三日目

 †三日目†


 ヤマシロ国の将軍クナナギは、夜明けの少し前に目を覚ました。手際良く身支度を整え、朝靄の漂う森の中で、日課の自己鍛錬を行う。


 ヤマシロはレイダから東に進んだ果ての国で、他国との交流が少なく、独自の文化を発展させてきた国だ。黒髪に揃いの鉢巻を締めたヤマシロの兵は武士もののふと呼ばれ、刀と言う片刃の剣を武器に戦う姿が有名である。此度のレイダ城包囲に参戦した経緯は、ヤマシロの末姫とマリアベル王女の友誼ゆえの義侠だ。


「……いよいよだな」


 朝餉の後から、本格的な攻城戦の始まりになる。昨日は北陵神聖王国軍の急な撤退があって出鼻を挫かれた形になったが、元々レイダ城の北面には大きな門が無く、纏まった人数は逃げ出せない。万が一、誰かが城を出ようとしても、東西の門を塞いで軍を展開しているユーア皇国軍とヤマシロ軍で十分に対処が可能だ。


 レイダ城に籠城している兵の数は、凡そ二千。避難している民衆達から人材を多少融通したとしても、三千を上回ることはない。反して攻城側は、北陵神聖王国軍が抜けても、併せた兵力は一万を超えている。その有利は揺るがない。


 せっかくの好機、まだ大きな戦功を持たない若手の武将に一番槍を任せてみようか。攻城戦の戦果は、自信にも繋がることだろう。そんな考えを巡らせていたクサナギの耳に、空を裂く音が届く。


「っ!」


 クサナギは腰に下げていた太刀を抜き払い、飛来してきた矢を切り捨てた。


「敵襲だ! 火矢が射かけられてきたぞ!」


 刀で二つに切られた矢は地面に落ち、矢羽に括り付けられていた小瓶が、硬質な音を立てて砕け散る。その中身を浴びてしまったクサナギの衣服からは、花の蜜を煮詰めたような、ひどく甘ったるい香りが漂った。


「何……?」


 油だろうと考えていた予想が覆され、クサナギは戸惑いの声を上げる。それ以外にも小瓶をつけた矢が何本も飛来してきたが、いずれもが火を纏ったものではない。本陣から離れた見当違いの茂みに突き刺さるものもあり、次々と小瓶を落としては、甘い香りを周囲に振りまいていく。


 レイダ城の城壁を観察しても弓兵部隊の姿は確認できず、功を焦った個人の兵が、闇雲に矢を放った可能性も否定できない。


 しかし、この香りはなんだろうか。


 敵の狙いを警戒し、身構えていた武士達の元に。

 ぶぅん、と不吉なが届いたのは、その直後のことだ。


「うわあぁっ⁉︎」

「な、なんだこれは……ギャアッ!」


 に纏わりつかれた武士達が、地面に倒れてもがき苦しむ。助けに向かった武士達もその異様さに悲鳴をあげ、一目散に逃げようとするが、すぐに追いつかれてしまう。


「助けてくれぇ!」


 同じく駆けつけたクサナギは、倒れた武士達に集るの正体に気付き、背筋を凍り付かせた。


「スズメバチ……!」


 凶悪な毒針を備えた、空を飛ぶ小さな悪魔の集団。

 クサナギが驚愕に立ち竦んでいる間に、蜂蜜を服に染み付けた闖入者の登場に興奮したスズメバチ達は、一斉に彼に飛びかかっていく。


「や、やめろ! グッ!」


 すぐにクサナギも逃げようとしたのだが、時すでに遅し。

 住処に矢を撃ち込まれて怒りに震えるスズメバチの集団は、甘い香りを漂わせ、興奮を誘う『黒』の髪を振り回して逃げようとしている人間を『敵』と見定めた。

無防備に晒された顔、鎧の隙間、着物の襟口。スズメバチ達はそんな僅かな隙間に身体を捩じ込み、クサナギの身体に、次々と毒針を刺していく。


「あ、ガ、グ……グヒュッ……!」


 数十匹のスズメバチから同時に毒針を刺されたクサナギは、白目を剥いて地面に倒れ込んだ。口角から泡を吹き、太い指で喉を掻きむしり、痙攣と共に悶え苦しむ。


「クサナギ様!」

「クソッ……クサナギ様ぁ!」


 救助に向かいたくとも、無数のスズメバチが飛び交う空間に飛び込むのは自殺行為だ。

 時間の経過と共にスズメバチの数が減り、ようやく被害に遭った武士達とクサナギを救出できた時には、身体の数十箇所を刺された彼らの全身は腫れ上がり、顔の判別すら困難になっていた。最初にスズメバチに集られた数名の武士は既に息絶え、まだ何とか命がある面々も、将軍のクサナギを筆頭に総じて呼吸困難に陥っている。一刻の猶予もない、危篤状態だ。


