第6話 ランチのあとは
アトリスに見つけてもらって化粧直しされつつ、学が小走りで屋敷の玄関まで戻ると、そこには立派な馬車が待っていた。しかしそれには公爵家の紋章が入れられている。
「あれ、うちの馬車やんな」
学が不思議そうにアトリスに確認すると彼女も頷いてから困惑したように馬車を見ている。すると中からリーインが出てきた。
「旦那様、お仕事は」
アトリスが訝しげにリーインに問うと、彼は肩をすくめてみせた。
「ちょっとな」
「ちょっと?」
「汚れたから浴をして着替える。君たちはフェンが来るのを中に戻ってお茶しながら待っていればいい。少し時間がかかるだろうから」
「どういうことですか」
学が尋ねると、彼女を見たリーインが苦笑して、そして何かに気がついたように学をじっと見つめた後、ずいっと顔を近付けてきた。
連続で麗しい見た目の男に近付かれて、学は引き気味に体を反らす。
「精霊に、会ったのか」
「ああ、さっき庭に出てまして。なんかショウハンって名前でしたけど」
「まさか」
リーインが驚いた顔で学を見ている。そして口元に手をやり、考えるように上から下まで彼女の姿を確認している。
「なんか、まずいんですか」
ドキドキと学がリーインの言葉を待っていると、彼はにっこり微笑んだ。
「いいや。素晴らしいことだ。君は出現から何から、イレギュラーだな」
良い意味だと思いたい、と学は冷や汗をかきながら愛想笑いを浮かべておく。
「とにかく中へ入れ。アトリス、茶の準備を。西の応接間に私の分も用意してくれ」
「はい、旦那様」
リーインは指示して屋敷の中へ入って行った。
「お嬢様、中でフェン様をお待ちになってください。すぐにお茶をご用意します」
「うん」
学は背中を押されるように三つある公爵家の応接間のうちの私的な方の応接間に押し込められた。
西の応接間には代々の公爵夫人の趣味らしく、レースが飾ってあったり、繊細な細工のガラスの皿や、公爵家の紋章の入った飾りの剣が飾ってあったりと、趣味満載の部屋である。
リーインがあまり飾り立てる趣味でないことを感じ取っている学からしてみれば、ここは家族の歴史が詰まった温かい部屋である。
ノックの音の後からアトリスが可愛らしい黄色い小花柄のカップに入った花の香りのお茶を持ってきてくれる。
「良い匂いやぁ」
ホワンと香りに微笑む。
「お嬢様、これは氷月草の花のお茶です。公爵家の領地の一つにアナダカルという地域があるのですが、そこには人では越えられないという山脈があるのです。その北の霊峰アルタインにしか咲かない花で、氷のような見た目と実際に雪の中でしか開花しないという珍しい花のお茶なのですよ」
「それって、めっちゃ高いんじゃ?」
「そうですねえ。危険を犯して収穫するものですから。これはほとんど市場には出回っていません。公爵家でのみ取り扱われるものですよ」
なんと権力と金持ちの象徴のようなお茶だった。
学はこれを出された意味を考えつつ、素知らぬ振りをしようと決めた。
黙ってお茶を味わっていると、扉が開いてリーインが入ってきた。ラフな白いシャツのボタンは開けて羽織るだけ、そしてベージュのズボンを履いている。ベルトはしておらず、家用のゆっくりした格好だとすぐ分かる。
学と彼の目が合う。
お風呂上がりの熱気が残っているような、そんな緩い空気と色気が混ざり合って、なんとも言えない淫靡な姿に頬を赤くして学は目を逸らした。
「どうかしたか」
学の様子に怪訝な顔でリーインが近づいてくる。
「なんでもありません」
少し棒読みな口調で学は答えてお茶のカップを持ち上げる。
「リーイン様。例えここがプライベート空間であろうとも、女性がいるところに何ですか、その格好は」
