第5話 星屑の降る空
一体いつ眠ったのだろうか。
学は寝台から身を起こして頭を抱える。腫れぼったい目を自覚して、恥ずかしさで顔から火を吹き出しそうだ。
リーインはどう思っただろうか。
学は明るくなってきた空を写すレースのカーテンを眺める。
前にアトリスに重いカーテンを閉めないでくれとお願いしてからは窓から差し込む光の変化が分かって、この世界に生きているのだと実感する。
学がぼうっとしていると、そっとアトリスが部屋に入ってきた。手には氷の入った水桶と手巾が用意されている。
「アトリス、おはよう」
「おはようございます、お嬢様」
柔らかい笑顔でお辞儀して、アトリスはそっと学の前に桶を置く。
「失礼して目を冷やしてもよろしいですか」
「よろしく頼みます」
しおらしく言うとアトリスが笑みを溢して頷いてくれる。そして学を寝台に寝かせると、そっと手巾を冷たい水に潜らせて絞り、優しく目の上に置いてくれる。
ヒンヤリした手巾の感触に気持ち良さがたまらない。
「昨日は驚きました」
アトリスが静かに言う。
「泣いちゃったから?」
「いいえ。旦那様が、リーイン様が、お嬢様を抱えられて、それでお部屋まで運ばれたのです」
余程の衝撃だったのか、アトリスの声が震えている。
「リーインさんが運んでくれたんやね、私のこと。重かったやろうに申し訳ないことしちゃったな」
ははは、と恥ずかしさのあまり乾いた笑いが出てきてしまう。
「重いなんてことあり得ません。リーイン様は武芸に秀でた方です。騎士よりも騎士らしく鍛錬されてきた方なのですから、そこいらの男よりも優れていると信頼して下さっても問題有りません。問題はそこではないのです、お嬢様」
アトリスの熱気に学が若干引き始めていると、彼女がグッと身を乗り出してくる気配がする。
「旦那様が女性に触れるなど、今まで一度もありませんでしたっ」
「そ、そうなん?」
迫力負けしていると、アトリスがブンブン頷いている気配が伝わってくる。
「お嬢様は特別なのです」
「そうかな?きっと気の迷いとか、そんなところやと思うけど」
学が否定するとアトリスは学の手を握った。
「養女とはいえ、お嬢様は妙齢の女性。きっと旦那様はお嬢様のことがっ」
感動に打ち震えているようなアトリスに、流石に否定しなければ、と学が手巾をとって起き上がる。それと同時にノックの音がして扉が開いた。
「失礼、声が聞こえていたから起きていると思って入ってきてしまったが」
当のリーインが出没した。
綺麗に整えられた銀髪を後ろで括り、クリーム色のかっちりした軍衣のような長衣と細身のズボンに焦茶の長靴を合わせた隙のない美しい貴人がそこにいる。おまけに腰に刺してある剣は使い込まれた感がたっぷりあって少し恐ろしい。
そんな彼は切れ長の藍色の瞳を心配げに学へ向けている。
「問題ないか」
「はい、昨日はすみませんでした」
「謝られるようなことはされていない。気にするな。そんなことよりも、ゆっくり休めたか」
「はい」
恥ずかしさで身が縮む。学がモゾモゾしているとリーインが近くまで来て学を覗き込む。
「綺麗な瞳だ。大丈夫だな」
リーインが学の頭の上に大きな手を置いて微笑んだ。
「もう、リーイン様、乙女の寝室にずかずか入り込むなどと紳士にあるまじき行為ですよ」
アトリスが怒った顔でリーインに抗議すると彼は肩をすくめて学の耳元に唇を寄せる。
「彼女は私の乳母の娘なのだ。そのせいか母親のように小言が煩くて敵わない」
彼は頭が上がらなそうな様子で言うと、さっさと部屋を出て行こうとする。
「リーイン様?聞いておられます?」
「分かった。今後は気を付ける。学、朝食を共にしよう。起きて準備できるか」
「はい、できます」
「よろしい。食堂で待っている。ゆっくりでいいから、焦らず出ておいで」
そう言って扉の向こうに消えいていく。
