第8話 アデライドお母様、覚悟を完了させる。

 アデライドが止めていた動きをようやく再開させ、震える手で書類を持ちあげる。


 1枚目は婚姻届けだった。

 2枚目以降にはオーブリー殿下を婿に迎え入れるにあたっての、一方的な約束事が書かれていた。


 結婚後も〝子爵家の婿〟ではなく〝現役の王族並〟の予算で遇すること。

 先ほど告げられたモンテルラン男爵令嬢を、〝子爵家の婿の愛人〟としてではなく〝王族の花嫁のように〟扱うことなど、アデライドの気持ちもフランセル子爵家の誇りも何もかもを土足で踏み躙るような規定が書かれている。


 そしてアデライドが何よりも腹立たしいと感じたのは、〝オーブリー殿下とモンテルラン男爵令嬢の子をアデライドの産んだ子供として育て、次期フランセル子爵家の後継者とすること〟の一文であった。


 フランセル家にはシャルロットがいる。アデライドの唯一無二の愛しい子。

 フランセル子爵家の血を引いた、正当な後継者がすでにいるのだ。


 想像するだけで猛烈に気持ち悪いし吐き気がするが、百歩どころか何億歩も譲って、アデライドとオーブリー殿下との子供であればまだわかる。

 しかしフランセルの血を一滴も受け継いでいない殿下とどこかの男爵令嬢との子供に、なぜフランセルの全てを譲り渡さねばならないのか。


 アデライドの手にしたこの紙の束からは、王家とその周辺の〝子爵家程度〟という下位貴族への侮りと、その子爵家程度のフランセルがそこらの高位貴族よりも資産があることへの嫉妬と、〝いい歳をして夫に逃げられた女当主ならこの程度〟という傲慢な見下しが臭ってくる。


 冷静さを保つために血が滲むほど噛んだ舌先がびりびりとうずいた。


 「フランセル卿、ご署名をお願いいたします」


 蒼白になって固まるアデライドを気の毒そうに見ながら、文官がペンを渡してくる。


 どこかで見たような光景だわ……とアデライドは思って、ああ、娘の卒業パーティーから帰ってきた夜に元夫へ離婚届に署名を迫ったときと同じだと気づく。


 (罰が当たったのかしら?)


 アデライドは押し付けられたペンを力の入らない手で握りながら、込み上げてくる涙を必死になって飲み下そうとする。


 (元夫をさっぱりと切り捨ててしまった罰が。あんな男でもいればこんな屈辱的な契約を強制されることもなかった……)


 そう後悔して元夫の顔を……最後に見た、振り上げた火かき棒をこっそり背中に隠しながらぷんぷん怒り散らす元夫――の、鼻の穴から飛び出た鼻毛を思い出して、アデライドの気持ちは一瞬でスンッとなった。


 彼は結婚前から浮気をして、愛人に貢ぎ、ギャンブルや男同士の見栄のために派手に散財していた。

 妻と娘のためになることなど何ひとつしなかった。居丈高に怒鳴り散らし、ときに暴力に訴えて妻子の頭を押さえつけていたろくでもない男だった。

 義実家もそうだ。非はあちらにあったのだ。


 対して自分はどうだ。と、アデライドは徐々に力が戻ってきた手でペンを握りしめた。


 確かに離婚をして夫はいない。そういう意味では社交界ではちょっと異端かもしれないが、アデライドのような離婚歴のある婦人の存在がいないことはないのだ。


 そして自分が王家に何かしただろうか?

 ただ仕事が楽しくて没頭していたら、ちょっとした高位貴族の資産など鼻息で吹っ飛ぶほどの資産を作ってしまっただけではないか。

 人生を楽しみながら勤勉に仕事をしていただけの女にする仕打ちではない。


 女としての役割? かわいいシャルロットを産んだのだから務めは果たした。

 男児ではないことを元義実家からネチネチ言われていたけれど、男だからなんだというのだ。

 そんなこと、今ならこの一言で黙らせられる。


 〝オーブリー殿下を見てみろ〟


 ふつふつと湧いてきた怒りによって、アデライドの頭は高速で回転し始める。


 このまま唯々諾々と従ってなるものか。そうだ、刺し違えることになってもこの精神的苦痛に満ちた契約書にサインなどしない。


 幸い娘は海の向こうの国にいる。親戚には少し迷惑をかけるかもしれないが、そのぶん前払いで色々と融通しているのだから勘弁してもらおう。

 だいたい彼らはアデライドの元夫が色々とやらかしていてお金がないときに、潮が引くように手を引いた人たちばかりだ。迷惑をかけるのは本意ではないが必要以上におもんぱかる存在でもない。


 アデライドは書類の上にペンを置き、その上に両手を重ねて文官を見上げた。


 「一生に一度のお願いがあるのですが」


 人生を賭ける覚悟を完了した笑みを向け、アデライドは続けた。


 「オーブリー殿下にお会いしたいのです。伴侶となるかもしれないお方ですから、一度でいいから婚姻前にお話をしたいわ」

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