「何って、おかしいか。これが」
「ボタンはきちんと閉めてくださいね?」
アトリスが吊り目でリーインを睨んで言うと、彼は自分の服を眺めてきょとんとしている。その姿は年相応の青年の姿だった。
学はふ、と笑みを漏らし、兄よりも真面目な服装で怒られているリーインに同情した。ちなみに、学の兄はほぼパンツ一丁だったり、全裸だったりするので男の裸は見慣れている。
「ここに私を困らせるような女はいないだろう」
ぶう、と文句を言うようにリーインが言った。
「リーイン様を困らすのではなく、年頃のお嬢様が困るのです。淑女に胸を見せて、そんなにリーイン様は胸筋を自慢したいのですか」
「え、そんなこと?」
姉にやり込められる弟のような姿に学は笑った。
「ほら、笑っているじゃないか。俺に欲情するような女と学は違う」
断言して、リーインはどかっとソファに座った。長い足が有り余って窮屈そうだ。
「俺って言った」
やはり兄と同じ若者だった。
学は安心して笑い出す。リーインを少し誤解していたようだ。あまりに大人っぽくて、ひどく遠い存在に見えていた。恐ろしい人だと感じるくらいに。
「なんだ、俺は笑われているのか」
「そんなにすぐに素を見せるからですよ」
アトリスが苦笑して言った。
「そうは言っても、家なんだ。気は抜きたい」
「何か、あったのですね?」
長年の付き合いで察したらしいアトリスが言って、リーインの前に青いカップを置いた。
「ああ。魔獣が襲ってきた」
「はい?」
心底驚いたようにアトリスが聞き返す。
「魔獣だ。陛下を守るためにフェンが応戦し、怪我をした」
「怪我……」
学が口の中で繰り返す。それを見て、リーインが安心させるように微笑む。
「かすり傷だ。心配することはない。念の為、宮廷医に見せてからこちらに来ると言っていた」
「そうなんですか」
学は困ったように頷いた。実際に顔を見るまでは安心できない。
そんな彼女の様子にリーインは気遣うような顔を向ける。
「会ったばかりなのに、随分とアイツを気に入ったようだな」
「えっと、まあ。何となく気が合うというか、一緒にいて楽っていうか」
「へえ?」
リーインの揶揄うような眼差しに学は居心地が悪くなる。
「顔もいいし、騎士団長、それも第一の。令嬢からは高嶺の花と呼ばれているそうだ。君以外の女性にはつれない態度だからな。話しかけることも必要最低限。礼節を無視することはないが、親切以上のことは絶対にしない。相手を勘違いさせないためにも、そこは徹底している」
「え?」
学のフェンに対しての印象と真逆である。
「君にだけだ。アイツの愛想の良さは」
「まさか」
そんな風には見えなかった。
「それだけ、アイツも本気ってことだな」
リーインは足を組んでからそう言って、学を見据える。
「君はどうだ。と、その前に俺の考えを伝えておこう。俺はアイツの望みを叶えてやりたい。その為に君を養女に迎えた。アイツに相応しい身分で言うならば公爵家で文句を言う輩はいない」
リーインが何を考えているかは分からない。だが、フェンに対して裏切らないのは確かなことのような気がした。しかし、いきなり氷点下の空気を送ってくる辺り、やはり侮れない人間なのだと学は泣きたい気持ちになる。
学は息を深く吐いて心を落ち着ける。それからリーインを見た。
彼は学を彼の目的の為の道具だと考えているようだ。そして学の目指すところは自立で、結婚ではない。とはいえ、フェンは魅力的な人物で学自身好意を持っている。だから今はリーインの思惑に乗っても問題ない。そもそも、権力者に逆らうのは悪手だ。
「私はフェンさんとのことを真剣に考えています。それに恋愛結婚はしたいので、相手がフェンさんなら文句ありません。ただ」