「まったく、全然聞いて下さらないのだから」
アトリスがうんざりしたように言った。アトリスの意外な一面を目にした気持ちで学が見ていると、彼女はさっさと学の服を用意し始める。
「お嬢様、出かけられる間にもう一度着替えられますか。それとも、もうお着替えされておきますか」
「え、何度も着替えるの面倒やわ」
うんざりして答えた学にアトリスが苦笑する。
「分かりました。お嬢様、今日はフェン様とデートですから、こちらのドレスでも宜しいですね?」
有無を言わさぬ口調に恐れをなして、学は頷くしかなかった。
リーインにも勝てそうなアトリスに、学が勝てるわけがないのだった。
アトリスが選んだのはシンプルながら華やかなデザインのワンピースのようなドレスだった。気取らず着られそうで学も安心する。
上等な生地をふんだんに使った中に凝ったデザインの細かいレース生地が見え隠れする色っぽいデザインだ。多少背中が開いているような気もするが、アトリスの迫力に否とは言えない学だ。おまけに胸元が心許ない。ぺたんこ体型の学にはドレスという難易度の高い衣装はできれば回避したいものだ。
とはいえ、アトリスの魔法のような着付けでどこをどう見ても令嬢っぽく仕上げられた。着心地も悪くなく、背の高い学にも丈がピッタリで違和感がない。
薄い化粧とお揃いのネックレスとピアスをつけられて完成だ。
「お嬢様、お食事の後にもう一度お化粧直しをしますので、お忘れにならないで下さいね」
「分かった」
色々諦めて返事をすると、アトリスは満足したように微笑んだ。
食堂へ移動すると、リーインが温かい笑顔で迎えてくれる。
席に座ると食事が運ばれてくる。
「美しいな、学。いつもそのようなドレスを着ているといい」
それは命令か、と聞きそうになるが、彼の美しすぎる笑顔に言葉が引っ込む。綺麗な人が軍服系の姿だと、五割り増しに男前に見えることが心臓に良くないと発見した学だった。
色男は得だな、と学は悟る。
「学、第一騎士団団長殿と二人きりになるのは良くない。だから護衛を用意した。マーカスだ」
足音もなく漆黒のシンプルな軍衣を身に付けた青年が学の背後に立つ。振り仰ぐと視線と視線が絡む。髪も目も漆黒の彼はなんとなく学の一番上の兄に似ていた。
「よろしくお願いします、マーカスさん」
「お嬢様、敬語は不要です。主人はあなたですから」
慇懃無礼、そんな感じだ。答えがしづらい。
「命令などしなくても彼は自由に動けるから安心するといい」
リーインが言うが、マーカスの圧が気になって仕方ない学だ。護衛騎士に脅されている気分なのは分かってもらえていないみたいだ。
「マーカス、控えていろ」
「はい、閣下」
答えと同時に消えてしまう。
「え」
「魔法だ。気にすることはない」
リーインに説明されて、どう納得したものか、学が複雑な表情で頷くと、彼はふっと優しい笑みを漏らした。初対面から考えると意外な表情しか見ていない気がする学だったが、彼の素らしい表情を見られて敵ではないと感じる。
「それから、アトリスの側を離れるんじゃない。我が家門が権力を有しているとはいえ、危険はつきもの。私の娘である君が狙われるのは必然だ。他にも護衛はつけているが、万全とは言えないかもしれない。君自身も肝に銘じて行動するように」
「はい。ご迷惑にならんように頑張ります」
政敵とかいるかもしれない、と気持ちを引き締める。
何も知らない学が迷惑をかける可能性は大だ。早めにこの世界の常識を学んでおかないと、と決意する。
「気負わずとも良いが、気をつけるに越したことはない。さあ、冷めないうちに食事を始めよう」
リーインに促されてフォークを手にもつと、目の前にある食事に集中する。家でも「ながら食べ」は厳禁で母は食事と食事に相応しい会話というルールに厳しかったものだ。
