第10話 ミッション

 結局長い睡眠の原因は分からないまま日常を取り戻した学だったが、王城での淑女兼騎士教育は終わりを迎えた。と言うのもメレスの公務が忙しい上に外国からの客があるようで城の警備レベルも数段上がり、そんなどころでなくなったのが主な理由だった。

 相変わらず公爵家の庭を散歩しながら、学は空を見上げる。

 たまに大精霊とかいうショウハンが現れたりするのでお喋りをしたり、おかしな植物を見たりして暇を潰している。

 フェンは忙しいらしく、なかなか会いに来てはくれない。それでも手紙や花を届けてくれる気遣いのできる良い男だ。

 これからのことを考えながら、学はまだ方針を決められずにいる。フェンとの関係は進めたいが、ひっそりと仲を深めたいのに公爵の思惑もあってこのままいくと婚約という話になりそうだ。それはそれで悩ましい。貴族という地位のせいか自分の力の及ばないところで話が進むのはどうしようもない。

 新しい関係を誰かと作ろうとするのは学自身でもできる。だから異世界人コミュニティというものに一度顔を出してみようと思っている。今はアトリスに使者を送ってもらって会う段取りをつけてもらっている。ジャージも手に入れたいところだ。

 学が見上げる青い空は異世界も元いた世界も変わらなく美しい。歩みを進めながらつらつらとまた考え事をしてしまう。

 今頃みんなはどうしているだろうか。

 高校を卒業したら専門学校へ行くか大学へ行くか悩んでいた。高校は普通科に行けという母の指令で普通高校に通っているが、バイク屋になるのなら整備士の資格を得るために工業系へ進学するのが良い。それを母は反対している。バイク屋は家業だからいつでもなれるが、他のことは若いうちにしかできないという持論だ。学にはよく分からないが、家族のルールブックの言葉は無視できない。

 そんな悩みも今は必要のないものになってしまったが。

「お嬢様」

 アトリスが呼ぶ声が聞こえる。

 学は来た道を引き返して木の間でアトリスを見つける。一緒に屋敷へ戻る途中にリーインからの書簡が届いたことを教えてもらう。彼も多忙でここしばらく屋敷には戻っていない。学が落ち着いたこともあり、仕事に専念しているようだ。

 広間に行くと執事のアーツが恭しく手紙を渡してくれる。

 学は部屋に戻ってから読んでみる。

 しばらく解読しようと頑張ってみたが、彼女はアトリスに手紙を渡して宙を睨んだ。

「アトリス、そこには舞踏会って書いてあるように思うねんけど」

「その通りでございます」

「舞踏会……」

 馴染みのない言葉に学の思考が停止する。

 武闘会?お礼参り、カチコミ?

「王城で開かれる舞踏会への参加要請ですわね。公爵令嬢であれば参加は義務でございます。エスコートはフェン様に話を通してあるということですから、お二人で楽しまれてはいかがですか」

 そんな訳のわからない会でフェンと楽しめというミッションはかなり難易度が高いのではないだろうか。

「お嬢様?もしかして舞踏会をご存知ないのですか」

「……ああ、メレスとやった淑女教育というやつで言葉は聞いたかも…ダンスパーティみたいなもんやんな?」

「そうですね。美味しいお料理もありますよ。お疲れになれば王城にある公爵家の休憩室でお休みになれますし、お気持ちを楽にして参加なさってはいかがですか」

「アトリスも来る?」

「はい。途中までお供します。舞踏会の間は控え室にてお待ちします」

「あれ、そう言えば、アトリスはリーインさんの乳姉妹やけど男爵家のご令嬢やったよね。ご令嬢として参加しないの?」

「残念ながら王室主催の舞踏会に参加できるのは伯爵家以上の格のある家門ばかりです」

「うーん、いまだにそのカテゴライズが分からへんわ」

 身分制度というものに慣れないのは仕方ないとしても、覚えるべきであることは承知している。フェンと付き合うにはそれに相応しい態度を身につけなくてはならないし、彼の重荷にはなりたくない。