「ただ?」
「今すぐ結婚とかは困ります。もしかしたらフェンさんの気持ちが違う方へ変わっていくかもしれへんし、ゆっくり進めてもらえますか」
「君の気持ちは変わらない?」
「それは、どうやろう?なんとも言えへんかな。正直に言うと、私はここのことをあんまり知らへんので、少しでも安心できる人の側で生活したいっていう打算があったり、なかったり」
最後の言葉が尻すぼみになったのはリーインの藍色がかった藤色の瞳に睨みを効かせられたからだ。綺麗な色なのに、そんな怖い気配を纏っていたら勿体無い、と目を逸らしながら思う学だった。
「まあ、いきなりこんな環境に落とし込められたんだ。戸惑うのは仕方ないし、ゆっくり進めるのは問題ない。アイツも恋愛を楽しむ余裕を持つべきだと思う。君には無理を言っていると自覚している。だから他に要望があればちゃんと聞く」
「はあ、ありがとうございます」
学は一応礼を言って、氷点下から夏の苛烈な太陽の熱線になった藍色がかった藤色の瞳を盗み見た。
「物事にはタイミングがある。君が望むと望まざると関わらず、俺が激流に君を巻き込むことになると言っておく。だから先に詫びておく。すまない」
「え」
先に謝られたら巻き込まざるを得ないことを納得しろと言うことだろうか。釈然としない気持ちで学は苦笑した。
「それがリーインさんの手練手管ってやつですね。何かが起こるって予告を親切にありがとうございます。できる範囲で皆さんの役に立ちたいと思ってますから、お気遣いなく」
そう学が言うと、リーインが息を漏らすように笑った。これはどうやら素の笑顔らしいと気がついて、学は少し気持ちが明るくなる。
怖いばかりでは本人も報われない。
なぜかそんなことを思い、学も口元に笑みを浮かべた。王城でのリーインは建前、そして家でのリーインは別人。そう思っておく。
「話は変わるが、フェンは今日どこへ食事しに行くつもりだと聞いている?公爵令嬢を連れ回すんだ。アイツの評判を落とすわけにはいかないからな」
どこまでいってもフェンが困らないようにと考えているリーインに、実はフェンが異世界人への差別主義者だとして学に忠告しにきたことは言わない方がいいだろう。学としては、きっとリーインには何か理由があるのだと思うが、それをフェンは知らない。二人の間にある事情を知れば、また何か分かることがあるかも知れないが、フェンにしてもリーインにしても、出会ったばかりで二人の深い事情を話してくれるとは思えない。
気長に待とう。学はそう思って曖昧に微笑む。
「それに君も、甘いものが好きだろう?せっかくの機会だからデザートの充実している店がいいだろう」
なんだかんだ、学の好みまで考慮してくれているあたり、やはり良い人なのかも知れない、と学は心の内で苦笑した。そして気がつく。一番大事なことを忘れていた。
「あの、私、お金持ってないんやけど、それは大丈夫なんでしょうかね?」
リーインとアトリスがきょとん、と学を見つめる。
「え、何かおかしかった?」
「公爵令嬢ともあろうお方が、お金を持ち歩くなど恥でございます」
静かにアトリスが言った。
「じゃあ、どうやって買い物したりすんの?ご飯も買えへんやん」
「これは、淑女教育を徹底的にしなければならないようだ」
大仰にため息をついたリーインに目を向けると、最初に会った時の冷酷そうな空気を醸し出し、その口元には悪役のような笑みを浮かべている。
「良い機会じゃないか?」
何が、と恐れ慄いていると、侍従が来客を知らせに来た。
「第一騎士団団長がお見えです」
「分かった」
リーインがアトリスに目配せし、彼女は学を促す。