温かい乳白色の具のないスープに香ばしいパン。ふんわりしたオムレツとサラダにベーコン、ソーセージ、ポテトの乗った洋食な皿と色とりどりのフルーツの皿がある。
家では和食だった朝食だが、洋食も嫌いではない。
学は「いただきます」と心の中で挨拶してすぐに完食した。
食後のコーヒーが出てきて、どっさり砂糖とミルクを加えてから、学はリーインの様子を伺った。優雅にカップを口に運ぶ姿はテレビ画面を通して作り物の動画を見ているようだ。
異世界で美貌の主がまったりコーヒーを堪能する図。
スマホを持ってきていたら写真に収めたのになあ、と残念に思う。冬香に見せれば大喜びするだろう。
「どうかしたか」
あまりに見ていたせいなのか、リーインが苦笑して問うてくる。
「あ、いや、リーインさんって幾つなのかな、って思って」
誤魔化すための質問は意外な答えを得る。
「私か。私は二十二歳だ」
「え」
大人っぽかったのでもっと年上だと思っていた学は唖然とする。二番目の兄と同じ歳だ。大学生で子供みたいに意地悪してくる兄と同じ歳なんて信じられない思いだった。
「異世界人には大抵驚かれるな」
「でしょうね。うちの兄と同じ歳ですもん。びっくりしました」
「君の兄上と同じか。どんな人だ?」
興味を持ったらしいリーインがカップを置いて学を見る。
「どんなって言うと、リーインさんよりも精神的に幼いです。遊ぶことが大好きやし、私に悪戯を仕掛けてくるし、女子にはだらしないし、楽したいし。リーインさんの爪の垢でも飲ましたらんとあかんわ」
つい兄を思い出して口調が砕けてしまう。
「仲が良さそうだ」
「え、まさか。喧嘩ばっかり」
「でも本当は信頼し合っているんだろう?そんな顔をしている」
そう指摘されると学は頬を染めた。なんだか気恥ずかしい。
「私も、そんな兄弟がいたんだがな」
リーインが小声で呟く。
深く聞いてはいけない雰囲気に学は彼をそっと伺う。綺麗な藍色がかった藤色の瞳がここではないどこかを見ている。
ふと胸に差し込んだ痛みに学は眉を寄せる。彼の痛みが伝染したようだ。
「兄君に会いたいかい」
気持ちを切り替えるように言ったリーインの質問が学には郷愁を誘うのに十分だった。引っ込んだはずの切なさが胸に込み上げてくる。
「そうですね。憎らしくても、家族なんで」
会いたいに決まっている。
「そうだな。すまない、私としたことが愚問だった」
「いえ」
学は息を吐いて気持ちを切り替える。
「リーインさんは婚約者とかいはらへんのですか。いはったら、私みたいな大きな娘がいると知らせとかんと、後々問題になりません?」
「いいや、扱いに困るような婚約者はいないよ」
「うん?どういう意味ですか。婚約者がいないのか、扱いには困らない婚約者がいはるんか」
「どっちだと思う?」
「え」
聞いているのはこっちなのに、と学が慌てると、リーインは愉快そうに笑っている。
「婚約者も特定の恋人もいない。安心するといい」
「正式な恋人はいなくって、お付き合いされている女性は複数いらっしゃるってことですね。刺されんように気ぃ付けてくださいね?」
特定の恋人、という言い回しにピンときて、学はついつい兄に対する時のように言ってしまった。
「ああ、そうしよう」
澄まして答えて、リーインは再び香りの良いコーヒーを口にしている。
本当に絵になる男である。
学は少し見惚れてしまい、我に返ると自分も甘いカフェオレの入ったカップを持ち上げる。それから、やっと違和感に気がつく。
「あれ、そう言えば、リーインさんの服、それって会議用のものじゃないですよね」
「ああ。今日は陛下と騎士団への査察があるから公爵家の軍服を着ている。礼服はまた別のものがあるが、学用のものも誂えてあるから心配しなくてもいい」
格好良い騎士服や軍服を着られるのは嬉しいが、堅苦しいのは御免被る。
学は一応の礼を伝えて、着る機会がないことを祈った。