 気が重いが挑戦しないわけにはいかないのだ。

「それからお嬢様、異世界人組合の方から連絡がありまして」

「ほんま?」

「ふふふ、お顔が一気に明るくなられましたね。組合長のナギサさんという方が是非お会いしてお話ししましょうと。日時と場所のお伺いをされていますが、いかが致しましょう」

 アトリスがお茶の用意をしながら尋ねる。

「場所?組合って言うくらいやから事務所があるんちゃう?そこで良いけど」

「うーん、本来ならこちらへお呼びするのが正しいやり方です。公爵家のお嬢様がお訪ねになるようなことはあってはいけません。ただし、異世界人であるということを前提とするのならば、護衛を付けたお忍びという形で訪問なさっても問題ないかと思います」

「じゃあ、お忍びで。呼びつけるのは気が引けるわ。同じ国で育った人たちやし、仲良くしたいもん」

「そうですよね」

 異世界人と一括りにしても色々な人がいる。それは学も分かっている。でも故郷に帰れないという切ない気持ちは共有できると思うのだ。

 楽しみができて学のご機嫌度が上がっていく。

「アトリス、舞踏会の準備って何したらええの?」

「準備はこちらで全て整えますのでご心配なさらず。お嬢様のご希望のドレスもご用意できますが、きっとご負担になるかと思いますので」

「ホンマにアトリスは良くできた侍女様様やわ」

「当然でございます。公爵家の侍女でございますから」

 アトリスの誇らしげな様子に学は思わず微笑んでしまう。仕事に誇りを持っている人は素晴らしいと実感するのだ。

「ですが、お嬢様」

 アトリスが改まった様子で言葉を続ける。

「私個人としましても、お嬢様のお役に立ちたいと思っているのです。ですから、どんな些細なことでもご相談下さい。お嬢様を支えて差し上げられるのならば私はどんな助力も惜しみませんから」

 心からの言葉に学は一瞬言葉を失った。

 アトリスの慈愛に満ちた眼差しに胸が熱くなる。

「ありがとう」

 それだけ、喉から振り絞るように学は言った。

 嬉しい気持ちを表現する言葉を他に思いつかない。どんな言葉を尽くしても今の自分のこの気持ちを表現できる気はしなかったが、アトリスの顔に浮かぶ表情を見ていたら言葉にしなくても伝わっているのだと安心できる。そんなところまでも優秀なのだ、彼女は。

「リーインさんに嫉妬しちゃうな」

「あら、どうしてでございますか」

「だって、アトリスのことをずっと小さな頃から知ってるんやろ?私も昔からの知り合いになりたかった」

「今からでも十分深い仲になれますわ」

「ふふ、深い仲って、なんか恥ずかしいね」

 学の少女のような笑顔にアトリスも照れて笑っている。

 幸せな時間が異世界でも手に入る。

 そんなことが嬉しくて学はいつまでも笑みを浮かべている。

 屋敷に戻るとリーインの指示で仕立て屋が来ていた。学はアトリスと顔を見合わせて苦笑すると、仕立て屋の採寸にデザイン案にとみっちり付き合わされて、息も絶え絶えになりながら夕食の時間を迎える。

 夕食用のドレスに着替えて、学は食堂に向かう。すると廊下で待っていたリーインに会う。

「お帰りなさい?」

 普段着、とはいえ、質の良いシャツとズボンのラフな姿のリーインの差し出した腕に手を添えて、学が言うと彼は麗しい顔で微笑んだ。

「ただいま、娘よ」

 まだまだ若いリーインに娘と呼ばれると変な気分だが、なぜか上機嫌な彼の顔を見ているとどうでも良いことに思えてくる。

「元気そうで何よりだ」

「はい。とっても元気ですよ。リーインさんは痩せました?」

「忙しくて食事が抜ける日もあったからな」

 リーインは学を席に送って主人の席へ就く。

 まずはワインを楽しむいつものリーインに学は安心する。食欲はあるようだから心配はなさそうだ。

「そう言えば、舞踏会があるって手紙をくれましたよね」

「ああ。外国の大使を招いて催される王室主催の舞踏会だ」

 リーインの言葉を聞いて学の顔が青くなる。そんな大規模のものだと思っても見なかった。初心者に優しい舞踏会じゃないのか、と抗議する目でリーインを見ると彼は笑っている。

