第3話 アデライドお母様、鳩を解き放つ。
そうと決まれば大掃除である。
アデライドは執務机に置いてあったベルを力一杯振った。そしてすっ飛んできた家令に矢継ぎ早に指示を出す。
「私の離婚と娘の婚約解消のための書類を作成するから、弁護士先生をお呼びしてちょうだい。それぞれの不貞相手にも責任を問いたいから詳細な調査をできる人を手配して。お金はいくらかかってもいいわ。ああ、そうそう。今フランセル家で手掛けている事業と責任者の見直しをするから、先生にはそちらの書類も制作していただきたいと伝えて」
にっこりと笑ったのはアデライドだけではない。パーティー帰りのドレスのままで、学生という身分から一歩大人になったばかりのシャルロットまで、母と同じような迫力ある笑顔である。
老齢の家令はびっくりした様子で一瞬固まったあと、大きくうなずいた。
自分と一緒に飛んできた執事たちに指示すると、彼らは解き放たれたレース鳩のように一斉に執務室を飛び出していく。
「お母様、事業の見直しというのは、お父様の縁故で雇っている者を見直すということ?」
「ええ、首を飛ばすことになるわ。もちろん、ちゃんと職務を全うしているのなら別だけれど」
とはいえ、アデライドはフランセル商会という貴族御用達の店を中心に、フランセル家が手掛ける事業全ての収支報告を受ける身である。どこが赤字を出していて、何が原因で、誰がそれの責任者なのかは、だいたい見当がついている。
そちらもきちんと調査はするが、ほぼ間違いなくアデライドの頭の中に浮かんだ多くの顔を、もう一度見る日がくることはないだろう。
そして思い浮かべたその顔面のなかには夫とは血の繋がりがない彼の友人もいるというのに、全員気持ち悪いほど夫の顔によく似ている。
シャルロットは母によく似た形の耳たぶを紅潮させて、「できれば私もお母様の仕事の手伝いをしたいわ!」と言った。
「あの人が、〝女だてらに仕事など、はしたない〟と言うから仕事に関わるのは遠慮するべきかと思っていたのだけれど、よく考えたら我が家の仕事は全部お母様のものだし、お母様がしてるのよね……」
婚約者の名前を口に出すのも嫌なのか、娘は真珠のイヤリングを揺らして心底不味いものを口にしたかのように鼻筋にしわを寄せた。
「そうね。今すぐに全部、とは言わないから、少しずつお母様と一緒に学びましょうね。ゆくゆくはあなたが全てを引き継ぐのだから」
アデライドはぽんと手を鳴らした。
「ねえシャルロット、どうせなら外国にフランセル商店の支店を出して、あなたに任せてみたいのだけれど、どうかしら? 海の向こうの島国にはきっとまだ見たこともないような商品が眠っていると思うわ。あなたは頭が良いし、できれば十代のうちに世界の広さを知ってほしいの」
「いいの?! 私、ずっと自分の力を試してみたかったの! ありがとう、お母様!」
輝かんばかりの笑顔を浮かべた娘に抱きつかれて、アデライドは胸がじんわりと温かくなるのを感じた。
こんなふうに親子で笑い合うのはいつぶりだろうか。二人とも努めて明るく振る舞っていたけれど、今までずっと、屋敷全体がどこか重苦しい圧に潰されそうだった。
〝あれ? 夫、いらないんじゃない?〟と思ってからここまで、その圧を感じない。
むしろ清々しささえ感じている。
アデライドは娘をぎゅっと抱きしめてから、なぜか影のように息をひそめて控えていた家令に告げる。
「我が家の護衛騎士に言って、別邸にいらっしゃるお客様にお引き取りいただいて。お客様の使用人たちも忘れずにね。きっと夫が文句を言うでしょうけれど、あまりに聞きわけがないようならお客様と一緒に出ていくように言っていいわ」
「奥様、それでは旦那様がなんとおっしゃるか……」
「まあ……」
家令の言葉に、アデライドは料理に交じった卵の殻を噛み砕いてしまった時のように嫌な気分になった。
自分は本当に夫に言われるがままに従っていたのね……と、己の不甲斐なさに思わず半目になって笑う、という奇妙な表情で溜め息をつく。
「あなた、私がフランセル子爵家のなんなのかを言ってごらんなさい」
「ふ、フランセル子爵夫人です……」
アデライドは苦虫を噛み潰したような顔で、もう一度溜め息をついた。隣では娘が同じような表情で、ドレスについた糸くずを優雅に払っている。
長年フランセル家に勤めている家令ですらこんな答えを言うのだ。
おそらく使用人のほとんどが、アデライドのことを子爵夫人だと思っているのだろう。
「いつからお父様はお母様よりも偉くなったのかしら?」
娘が口の中で潰れた苦虫を吐き捨てるように言った。
「結婚前から偉そうではあったわねえ……」
「偉そうなだけで偉くはないのよね。だってフランセル家の当主はお母様なのだから」
娘の言葉を聞いて、ハッとした顔で申しわけございませんと謝る家令に、アデライドは微笑んだ。
何かと勘違いや間違いの多い夫に反論しても諭しても不機嫌に怒鳴りつけられるだけならば、あとで自分がその間違いを訂正したほうが簡単だし早かった。と、いうのもあって、今まで夫を諫めず立ててきた。
家の者の誰も、アデライド本人すら〝おかしい〟と思う隙もないほどそれが常態化していたが、今夜の娘の卒業パーティーでのバラデュール辺境伯令嬢イザベル様の毅然とした態度を見て思い出した。
この家の決定権は、アデライドが持っているということを。
「別邸に長々とお客様をお泊めしていたようだけれど、私は許可した覚えがないのよねえ……?」
アデライドは頬に手を当てて微笑んだ。
それを見た家令は青ざめた顔をして、アデライドの命令を告げに自ら騎士たちの詰め所へと飛んで行った。
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