それからリーインが先に席を立ち、学は特別だと言って出されたプリンのようなデザートを平らげてから部屋に戻る。
フェンとの約束の時間にはまだあるが、アトリスの細かいお直しに時間がかかるらしく、鏡の前で長時間座らされて期待半分、逃げたい気持ち半分だ。
自分にもおめかしして相手を喜ばせたいという気持ちがあることに少なからず驚いた。幼馴染の男連中と出かける時は作業用のツナギから着替えることはあるが、スカートなんて履いたことがない。今まで着飾って会いたい相手なんかいなかったことが原因なのか、それとも自分に欠陥があったからなのだろうか、とぼんやり考えているとアトリスが満足そうに頷いたのが目に入る。
「お嬢様、どうでしょうか」
鏡の前には化粧や公爵家の持ち物で外出時には公爵家の女性が身につけるべきであるという押し付けられた宝石で華やかに彩られた見たこともない自分がいる。
「お嬢様は素材が大変よろしいので、あまり凝ったことはせず、少し控えめにお化粧させて頂きました。フェン様の雰囲気と合わせてみたのですが」
「うん、凄い。ありがとう、アトリス」
学が頬を染めて言うとアトリスは嬉しそうにしている。
「フェンさんも気に入ってくれるかな」
まさかこんなセリフを自分が言うとは、と思いながら、ドキドキとしてしまう自分は少し浮かれているのかもしれない。きっと異世界なんていう別次元に来てしまったから感覚もおかしくなっているのだと自分で納得しておく。
「もちろんです、お嬢様。フェン様のお嬢様に見惚れている姿が目に浮かびます」
アトリスの太鼓判に学は笑みをこぼした。
兄たちが着飾った自分を見たら卒倒するだろうな、と切なく思う。あの兄たちは学のことを弟だと豪語しているし、学もそう思っていたから。とはいうものの、学は異性愛者だし、男になりたいわけではなかったので、将来は穏やかな男性と結婚して店を守っていこうと考えていた。こんな未来は予想していなかったのだ。
学は昨日会ったばかりのフェンを思い起こす。
良い人そうという好印象な初対面。そして意外に押しが強い一面もあることを知ってドキドキして。普通の友達のように話せて、そして頼りになる。
たった一日一緒に過ごしただけなのに、古い友達のように思える。
これが恋なのかは分からないが、もっと彼のことを知って大事にしたいと素直に思う。
今までは誰かに追いかけられる側だった。でも、今は会いたいと思える人がいる。それは今まで知ることのなかった感情だ。
そんなことを考えていると、なんだか心臓のあたりがどくどくと音を出して動いているような気がして困ってしまう。
これはアレだ。
貯金をして大好きな大型バイクが手に入って、自分はまだ中型の免許しかないから兄に乗せてもらってツーリングに行く時のワクワクと早く自分の手で運転したいと思う焦燥感に似ている。
倉庫に鎮座している自分のバイク、それは将来乗る為にオークションで落とした一品なのだが、それを思い浮かべると胸がキュンとなる。
あ、と思い出して学は気が付いた。もう乗れないのだ、あのバイクには。
この世界には、ない。
でも、とも思う。この世界にはあちらにないものがある。
騎士団とか魔法とか、フェンとか。
それはきっと、悪いものではない。
「お嬢様、フェン様とのお約束の時間まで少しありますので、お庭を散策などいかがですか」
考え事をしているとアトリスが声をかけてきた。
「庭?」
「はい。公爵家の庭は有名なんですよ」
庭を愛でるような情緒のある性格ではないが、有名と言われると気になるミーハーでもある。
学は行ってみる事にして立ちあがる。
「ご案内しますね」
アトリスに連れられて行った先の庭園は学の想像していた庭とは、ちょっと違った。
それは森、或いは自然を使った巨大迷路だ。