「安心しろ。本番前にいくつか舞踏会を経験させるから。雰囲気に慣れておくのも良いだろう」

「雰囲気、大事やね」

 試合に慣れないといつもの実力が出なかったりする。よし、気合いだ。

 学は何とかモチベーションを上げて、逃げ出したい心を落ち着かせる。

「学は人前に出るのが苦手なのか」

「あんまり好きじゃないねんなあ」

「そうか。だが、君はいつも堂々としているだろう。それは得難い才能だ。存分に舞踏会で披露してくれ」

「……まさかの無理強い」

「気にするな。他人は自分が思うほど見ていないものだ」

 その顔でそんなことを言うのか、と学が奇異なものを見る目で彼を見ているとリーインは何を勘違いしたのか嬉しそうに微笑んだ。

「君の父親としてデビュタントには力を入れるつもりだから安心するといい」

 なんだかベクトルが違う方向へ向かっていっているリーインの様子に学は何も言えずに愛想笑いを浮かべてその場を凌ぐしかない。

「そう言えば、リーインさん。外国の大使が来られると言うことは、外国語ができないとダメってことですよね」

 学の問いに彼は首を振った。

「各国の大使はこちらの言葉が分かるから安心するといい。それに外交官以外で外国語ができる者は貴族でも半々くらいだ」

「でも外国語が出来た方が良いんやろ?」

「そうとも言えないな。もし学が外交の方面に行きたいのなら必要だが、そうではないのだろう?」

「外交官なんて無理やわ」

「ならば必要ない。とは言え、外国語は我が国の言葉にも似ているから完全に分からないと言うこともないかもしれないな」

 そう言って微笑んだリーインの後ろでアトリスが呆れた様子で首を振っている。どうやらリーインと同じ尺度で物を測ってはいけないのだと悟る。

「それで、どうして外国語が必要だと思ったんだ?」

「え、どうしてって……」

 学はリーインを仰ぎ見て、それから手元に目を落とす。

「リーインさんの役に立ちたい、から」

 小声で言った学の言葉はちゃんと彼に届いたようだ。ふわりと微笑みを漏らして、彼はワインを口に含む。それからグラスを置いて立ち上がると学の背中に回り込む。

「リーインさん?」

「娘に、これを」

 リーインは学を挟むようにテーブルに両手をついた。彼女の背中から覆い被さるような形になって、お互いの顔が隣に並ぶ。

 彼は右手の人差し指に光る乳白色の宝石のはまったシンプルな指輪を彼女の右手の同じ指に合わせるように乗せる。すると指輪が強烈な光を放ち、学の指に移る。

「え、ええ?」

 摩訶不思議現象に学が目を剥いている。

「公爵家に伝わる指輪の一つだ。術でサイズを自由に変えられるようになっている。危機が訪れれば主人を守り、主人が迷えば道を照らすという。いわゆる、ありがたいご利益のある道具だよ」

 ご利益なんて言葉を異世界で聞くとは思わなかった学である。

 不思議そうな目でリーインを見ていると、彼は体を離して席へ戻る。

 フェンとは違う熱く大きな体が背後にあったのだと、その余韻が感じられて身体が少し震える。

 今更だが、騎士でもないのに見事に鍛え上げられた身体のリーインの、自分とは違う角張った指や広い肩、厚い胸板、そんな男らしさに眩暈がするほど酔わされる気分になる。

 どうしてだかフェンに会いたくてたまらなくなる。

「舞踏会では私の娘としての顔見せと最後の異世界人だという顔見せの二つの意味がある。だが、あまり気負わずに楽しんで欲しい」

「はい」

「それから、第一騎士団長殿にエスコートは頼んであるが羽目を外してはいけない。正式に婚約し、彼の妻となった後で関係を結ぶように」

 まるで母親のようなことを言う、と学は苦笑した。

 高坂家のルールブックがここにいたら、きっとリーインと気が合ったことだろう。

 学はそっとリーインを伺う。

 若くして公爵家の主人として多くのことを采配し、宰相としても国家の命運を握っている。

 そんな人の娘で外国の大使が来る舞踏会への出席ともなれば、普通なら求められることも多いだろう。異世界人だから免除してもらっているとしても、拾ってもらった義務を果たしたい。