学は怪我をしたというフェンに一刻も早く会いたくて、アトリスの後ろについて玄関ホールへ急いだ。
無駄に広い屋敷のせいで、たどり着くまで異様に時間がかかった気がしたが、会いたい人の姿にすぐ気が付いた。光沢のある濃紺地に銀色の刺繍が入っているジャケットとシンプルな白いシャツ、そして深みのあるインディゴのパンツに身を包んだ長身のフェンが目に入った瞬間に走り出す。
「フェンさん」
突撃するように目の前に行くと、彼は優しい木漏れ日のようにふわりと微笑んで学の前で騎士らしく胸に手を当てて敬礼する。
「マナブ、遅くなってすまない」
「フェンさん、怪我したって聞いたけど大丈夫?」
そわそわと落ち着かない様子の学の手をとって、彼は頷いた。
「私はどこも異常ないよ。マナブを待たせたのが唯一のミスだね」
「待ってないって。それより、ほんまに大丈夫?」
あちこちフェンの体を触って確かめていると、頭上でプッとフェンに笑われてしまう。
「そんなに触られると期待しちゃうけど、いいかな」
「期待?あ、いや、触ったんはごめん。心配で……」
妙に恥ずかしくなり赤くなった学の目にいっぱいフェンの顔が広がる。
「学、そのドレス、良く似合っている。とても綺麗だ。私の為に着飾ってくれたんだね。本当に、嬉しい」
素直な好意がもろに伝わってきて、学は息を止める。
「いつもはカヴァレンス山脈に流れる清き風のような美しさだが、今日は月下の中に一際輝いて咲き誇る月泡花のようだ。見惚れて目が離せなくなる」
更に追い討ちをかけられて、学の心臓が止まる。
どこかの地名も花の名前も知らないが、きっとそれは美しさの代表なのだろうと推測される。そんなものと同列に例えられたら機関銃で打ちのめされた気になる。
「マナブ?」
不思議そうな顔で学を覗き込むフェンの純粋な目に、なんとか息を吹き返した学は焦った顔で一歩退く。
「第一騎士団長殿、お手柔らかに。その娘は褒められ慣れていない。新雪に足を踏み入れるのならばそれなりの慎重さで頼む」
大階段から降りてきたリーインが上から声をかけてくる。
見上げると、さっきとは違う政務の時の服装になっている。隙のない表情は外向きのもの。
「ご挨拶が遅れまして申し訳ありません、閣下。お嬢様をお誘いする許可を与えて下さり感謝いたします。それに先ほどはお助け頂き、お礼もせず申し訳ありません」
「いい。君は職務を全うした。他が動けない中、見事な活躍だった。陛下もお褒めになっていた」
「いいえ、自分の無力さに歯噛みする思いです。より一層精進すると誓います。力不足の私ですが、お嬢様をご案内する栄誉を与えて下さり、誠に名誉なことだと思っています」
これが貴族のご挨拶なのか、となんだかハラハラしながらフェンとリーインの言葉の応酬を見守っていた学が両方の視線を受けて固まる。何を求められているのか、さっぱり分からない。
「では楽しんで。日暮れ前には娘を送り届けてくれ」
リーインが微笑む。まるで地獄の王が微笑んでいるようだと学は恐怖した。なんだかんだ、あの歳で迫力がありすぎるリーインが怖かったりするのだ。
「承知しております」
フェンが深く頭を下げた。
それから学のエスコートをして玄関を出る。
アトリスも付いてくるが、学は初めてのお出かけに浮かれる気持ちを隠しきれない。
「この先に馬車を停めてあるんだ。流石に公爵家へ乗り入れる勇気がなくてね。少し歩くことになるけれど、平気?」
「私は全然平気。フェンさんでもここに来るのは勇気がいることなん?」
「まあね」
明るい笑顔に騙されそうになるが、やはりリーインとの間に何かあるのだろう。
今は触れないことにして、学は話題を変えることにする。
