第2話 アデライドお母様、心に魔王を背負う。

 娘の卒業パーティーからの帰り道、アデライドは上の空だった。

 正面に座った夫が不機嫌そうにそっぽを向いて貧乏ゆすりを繰り返す。いつもならばあれこれと話しかけて機嫌を取るのだが、今日は全くその気が起きない。


 隣に座った娘のシャルロットも何かを考えこんでいるようで、ピンク色の唇をきゅっと引き結んで口を開かない。


 パーティー会場の華やかさから一転、馬車内は重く陰鬱な空気に染まっている。それはフランセル子爵邸に着いても変わらない。

 機嫌を取ってもらえなかった夫はフンと鼻をならしてますます不機嫌になり、さっさと愛人が待つ別邸へとしまった。


 アデライドは浮かない顔をする娘にまずは「卒業おめでとう」と声をかけ、そして話があるのと告げた。

 本当はドレスを脱いでパーティーの疲れをとってもらいたかったけれど、アデライドはこの胸の中でぐつぐつと音を立てて煮えたぎる思いを娘に聞いてもらいたかったのだ。


 メイドに特別熱いお茶を頼むと、娘に座るように促した。場所は執務室。アデライドが日々、自分と夫の両方の仕事をするために居心地よく整えた部屋である。


 「ねえシャルロット……お母様、あなたに聞きたいことがあるの」


 今日の娘はアデライドによく似た栗色の髪をきっちりと結い上げて、いつもよりも大人っぽい。母と似た金色に近い薄茶色の瞳をくりくりと瞬かせ、シャルロットは首を傾げた。


 アデライドは執務室に備え付けられた応接用のソファに座り、太ももの上に手を重ね、背筋を伸ばした。


 「シャルロット、あなた、お父様、いる?」


 あまりの緊張にとんでもないカタコトになってしまったが、母娘の以心伝心であろうか、娘はピシャッと小さな雷に打たれたような顔をして口を開いた。


 「私、いらない、お父様」


 ローテーブルを挟んでよく似た顔を見合わせて、アデライドとシャルロットはうなずき合った。


 「お母様、離婚したい、今すぐ」


 「するべき、大賛成、今すぐ」


 そして微笑み合った。

 アデライドは娘の笑みを天使のような温かな笑みだと思ったし、シャルロットは母の微笑みを女神のような慈愛に満ちた笑みだと思った。


 「お母様、私も相談が」


 「何かしら?」


 あのパーティー会場で夫の鼻から一本だけ長い鼻毛が飛び出しているのを見て、いらないな……この男……と離婚を決意した瞬間、思ったのは娘のことだった。

 シャルロットはアデライドのかわいいかわいい一人娘である。目に入れても痛くない。

 そしてフランセル家にはシャルロットしか子供がいないし、後継ぎという立場からも手放せない存在なのである。


 ただ、妻の立場からみればいらない夫だし、母の立場からするといらない父親だと思うのだけれど、娘の立場からすると、もしかしたらあれでも離れがたい父親なのかもしれないのだ。


 もしも父親を恋しがり、離婚すると言い出した母より父に付いていくと言われてしまったらどうしよう。

 どうやって説得すればいいか、離婚を踏みとどまるべきか……と、馬車の中で色々と考えていたのだが、シャルロットの反応は父を恋しがるどころか諸手を挙げて大賛成であった。


 表面上は淑女らしく座った太ももに手を重ね、しとやかに微笑んでうなずいてくれただけだが、アデライドの目には娘の背後に浮かんだもう一人のシャルロットが拳を突き上げて「オトウサマ、イラナーイ!」と吠えていた。


 むしろそこまで嫌っていた男を父親として慕えと長年強制したような気がして(いや、本当に血の繋がった父親なのだけれど)、母としてちょっと落ち込んでしまった。


 そうして落ち込んだところに、かわいい娘からの〝相談事〟である。

 アデライドは今までの母の権威失墜を取り返すべく、前のめりで聞く体勢を作った。


 「お母様、私、婚約者、いらない」


 緊張したシャルロットが、さっきの母そっくりの緊張した表情で言った。


 「縁切りたい、私、婚約者……と、親友」


 そしてアデライドも、さっきの娘と同じように小さな雷に打たれたような衝撃を受けた。


 フランセル子爵家の一人娘であるシャルロットの婚約者は、アデライドの夫と同じように婿養子としてこの家に入る予定であった。

 そしてその婚約者を見つけてきたのは、夫である。


 眉根を寄せてうつむき気味の娘の表情からは、先ほどのアデライドと同じように自分の人生において重しになる人間を捨てたい気持ちでいっぱいの表情が見て取れた。


 「しましょう、婚約解消、今すぐ」


 パッと明るくなった娘の顔に、そうとう負担を強いていたことを反省するアデライドである。

 とはいえ、


 「親友?」


 はて? と母は首を傾げた。

 母の知る限り、娘にとっての親友とは同じ子爵家でであるブリジット・フォン・コルニュではなかろうか……と、そこまで思って、アデライドはまたも雷に打たれたように固まった。


 夫の親戚、ろくでなし。いらないな……と、パーティー会場で夫の鼻毛を見ながら、親戚ごと捨てたいと思ったことを思い出した。


 「ブリジット?」


 それでも一応確認すると、娘は疲れたようにうなずいた。


 「パーティー中、私の婚約者と密会、愛人志望と明言、目撃」


 「ゴミはゴミ箱、今すぐ」


 にっこり微笑んだ母の背後に、娘は魔王の幻影を見た。

 魔王は「うちのかわいい娘に何してくれとんじゃ! あ゛あ゛ん?」と吠えていた。

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