第7話 聖女と魔性

 フェンが咄嗟に腰に刺しているはずの愛剣を探すがプライベートな外出に剣帯していないことを思い出す。これは公爵であるリーインに厳命されたことだった。

 往来にいた人々が逃げ惑っている。悲鳴や複数の足音に怯えているだろう学を心配して彼が腕の中の愛しい人を安心させように覗き込むと。

「フェン」

 思いのほか、強い瞳が彼を見返す。

「剣が必要?手が探してたけど」

「ああ、だけど、魔法が使えるから安心して」

「うん、分かった。それで、私はどうしたらええ?」

「どうしたら……?」

 まさかそんな風に聞かれるとは思わなかったフェンはまじまじと学を見つめる。

「うん?」

 いつの間にか学の護衛だという男が側にいる。魔獣を注視してこちらをいつでも守れるようにしているから問題はないだろう。

「マナブ、まずは隠れて様子を見よう」

「分かった」

 馬車から離れて、フェンと学が、アトリスと御者をマーカスが保護しながら大きな建物の影に隠れる。

 魔獣を離れた所から観察すると、学が感心したように唸っている。

「あれだけの大きさを支える小さい足とか、もう理論は無茶苦茶なんやな。さすが異世界」

 魔獣はトカゲを大きくしたような体だ。図体の割に手足は短い。だがその爪は長く鋭く、人体など簡単に引き裂いてしまいそうだ。

「あれの弱点は何か分かってるん?」

「弱点か。そうだな、体は頑丈だが知能は低い。いつもなら剣で一瞬で斬り殺すのだが」

「いつもなら?」

 確か魔獣は聖女が魔を封印してから出てきてないと言っていなかったか。

 学はじっとフェンを見た。

「今ここで説明する時間を考えると適当ではないと考える。だからマナブ、今度きちんと説明するから、今は私のことを信じて任せてくれるか」

「うん、ごめん、邪魔して」

 学はフェンから離れてアトリスの隣に立つ。

「魔法でも何でも使って、倒してきて。それが騎士の仕事なんやろ?」

「ああ。すぐ終わらせる」

 フェンは学に極上の笑みを見せ、そしてマーカスに睨みを効かせるように視線を投げた後、通りに出ていく。

 魔獣の動きは鈍い。

 妙な影を撒き散らしながら、目的もなく進んでいる。足元の石畳は魔獣の重さでなのかミシミシと音を立てて崩れていく。

 フェンが右手を挙げた。その手に風が集まっている。

「お前の目的が何かは分からないが、神の国へ行け」

 優しく彼は言った。そして手を魔獣へ向けた。圧縮された風の刃が魔獣を形もなく切り裂いて一瞬で消してしまう。

 歓声が上がった。

 街の人々がほっとして通りに出てくる。魔獣による被害はえぐれた石畳だけだった。

「フェンってすごいな」

 キラキラした目で学に見つめられてフェンも悪い気はしない。いつもだったら当然のことだと冷静に事後処理を指示するが、今は仕事ではない上に口説いている女性が一緒にいるのだ。

「マナブ、怪我はないかい」

 フェンは優しい手つきで頬から首筋、肩へと撫でていく。

「ちょっ」

 こそばさに慌てた学を守るようにアトリスが前に出てくる。

「フェン様、女性の体にみだりに触れることは紳士としてどうかと思います」

「いや、怪我がないか確認しているだけだ。他意はない」

 真面目に答えたフェンに学は恥ずかしくて目を逸らす。

「マナブ?やはりどこか怪我を」

 もう一度手を伸ばしてきたので、学は慌ててアトリスの背に隠れる。さっきまでいたマーカスはもう影も形もない。

「大丈夫やから、ちょっとこっち見んといてな」

 赤い顔を落ち着けようとして言うと、フェンが回り込んできて学の顔を覗く。

「デートの続きをしても構わない?」

「うん」

 手を差し出したフェンを見上げて、学はおずおずと手を伸ばす。

 すると喧騒の中、何かが空から降りてくる気配に学が目を上げる。そこには紫色のローブを纏った筋肉マッチョの騎士が数人いた。

「魔術騎士団だ」

 街の人々が小声で話している。

 見たところ小柄な、というよりも子供のデスラーはいないようだ。そう思うと、あのガタイのいい騎士たちの中にいるデスラーはかなりのやり手なのかもしれない、と学が認識を新たにする。

