字が違ったはずだし、お互いに余所余所しいからまだか血の繋がりがあるだなんて思いもしなかった。

「フェンはそれで辛い思いをしたん?」

「私がではないな。母が……」

「フェン?」

 それっきりフェンの声は聞こえなくなった。

 姿も見えず、声も聞けない。

 なのに広間では楽しそうな音楽が奏でられている。

 あんなに楽しくて浮かれていた気分は無くなってしまった。どうしていいのか分からなくなってくる。

「学?」

 広間を振り返るとリーインが立っていた。

「リーインさん」

「どうした?疲れたか」

「フェンが……」

 言ってから、どう説明していいか分からなくなる。それに彼の声が聞こえたと言わない方がいいような気がしてくる。

 リーインが言い淀む学の頭に手を乗せてぐりぐりと撫で回す。

「フェンの手紙が届いたか」

「手紙って」

 声だけのものを手紙と言うのだろうか。

「アイツの場合は想いを届ける媒体は何でも手紙と言っている。それで何を言われた?楽しい話ではなかったようだが」

 学はぐちゃぐちゃになった髪の隙間からリーインを見上げる。

「フェンのお兄さんがリーインさんだって」

「そうか。言ったのか。別段隠していることでもない。みんな知っている。学以外はね」

「そう、なんや」

「ただ、複雑なんだ。アイツの気持ちが癒えていないから」

「どういうこと?」

 尋ねた学にリーインは微笑んで手を離す。それからバルコニーの手すりに肘を乗せて手を組む。

「私たち兄弟の話を、聞いてくれるか」

 彼は麗しい美貌に憂いをたっぷり秘めて、寂しそうに学を見つめたリーインはフェンの過去を訥々と話し始めるのだった。



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