「そう言えば、さっきリーインさんが日暮れって言ってたけど、今日はランチだけなんよね?」
「ああ、それなんだけど、ランチの後も一緒に過ごさせて欲しいんだ。さっき陛下が騎士団の査察中に魔獣に襲われてね。それで私と公爵閣下とで撃退したんだけど、その褒美ってことで午後は丸々休みを頂けたんだ。滅多にない休みだからこそ、愛しい貴女と過ごしたい」
熱い瞳に学がドキッとし目を逸らす。
「ま、魔獣って、怖いんやろ?お城にも出てくるもんなん?」
「いいや。先代の聖女様が魔を払って封印されてから、一切魔獣は出てきたことがないよ」
サラリと告げられた話に学はフェンを見上げた。
「それって、大丈夫なん?」
「どうだろう。今デスラー魔術騎士団団長とか、近衛隊を始め、宮廷の官僚たちが調べている。だからすぐに詳細が分かるんじゃないかな。今は焦っても仕方ないし、陛下やメレス殿下の周辺警備を最強までに引き上げているから大事ないと思うけど」
のほほんと言っているフェンはある意味凄い人物なのかもしれない、と学は思った。緊急事態にこの余裕。第一騎士団長の団長職というのも伊達ではないのだ。
「何が起こっても、マナブは私が絶対に守ると誓うよ」
キラキラキラ、と彼の回りに光が弾けているような気がするのは気のせいだろうか。
学がキュンとなって胸を抑えていると追い討ちをかけるようにフェンの唇が彼女の耳に近付いてくる。
「夜、貴女が眠る時も側にいられたらいいのにね」
ぼそっと少し低い声で彼の希望を告げられて、昇天しそうになってしまう。
「フェ、フェンさん」
抗議するように名前を呼ぶと彼は、ふふふ、と笑って、公爵家の西門に停めてある彼の用意した馬車にご機嫌で乗せてくれた。
フェンもアトリスも乗り込むと、馬車はガタゴトと走り出した。
人生初デートの出発が馬車である。そんな人は友達の中にもそうそういないだろう。そう言えば、人生初の乗馬はメレスに抱えられての不名誉なものだったと思い出す。学は乗馬を習おう、と決意する。
「マナブ?」
フェンが向かい合った席から不思議そうに見てくる。
「あ、えっと、馬での移動がここでは普通なんやな、と改めて思って」
「普通じゃない人もいるけどね。例えばデスラー団長とか。あの人は魔法で転移するから神出鬼没なんだ」
「そういう人はちょっと私の常識と違うっていうか」
「まあ、そうだね。私も魔法は多少操るが、転移はあまりしないな」
考える風に呟くフェンを見ると、物憂げに窓の外に視線をやっている。
なんて格好良いんだろう、と見惚れる学に気が付いて、フェンがニッと笑う。
「あの人は規格外だから参考にしてはいけない。かと言って、公爵閣下も規格外だから彼の方が普通と思ってもらっても困るかな」
「それは、なんとなく理解できるかも」
二人してアトリスを気にして小声で話す。
「聞こえています。そして概ね同意です」
アトリスがすまして言うのを二人で笑って聞く。
三人で笑っていると、街から少し離れた場所へ出てきた。なだらかな道が小高い丘へ続いていく穏やかな風の吹く場所で、可憐な小花や繊細で美しい緑がそこかしこに群生している。王都を少し出たところなのに、思いもしない風景に会う。
「まあ、これは」
アトリスが感動したように呟いた。
「私の秘密の場所なんだ」
レンガ建の古いが趣のある屋敷の前に馬車が止まる。
アンティークのような黒く塗装された鉄の門には蔦草が絡まり、様々な種類を合わせた薔薇のアーチをくぐると、大きな木が目に入る。その木が守るようにある前庭には木で作られた椅子とテーブルが木陰に置かれていて、そして優しい花々が咲いている。
これはもう乙女の憧れの場所ではなかろうか、と学はドキドキしてきた。素朴なのに特別な場所だと思える。