「アトリス、庭って薔薇が咲いてたり、噴水があったりガセボで休んでお日様の暖かさにウトウトしちゃったりするような場所じゃないんかな」
「はい?」
学の言わんとすることを理解できず、彼女は不思議そうにしている。
「あー、つまり、想像していたより広いって意味」
「ああ、なるほど。お嬢様の仰っている意味が分かりました。ふふ、ここは古くから伝わる公爵家の庭なのです。なんでも神さまが隠れていたとかいう由緒正しき聖なる場所だそうですよ。中へ入ると季節を問わずに花が咲き乱れて、時間の感覚もなくなる不思議な所で王城からも研究者が訪れたりして特別な許可がないと入れないのです。お嬢様はいつでも散策できますので安心してくださいね」
「そうなんや」
そんないわくつきの場所とは思わなかった。
鬱蒼と木々が茂っているように見えたのに中は明るく、清々しい風が流れていく。春の陽気のような、それでいて夏の木陰の清々しさのような気持ちの良い気候の中、小石の詰まった小道を歩いていく。
花畑というよりもワイルドガーデンといった様子に咲き乱れた花々の濃い香りを胸に吸うと、なんだか日々の疲れが癒やされるような気がする。といっても、そんなに疲れているわけではないのだが。
ここが聖域というのも何となく頷けて、学は実家の近くにある神社を思い起こす。ツン、と張り付けたような強烈な清浄なる空気を纏う境内と厳かな宮。趣は違うが、ここには神社の持つ空気がある。
「ねえ、アトリス。ここって一人で散歩してて迷子にならへんの?」
「大丈夫ですよ。お嬢様は旦那様の印がありますから加護を受けられます」
「どういうこと?」
「公爵家の血筋には女神の加護があるのですけれど、それには幸運という贈り物が含まれています。つまり、迷子になっても運良く戻って来られたり、適当に選んだ道が正解だったりするのです。そして旦那様はその幸運を自分が認めた人たちへ分け与えることができるのです」
「え、幸運を分け与えたら減るんじゃないん?そんなことして大丈夫なん」
「ああ、言い方が悪かったですね。旦那様は女神の力を譲り受けているのです。つまり女神ホープの幸運を人々へ与えることができるのです」
「無制限ってことか。すごいなあ」
異世界の突拍子のなさに驚きを通り越して感心してしまう。
そんな説明を聞いたせいなのか、どうもこの森、もとい庭園に何か他の生き物の気配がしてきて学は俄然興味が湧いた。
学はキョロキョロと辺りを見回して何かないかと確認するが、気配はあっても姿は見えない。
「アトリス、ここには魔術棟で見たデスラーくんの精霊のランテスやったか、その人の気配と同じものがいる気がするねんけど」
「あら、お嬢様、素晴らしい察知能力です。この庭園には精霊がいると言われています。姿を見た人はいないのですが、女神ホープの眷属だと聞いております。公爵家では年に一回こちらでお祭りを開いて女神の幸運を感謝する行事があります。その時は大精霊も女神もこちらにお越しになるとか」
「大精霊……」
新しい単語が出てきた。
学はそろそろ慣れてきたと思っていたが、まだまだ未知のものがわんさか出てきそうな予感に少し嘆息する。
「あら、そろそろフェン様がお迎えに来られるお時間ですね。戻りましょう、お嬢様」
「うん」
先導してくれるアトリスの付いていくが、どうしてなのか、どんどん距離が離れて行ってしまう。
おかしい。速度も歩幅も同じくらいなのに。
しまいにはアトリスの背中が霞んで見えてくる。
「アトリス、ちょっと」
待って、と言いかけて、学は完全に独りになっている事実に気が付いた。
「幸運があるんとちゃうん」
不安が口を付いて出てくる。
「幸運というよりも」
空気を震わせる声が学の背後から聞こえる。
「えっ」
ギョッとして振り向くと、目は宙に浮いている長い足を捕らえた。