 魔術騎士団の騎士がフェンに気付いて黙礼した。休暇を邪魔しない心遣いらしい。

「マナブ、行こう」

 フェンは何事もなかったかのようにパティスリーへ学を連れていき、あれもこれもと買い物をしてから馬車へ戻った。

 馬車が甘い香りに満ちる。

「お腹一杯でも、これは嬉しいね」

 もう食べられない、と思っていてもデザートが別腹なのは不変の事実だ。

「マナブ、これからアグリシュ庭園へ行こうと思うけど、どうかな」

「庭園?」

 公爵家の庭園でえらい目に遭ったのは記憶に新しい。

 学は慎重にフェンの様子を伺う。

「何か疑っているみたいだね。でも安心していいよ。普通のバラ園だ。この前まではマーケットを開いていたけど、今の時期は静かだから、ゆっくり過ごせると思う」

 フェンが安心させるように言った。

 学がアトリスに目線を送ると彼女は微笑んで頷く。そして小声で「恋人たちのデートの定番です」と囁く。

「……行きます」

 行かないとは言えない。

 学はフェンの優しい眼差しを受けて照れたように俯いた。

 そう言えば、と彼女は遠い目になる。

 女子からの告白を受けた時、じっと相手を見つめると彼女らは目を逸らすか俯いて、学を見なかった。その気持ちが今、分かる。恥ずかしくて見ることができないのだ。そんな思いを経験することになるとは、まさか思わなかったが。

 学は小さく吐息を吐いて、決意を込めてフェンを見る。ずっと見られていたらしく、すぐに目が合う。そして、安心させるように微笑まれるのだ。その美貌を照らすように窓からの光が差し込む。

 藍色の瞳が星空のようで綺麗だな、と学は思った。

「フェン、普通の女子らしさとは無縁でいたから今はこんなんやけど、この世界での令嬢っぽいことができるように勉強するから、ちょっと待っててな」

「マナブは今でも十分魅力的だ。君が無理するなら私は今のままで良いと思う」

「そ、それはありがたいけど、色々違うんやなって実感してるから、頑張る」

「私の為に努力してくれるということだね。愛しい貴女がそう言ってくれるなんて、少し、いや、だいぶ照れるな」

 はにかむフェンの様子に胸を撃たれたような衝撃を受け、学が言葉をなくす。アトリスも真っ赤になって目を逸らしているくらいだ。

 フェンがあれこれ反則的に良い男だということが身に染みてくる。こんなことで生きていけるのだろうか、と将来が心配になってくるのだが、今はこの世界に通用するくらいの女子力を磨かなくてはならないと奮起する。

 しばらくして目的地の庭園に到着する。

 馬車を降りて学はフェンと二人だけで歩き出す。どうせ護衛は勝手に付いてきているだろうし、気にしたら負けだと学は思っている。

 香りの強い薔薇のアーチをくぐると、腰高から背を上回る薔薇の生垣が迎えてくれる。薔薇も様々な種類があって見応えがある。

 しばらく手を繋いだまま薔薇を覗き込んだりして歩いていると開けた場所に出た。休憩ができるように東屋がある。ここまで誰ともすれ違わなかったから、ここで休んでいても邪魔されることはないだろう。

「マナブ、こちらに」

 フェンがハンカチをベンチに置いて学を座らせる。

「学は魔獣を見ても叫んだりしなかったね」

「え?さっきのことを言ってるん」

「ああ。少し意外だったから」

「まあ、驚かなかったと言えば嘘になるし、けど怖いかって聞かれたら、怖くなるほど魔獣を知らないし。ただ、フェンや騎士団が討伐しないといけない対象やっていうのは知っているっていうだけで恐怖で叫ぶほどでもないんかな、と」

 知らないから怖がれないのか、というとそうでもないような気もするけど。

 そう学は思っているがフェンには言わない。

「マナブのことを強い人だと思ったよ。私が幼い頃はまだ魔獣はそこら辺にいて人を襲っていた。聖女様が退治してくれるけど、たった一人ではわんさか出てくる魔獣を全て討伐するなんて無理な話だったんだ。だから私も騎士になって戦おうと決めた。聖女様を守って、魔獣を切って、倒し尽くして。ただ彼女を、守りたかったんだ」