「ぼっちゃま、お待ちしておりました」
屋敷の中から人の良さそうな老婦人がエプロン姿で出てきた。
「メアリ、すまないね、突然無理を言って」
「いいえ、とんでもありません。ぼっちゃまの大切な方をご招待できるなんて、この歳まで生きてきて、本当に良かった」
「まだまだ若いのに何を言うんだ」
フェンが苦笑してメアリの手を取って学の前まで連れてくる。
「マナブ、彼女はメアリ。小さい頃私の世話をしてくれていた人だ」
「メアリさん。高坂学です。よろしくお願いします」
学がお辞儀するとメアリは優しく微笑んだ。
「メアリと申します。ぼっちゃまが連れてこられるのだから素敵な方だとは思っていましたが、想像以上に素敵でいらっしゃる。どうぞ、フェン様のことを宜しくお願いします」
「は、はい」
赤くなりながら答える学をフェンが慈愛に満ちた眼差しで見ている。
「さあ、中へどうぞ」
メアリに促されて中へ入ると、可愛らしい内装に「わあ」と声が出た。
学の趣味は乙女ではない。断じて違うのに、この甘い空気の部屋がとても素晴らしいと思う。花柄のカーテンも細かく編まれたレースのカーテンも、猫足でまとめられた家具も、統一感があって、やり過ぎない可愛らしさが逆に洗練された空間を作り出している。
「お食事の準備はできていますよ。裏庭に食卓を用意しています。お日様が気持ちいいですからね。こちらへどうぞ」
メアリの案内で屋敷の中を通り抜けて外のテラスに出る。そこは小高い緑の丘を一面に眺められる気持ちの良い空間だ。木の枠の手作りで作られたちょっとした人工の小川から流れる水が清涼な音を奏でていて心地良い。
二人分の席が用意されているテーブルへフェンが手を取って誘ってくれる。彼が引いてくれた椅子に腰掛けると彼は対面へ座った。
優雅な仕草で彼はナプキンを広げて学の視線に気が付いたように顔を上げた。その瞬間、メアリが飲み物と前菜を運んでくる。
「こちらは庭で採れた桃のお酒です。マナブ様はお酒は飲まれますか?」
「えっと、飲んでみたいです」
そわそわと学が答えるとメアリが微笑んで、それからフェンを伺う。
「それでいいよ。何かあったら私が対応するから」
「はい」
メアリは泡の立つ薄桃色に透き通った液体の入ったグラスとサラダやキッシュのようなもの、ハムと見た事のない実のマリネ、チーズと野菜を和えたお惣菜の乗った皿を皿を学の前に置いた。
フェンの前にも同じものを置いてメアリは下がっていった。
「マナブ、お酒は初めて飲むのかな」
「うん。家では未成年のお酒禁止やったから」
社会のマナーには相当うるさい家だった。
「ならマナブの初めてを私が貰うと言うことだね」
ん?
合っているが、何を、という言葉が抜けると何だかいけない事のような気がする。
学はフェンのその言葉を無視すると決めて、ワクワクした顔でグラスを手に取った。フェンが熱の籠った瞳でグラスを掲げる。
「貴女の初めての記念に」
お互いに相手を見ながらお酒を口に含むと、ほの甘い桃の香りが鼻腔を通り抜け、弾ける泡が舌を刺激する。
「美味しい」
学が呟くとフェンが微笑んでくれる。
グラスを置いて前菜に手を付けると、これがまた美味しい。手の込んだ味付けで舌を楽しませてくれる食感と相まって、お代わりが欲しくなる。
「マナブ、質問してもいいかな」
前菜を完食するタイミングで傾けたグラスを見ながらフェンが切り出す。
「はいはい。なんでもどうぞ」
美味しいものを食べてご機嫌な学が促すと、彼はグラスからゆっくり視線を上げて学を真っ直ぐに見つめる。その力のある瞳に学の心が捕まる。
「元いた世界では恋人はいたのかな」
少し低めな声が問う。