 学は自分に任務を課す。

 外国の大使とうまくやる。そしてリーインの評判を上げるためにソツなくこなす。

 これに限る。

 だが舞踏会というものを知らないせいで、うまく想像ができないでいる。

 本番までになんとかなるといいのだけど。

 学は湧き起こる任務への闘志と一抹の不安を抱えながら食事を終え、部屋へ戻る。

 湯浴みを済ませ、アトリスに温かい紅茶に蜜を溶かしたものを用意してもらって、学は多少お行儀悪くともふかふかの寝具の上に乗っかって、ほっこりそれを飲んでいると窓の外で微かに音がした気がする。

 は、と気がついて、学はアトリスにもう寝るから、と彼女を下がらせる。

 それからバルコニーへと続く窓をそっと開けてみる。

 やはり、というか何というか、期待していた人が目の前にいる。はにかむ様に微笑んで、彼は中に入って窓を閉めた。

 彼のその柔らかな金髪が前に会った時よりも伸びていて少し違う印象を受ける。一方、夜空を思わせる藍色の瞳は綺麗なままで変わらない。

 フェンから外の空気の匂いがする。

「久しぶりに会えた」

 彼は学の頬に手を当てて嬉しそうに言った。

 よくよく彼を見ると小さな傷跡が頬や首筋にあり、きっと身体中に似たような傷があることを学に想像させる。

「忙しかったんやもんね」

 危険な任務についていたのかもしれない。

 もしかすると二度と会えなかった可能性もあったかもしれない。

 学はぎゅっと彼に抱きついた。戸惑った様に、しかししっかりした意志を持って彼は学を抱き返す。

「熱烈歓迎、という意味で合ってる?」

 フェンが悪戯っぽく問うてくる。

「うん。まさに熱愛やで」

 彼の逞しい腕の中にいて、学はここが自分の居場所だと思う。

「情熱的な貴女の姿が見られるなんて最高だな。そうだ。今度王宮で開かれる舞踏会で貴女のパートナーを務める栄光に預かることができた。貴女を独占する許可が下りたのだと思って浮かれている」

「ふふ、私もフェンのパートナーなんて光栄やわ。フェンの側にずっといてもいいなら舞踏会もそう悪いもんとちゃうよね」

「だが、もし貴女が王子殿下にダンスを申し込まれたりしたら私は貴女を送り出すことしかできない」

 切なそうな声音にフェンの厚い胸に押し付けていた顔を、学は上げる。

「メレスが私をダンスに誘う訳ないやん。私はフェンと一緒に過ごせることだけが楽しみやねんで」

 あれこれミッションはあるものの、舞踏会のメインはフェンと過ごすことだとミッションを書き換える。

「マナブ、この国の王子はメレス殿下だけではないよ」

 苦笑してフェンは学を抱き上げると、ふかふかベッドに運んで押し込める。そして自分は椅子を引き寄せてきて座り、ベッドの学を見下ろす。

「貴女が無理をするといけないから、このままで話そう」

 無理なんて一個もしてないねんけど、とボソボソと口の中で反抗して見せた学だが、フェンの綺麗な笑顔の前に大人しく言うことを聞くことにする。

「フェンは舞踏会好き?」

 学の問いにフェンは首を振る。

「あまり得意ではないな。ただの騎士だった頃は騎士団の仕事で抜けることができたから良かったのだけど、団長職に就いてからはそうもいかなくなってきた。社交ができなければ団長は務まらないらしい。とは言え、デスラー魔術騎士団団長は副団長が社交を担っているから舞踏会で見ることはないな」