恐る恐る視線を上げていくと、透き通るような金色の長い髪の美しい青年が微笑んで浮いている。儚げな様子なのに、生命力は強そうな笑み。矛盾している輝きが目を惹きつけて離さない。
リーインさんと良い勝負、と学が分析していると、その人は音も立てずにふわりと地面に足を置いて、学を見下ろした。
「君には魔力はないが守護の力があるようだ。それも人間では分からないくらいの」
「守護?」
何を言い出すのだろう、と訝しげに見上げている学の瞳に自分を映して、彼は満足げにしている。
「いいね、君。これで退屈しなさそうだ」
「そういうあなたはどなたでしょう」
敵なのか味方なのか、それとも通りすがりなのか判断できず、学は仕方なく尋ねてみることにした。すると彼は驚いたように目を瞬かせる。
「私か。というか、私が誰か分からない?」
「はあ」
知っていたら逃げるか話しかけるかしている。
「そうか、知らないのか。つまらないな」
「は?」
「いや、こっちの話。私は人間たちにはこう呼ばれている。大精霊ショウハン」
先ほどアトリスに聞いたばかりの単語が出てきた。
「大精霊って精霊王とは違う?」
「精霊に王はいないよ。大精霊は女神ホープをお助けする立場の、いわば側近だな。精霊をまとめ、自然との調和、世界の魔力の安定を担っている」
「へえ」
「精霊や神の世界は理に満ちているからね。外れたものを処理するのも私の仕事だ」
「へえ」
「異世界の扉も人間たちが管理しているように見えるが、実際は私たち精霊が管理しているようなものだ。今回人間たちがやらかした始末をどうすべきか検討中だが、実はまだ答えが出ていなくてね」
「へえ」
「これはバランスが難しい問題でね」
ペラペラと良い声で良く喋る。見た目が儚げな感じなのに、実際はアクが強そうだ。
学は内容が分からないので適当に相槌を打って、フェンとの待ち合わせの時間を気にしながらどうやってこの場を退散するか考える。アトリスも学が付いてきていないことに気がついて心配しているかもしれない。
気もそぞろな学が何度目かの「へえ、すごい」と「そうなんや」を繰り返した時、不意に相手が黙った。
「え?」
大精霊を名乗る見目麗しい美貌が学の鼻先に近付いてくる。
「聞いてないだろう」
「いいえ、まさか、そんな」
「良い。私も小難しい話をしてしまった。お詫びにこれを」
彼は身を離して微笑むと、人差し指と親指を合わせてパチンと鳴らした。
途端に空が深い藍色に変わっていき、不可思議な光が現れては消えていく。それは大小様々な大きさで明るく爆ぜる様に弾けるものもあれば弱々しく光りながら流れていくものもある。
まるで流星群が空を襲っているように星屑の光が溢れているのだ。
「ワオ」
学は感動して空を見上げている。
「口が開いているぞ」
大精霊に指摘されて学はポカンと彼を見る。
「どうだ、気に入ったか」
「うん、めっちゃ良いね、これ」
学が明るい表情で返す。実際は興奮しているのだが、見た目にはそんなに現れないのだ。
「気に入ったなら良かった。ついでに祝福もしてやろう」
「祝福?」
「ああ。人間にとったら精霊の祝福は生きやすい糧になる。貰っておけ」
「タダで貰っていいやつ?」
「ああ。気に入ったやつにしかやらんから、ありがたく思えよ」
「おお、ありがとう」
先にお礼を言うと彼は照れたように笑った。そして学の顔にまた近づいてくる。
「うん?」
切れ長の瞳が笑っている。
形の良い唇が学の額にくっついたところで彼女はポカンと彼を見上げた。
「汝に大精霊の祝福を」
悪戯が成功したかのように笑ってみせ、彼は宙に浮かんだ。
「あんまり警戒心がないのも考えものだぞ?」
そう言って消えた。
「は?」
おでこに手をやって、学は緑溢れる森の中にポツンと立っていた。
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