「まさか。ないない。いいひんよ。好きって言ってくれる女子は多かったけど男子に告白されたことはないねん。実はあんまり人付き合いが上手くなくて、幼馴染の影に隠れてたから」
「へえ?その幼馴染のことを聞かせてもらっても?」
フェンは瞳を落とし、グラスの中で弾けた薄桃色を見ている。
「うん。冬香ちゃんって言って、綺麗な女の子。優しくて、でもはっきり物を言う子で、私も結構怒られたりしてた。それで、めっちゃ良い匂いがするねん。本をたくさん読んでるからか、難しい話もするし頭が良いから話をしていて凄いなっていつも感心する」
「信頼しているんだね。他には?」
「うーん、他か。そもそも学校では大人しくしてる。家の従業員さん以外喋らへんし友達少ないからなあ。あ、豊くんがおったわ」
「男の子?」
フェンが眼差しを上げる。
「うん。二つ歳上でチャラチャラしてるっぽいけど、真面目で面白いよ。それで頼りになる、かな。バイクの話もできるし、つるむには良いかな」
「よく遊んだ?」
「まあ、子供の頃は。近所やし、みんな引き連れて。大学は県外狙うって言ってたから、進学したら会えなくなるか。ってか、もう会えへんのか、私」
学の日常に彼らはいた。笑いあって、また明日と手を振る日常。それがなくなるなんて思いもしない。
「フェンさんには幼馴染とか、いはるん?」
思考を断ち切るようにフェンに問うと、彼は寂しそうに首を振った。柔らかな金髪がふわりと揺れる。
「いいや。私はちょっと特殊な生まれでね。回りから距離を置かれて育った。だから幼馴染というものに憧れる」
「そう、なんや」
グラスを弄ぶフェンに笑顔はない。彼の生い立ちは複雑なのだろうか。リーインと幼馴染と言っていた気がするが。
「いつか話すよ。必ず。そう、結婚する前に全部ね」
結婚。その言葉が出てくるとは思わなかった学だが、曖昧に微笑んでおく。何だか気恥ずかしいし、まだ先だと思いたい。
気まずくなったタイミングで次の料理が運ばれてくる。
他愛ない会話をしながら美味しい食事を進めていくと、少し風が吹いてきた。フェンが立ち上がり、上着を脱いで学の肩にかける。
「邪魔だったら言って」
そう言って自分の席に戻る。
フェンのジャケットは良い香りがする。思わず胸いっぱい吸い込みそうになるほど。
学は頬を染めて、温かな体温を感じる。
こういう紳士な行為をさらっとできてしまうあたり、フェンはモテる。絶対にモテる。そう実感して学はソワソワとした気持ちでフェンを伺う。
「ありがとう、フェンさん」
「マナブ、気になっていたんだが」
そこで言葉を切って、フェンが物憂げに藍色の瞳を翳らす。
「え、なに?」
「貴女は私のことをさん付けで呼んでいる。昨日、フェンと呼んでくれと言ったのに」
少し拗ねたような、寂しそうな表情で彼は目を逸らす。
「あ」
そう言えばそうだった。
「ごめん。呼び捨てって、やっぱり気になるねん」
学校の男子には歳上だろうが歳下だろうが会った瞬間呼び捨てするのに、フェンに対しては敬称を付けなくてはならないような気になるのだ。貴族とはそういうものだろうか。
あ、違う、と学はメレスを思い起こす。あいつには仕返しがまだだった、と心の中で拳を握る。荷物のように運ばれた記憶はまだ新しい。
「それじゃあ、マナブ。私も貴女をマナブ様とか、マナブお嬢様と呼ぼうか」
「は、冗談は止めて」
ギョッとして強く言うと、フェンは困ったように笑う。いたいけな藍色の瞳に学の胸がキュッとなる。
「フェン、私は異世界からこっちに来てんで。こっちの世界の貴族とか王様とか、そういう身分の高い人の中にフェンはいるワケやろ?私がフェンに釣り合うとは思えへんねん」