 羨ましそうにフェンが言った。

「そうなんや。でもフェンが目当てのお嬢様たちは嬉しいやろうね。フェンに会えるのは舞踏会くらいやろ?」

 仕事であちこち行かされているようなので学だって会いたいのを我慢しているくらいなのだから、普通のご令嬢たちがフェンに会おうと思えばツテを頼っても難しいことだろう。

「さあ、私がそこまで誰かの意中の人になれるとは思わないな。貴女の心を射止められたのは本当に僥倖だと思っている」

「僥倖……」

 難しい言葉が出てきた。

 なんだか嬉しいことを言われているはずなのに、言葉の意味が分からないのは勿体無い気がする。

 学はスマホで検索しようとして、それがないことに気がつく。

「あ」

「どうかした?」

「あの、私、こっちの世界に来る時に持っていたもの、どうしたかな、と思って。難しい言葉とか調べるのに便利なものがあって」

 スマホは制服のポケットに入れていたはずだが、今考えるとこの世界に来た時から無くなっていた。

「ああ、それなら持ち込めないものがあるらしいことは分かっているから、後で閣下に聞いてみるといいよ」

「やっぱりそうなんや。なんか、ないなあって思っててん」

「大切なものだった?私が贈ってあげられるものならば直ぐに手配するのだけど」「ううん。スマホって言うんやけど、知ってるかな」

「ああ、異世界人の部下から聞いたことがあるよ。高価で便利な道具らしいね。残念だがこの世界には持ち込めないようだ」

「魔法とスマホが共存できない世界なんやね」

 不思議だ。

 学は布団をめくって起き上がるとフェンに笑いかける。すると彼の顔が赤らんで、押し倒される。のかと思ったら、再び布団に押し込められた。

「貴女は油断すると直ぐに無理をしてしまうから」

 赤い顔のまま、彼は学を見つめている。

 なんだか釣られて赤くなってしまった学は手を伸ばしてフェンの伸び過ぎて目を覆いそうな前髪をかきあげる。

 柔らかい金髪を指に絡ませていると彼が学の手を自分の右手で包んで唇の前に持ってくる。

 彼の熱い手の平に包まれた自分の手の甲と、柔らかい唇に触れている掌が今、身体中のどこよりも敏感になって彼の存在を一身に感じようとしている。

「私を煽ると引き返せなくなるけれど」

 それでもいい?

 フェンが今まで見たこともないような野生的で危険な匂いのする瞳を向けてくる。

 学の心臓が物凄い勢いで鼓動を打ち出す。

 フェンの顔が近づいてくる。身を乗り出した彼の綺麗な顔を見ていると、ふ、と彼が息を漏らす。

「え?」

「すまない。貴女があまりにも無防備すぎて。私も男だから、好きな人と素肌を合わせたいと不埒なことをいつも考えている。だから私に襲われないように気をつけて欲しいと」

 フェンが言い終わらないうちに学はその唇に噛み付く。

 起き上がった時に勢い余ってフェンに体当たりするような形になってしまったが、彼はしっかり彼女の体を抱き留めている。

「だから煽るなと言っているのに」

 フェンは苦しそうに呟いて、学に口付けたまま押し倒す。

 貪るような荒々しいキスに学は一生懸命応えようとするが、息もできない。

 彼の激情が堰を切ったように溢れ出してくる。普段の穏やかさなど欠片もない姿に学の理性は吹き飛んでしまう。

 獣のようなキスの嵐は違う熱情を連れてくる。

 フェンの右手が学の首筋を優しく撫でていき、そして胸元に降りてくる。だが、その手が宙に浮き、耐えるように拳を握る。

 熱に浮かされた唇が離れていく。

「こんな風じゃなく、もっと優しく、貴女を大切に抱きたい。だから、今は堪えるよ」

 フェンが切なそうに夜空を映した瞳で学を見つめる。

 乱れた髪を撫で、寝具の乱れを直すとフェンは学の額にキスを落とす。

「貴女を愛している。だから今夜はもう帰るよ」

 学の頬を包むように手を添えて、それか意を決したように離れていくフェンの背中を学は見送る。

 本当は。

 我慢なんてして欲しくない。自分も彼を望んでいると知っていて欲しい。

 でも言葉にできなかった。

 学は熱の去った寝台で迷子のように置いてけぼりの気持ちになる。元いた世界でも感じたことのない正体不明の感情に精神崩壊しそうになって、とりあえず、何も考えないように布団に突っ伏して無理やり目を閉じたのだった。

 

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