 フェンの告白を学は黙って聞いている。

 吐息を一つついて、彼は空を見上げる。青空がそろそろ色合いを変えてきている。

「聖女様のおかげで魔獣はいなくなったと言うのは建前なんだ。実際、目に見えて魔性のものはいなくなった。だけど完全に消滅したわけじゃない。それを知っているのは陛下と宰相、そしてその公爵家の騎士くらいかな。魔術騎士団でさえ確認できていないだろう」

「フェンは影でずっと魔獣と戦ってきてたってこと?」

「……ああ。聖女様がいなくなった後も、彼女の意思を遂行するのが私の使命だから」

「使命、なんや」

 重苦しい空気を感じて学は何だか胸を抉られるような感覚に手を握りしめる。フェンに重荷を課したのは聖女なのか、彼自身なのか。フェンの穏やかな笑顔の裏にある想いをきちんと受け止めたいと学は思う。だから、ちゃんと知りたい。今は隠して話してくれている、その向こう側の真実と彼の想いを。

 でも、まだ彼に信用されていないのだと思う。

 好きだとか愛しているだとか言われても、いや愛しているはまだ言われていない気がするが、実際にフェンは心に分厚い壁を作っているとしか思えない。

 学はフェンとの間にある距離に寂しさを覚えてしまって、もう後には戻れない。

 無邪気に初めての恋をして、うまく続けば良いなんて、そう思っていた自分には戻れないのだ。

 この男を、全部自分のものにしてしまいたい。

 その素直な気持ちなんて生半可な感情でもない凶暴な欲求を自覚した。

 学はフェンを真っ直ぐに見つめる。そして彼の両手を握りしめる。彼の大きい手は学の手に余ってしまうが、それでも今の気持ちが伝われば良い、とそう思って。

「フェンがその身の内に抱えているもの全部、私が受け止める。まだ決心がつかへんなら無理にこじ開けへんけど、私には用意があるって思ってて。フェンの勇気も怯えも、真っ直ぐな思いも、汚い思いも、みんな私が呑み込むから」

 彼のことは深く何も知らない。

 それでもいい。

 今から知ればいい。

 フェンが息を呑んで学を見ている。

「貴女は魔性のようだ」

「……それ、貶してんの?」

 妙に低い声が学から漏れた。

「違うんだ。褒めている」

 それ以降、説明も何もない。

 沈黙の合間にフェンが困ったような眼差しで学を見ている。これは好意でなのか、それとも本当に困ったやつだと思われているのか、すごく気になる学だが、言ってしまったものは取り返しがつかないし、撤回する気もないのだから堂々としていよう。

 薔薇の濃厚な香りを含んだ風が吹き抜けていく。

 空にフェンの瞳と同じ色合いが現れている。

「遅くなるとお叱りを受けてしまうね。そろそろ送って行くよ」

「うん」

 フェンに促されて学は立ち上がる。手を差し出されて、学はその大きな、そして繊細で細長い指を見る。そっと手を重ねると、温かい手が覆ってくれる。

「この手で、聖女様を守ってきたんやね」

 立派だったね、とかそんな偉そうなことは言えない。けれど、誰か彼を褒めてくれただろうか。彼の努力を認めてくれたのだろうか。そんなことが気にかかる。

「守り、きれなかったけど」

 ポツリとこぼされた言葉に学は先の言葉をかけられない。

 今は、まだそれ以上の侵入を彼が拒んでいるから。

「マナブ、今日はありがとう」

 そう言って、彼が学を引き寄せて抱きしめる。

 薔薇の香りではない良い匂いが胸いっぱいに広がる。

「情けない姿に幻滅させてしまっただろうか」

「そんなアホなこと言わんといて」

 彼の背中にぎゅっと手を回してしがみつく。騎士団長という地位は伊達じゃない。その逞しい体に熱い肉体に、かけがえのない命に、胸が高鳴る。

「私を舐めたらあかんで」

「本当に、君は魔性だな」

 フェンは学の隙だらけの首筋に唇を落とした。

「褒めてんねんな?」

「ああ」

 学の真っ赤な耳たぶをクスクス笑いながらフェンが撫でてくる。

「ありがとう、マナブ」

 フェンがちらっと護衛の方へ牽制するように目を流したが、そんなことには気が付かない学はただ破廉恥行為にどう対抗するかだけ考えていたのだった。




 





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