実は不安に思っていることを小声で言うと、フェンが驚いたような顔をしている。途端に恥ずかしくなって、学が視線を落としてモジモジしているとことへ、メインディッシュを持ってきたメアリが微笑みながら皿を置いていく。
「マナブ、私は貴女の世界のことを知らない。それに貴女の幼馴染だっていう男の子に貴女がどういう接し方をしていたのかも知らない。貴女を作ってきたそんな世界に私は嫉妬している。貴女を全て知りたいから」
グラスを弄びながらフェンは言い、ゆっくり視線を上げて学を見つめる。藍色の瞳が光のせいなのか揺れて見える。まるで透き通った海のようで、あまりの綺麗さに学は思わず見惚れてしまう。
期せずして見つめ合うことになった学はフェンの達観したような微笑みに我に返る。切ない気持ちが込み上げてくるのはどうしてだろうか。
それからはお互いに言葉を発せず、黙々とメインの肉料理を口に入れ、それがデザートまで続く。沈黙にドキドキしているとフェンが、ふ、と息を吐く。笑ったのだと気が付いて学はフェンを見た。
「甘い物が好きだって、顔が言ってる」
少年のような無邪気な笑顔でフェンが言う。
「うん、好き」
「じゃあ、この後、お菓子を買いに行く?」
「お腹一杯やし」
「お土産にしたらいい」
「お土産」
なんて良い響き。
学の考えを読んだようにフェンがニッと笑う。
先ほどの無垢な笑顔はどこいった、と学が恐れ慄く。
「マナブに甘いお菓子をたんと食べさせて私と離れられなくすれば、貴女はもう私の奥さんになるしかない」
「……フェンさん?」
彼の目がおかしい。
「ああ、分かっている。貴女はそんな安い誘惑では私の側にいてくれないって」
「いやいや、なんか妄想が走っていってへん?」
「貴女が私をおかしくさせているという自覚はあるんだな」
ぼそっと言ったフェンが色香の漂う麗しい瞳を向けてくる。目だけじゃない。しなやかな全身に、それはもう匂い立つような色気が迸る。
身の危険を感じて学は彼にかけてもらった上着の胸元を引き寄せる。
「冗談はこれくらいにしておこう」
「え、冗談?」
とても真剣な眼差しに見えたのだが。
学はフェンの攻撃にやられっぱなしだ。
「行こうか」
フェンが手を差し伸べてくれる。
自然に彼の手に自分の手を重ねて、学は彼に笑顔を向ける。彼といると笑顔になりっぱなしである。
「フェンが私を幸せにしてくれるって、本当は私、知ってるねん」
「え?」
フェンが不意打ちを受けて目を瞬かせる。
「今はお互い、このままで」
ゆっくり進んでいこう。
学の言葉にフェンは困ったように目を伏せた。
メアリにお礼を言って馬車に乗るとアトリスが待っていた。違う部屋で護衛のマーカスと食事をさせてもらっていたらしい。
馬車が動き出し、景色を楽しんでいると大きな建物が現れ出し、王都の繁華街へ入っていく。本当に不思議な道のりだ。
フェンが言い出した通りに、馬車は洒落た店構えのパティスリーの前で停まる。
美味しいランチの後にお土産を買いに良い匂いのするパティスリーに寄るなんて、ちょっと嬉しい学だ。
フェンが先に馬車を降り、学の手を取る。
紳士なフェンにエスコートされているとまるで自分が特別なものになったような気分になる。
浮かれた気分で石畳に降り立つと、何だか頭上が暗くなる。
「ん?」
不思議に思って頭上を見上げると。
巨大な真っ黒い生き物が牙と涎を見せつけながら、そこにいた。
「んん?」
「マナブ」
フェンが学に覆い被さる。
彼の逞しい胸に抱かれて、学は人生初のデートと、人生初の魔獣に遭遇という記念すべきイベントを同時進行で体験する羽目になったのだった。
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