「クサナギ様! お気を確かに!」

「また襲われる可能性がある! 本陣を引き払うぞ!」

「城攻めなんぞをしている暇はない! 総軍撤退だ!」


 大混乱に陥ったヤマシロ軍は、慌てふためきながら撤退を始める。順番に軍を引いた神聖王国軍と異なり、バラバラに逃げ惑うそのさまは、統率を失った軍の脆弱さが露呈したものだ。近くに軍を展開している南部連合軍やユーア皇国軍に頼るという考えすら、恐慌状態の中では浮かばない。


 そうして、太陽が天中に至る前に。レイダ城の東に陣取っていた五千のヤマシロ軍は、蜘蛛の子を散らすように居なくなってしまった。


「信じられん……」


 ヤマシロ軍を襲った災難を城壁の上から見ていたレイダ城の住人達は、二日で半分以下の数になった包囲軍に、唖然とするばかりだ。しかもこちらは、殆ど何も行動をしていない。


「カスミ様、凄いです! 素晴らしい弓の腕前だわ」


 スズメバチの巣がある茂みとヤマシロ軍の本陣に向けて、蜂蜜の瓶をつけた矢を城壁の上から撃ちこんだのは、アズライルが子飼いにしているカスミだ。ベアトリーチェに手放しで褒められて、カスミは口布を引きあげながら、目尻をほんのりと朱に染める。


「クサナギ将軍は、前にもスズメバチに刺されたことがあると情報を得ていました。一度スズメバチに刺されていると、次に刺された時に、蜂の毒が回りやすくなるのだとか」

「まぁ、そうなの……?」

「攻めてくるのがどの国であろうとも、この地形を見れば、弓を警戒して森の中に陣を構えたくなります。森に花畑を作り、養蜂を始めさせたのは、アズライル様の考案です。ミツバチを狙うスズメバチが、近くに巣を作りやすくなりますから。ヤマシロ軍が本陣を張った後に、近くにある巣の位置を把握しておきました」

「アズライル様……先見の明にも秀でていらっしゃるのね」


 胸元に手を当て、ほう、と吐息を漏らすベアトリーチェの表情は、ジブリールの後ろで鬱々としていた頃とは違う、感情の籠ったものだ。そんなベアトリーチェを見守るカスミの方も、表情を隠してはいるが、どことなく嬉しそうだ。


 話題に上がっているアズライル本人はと言うと、カスミの放った矢がヤマシロ軍に混乱を引き起こしたのを確認してすぐに、次の策略の準備に取り掛かっている。


「さぁ姫様ひぃさま、そろそろ城内に戻りましょう。アズライル様がお待ちになっています」

「……ねぇ、アズライル様も貴女も、どうして私に、そんなに良くしてくれるの?」


 アズライルが丁度この場に居ないこともあり、ベアトリーチェは、ずっと疑問に感じていたことをカスミに尋ねた。


 謁見室で初めて出会った瞬間から、アズライルは、ベアトリーチェに好意的だった。その後も、常にベアトリーチェを淑女として敬い、丁寧に接してくれている。率直な質問にカスミは少し困った様子を見せたが、何故か『これは独り言ですが』と言い訳をした上で、ベアトリーチェの手を引き、中庭に続く回廊に向かう。


「アズライル様は、万が一の時にジブリール様のを務めるため、密かに教育を受けていました。しかしそれ以外の殆どの時間は、地下牢に繋がれていたのです。健勝なアズライル様といえども、それは苦痛の日々だったと伺っています。地下牢の天井には換気用の穴が開いていて、そこは【祈りの四阿あずまや】近くに繋がっていました」


 祈りの四阿はレイダ城の中庭に設けられた小さなガゼポで、ベアトリーチェは王太子の婚約者となった後も、その場を訪れるたびに女神ティナスに祈りと歌を捧げていた。正妃となってからは、誰にも言えない泣き言や不満を、小声で吐き出したりもしていた。


「そこから聞こえてくる敬虔な祈りの言葉と美しい歌声に、心と身体を癒されていたそうです。声の持ち主が国王陛下に嫁がれた後は……夫に冷遇されている彼女の様子に、強い憤りを抱いていたとか」

「そ、それは………」


 身に覚えがありすぎる。狼狽えるベアトリーチェを見上げたカスミは、ふふ、と小さく含み笑いをする。


「更にあの【姫騎士マリアベル】がレイダを訪れてからは……彼女に傾倒した陛下に何度も比較され、貶める言葉を投げかけられていたでしょう。アズライル様は、自分が傍に居たらあんな戯言を乗せる舌を引き抜いてやるのにと、悔しそうにされていたのですよ」

「……アズライル様」

「呼んだかい? ビーチェ」

「っ!」


 急に現れたアズライルに、ベアトリーチェは立ちすくみ、耳まで赤くなる。


「……ビーチェ? どうした? 何があったの」

「な、何でもありません」

「何でもありませんって、そんなに顔を真っ赤にして……熱でもある?」


 心配そうなアズライルに顔を覗き込まれたベアトリーチェは、更に赤く頬を染めてしまう。そんな二人を他所に、主君に傅くカスミだけが口布の下で頬を緩め、僅かに微笑んでいた。


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