2 風を呼ぶ巫女
それから彼女は仕事の度に現れては、ぼくの風虫捕りを眺めるようになった。時折村の生活の様子を聞いてきたり、揶揄ったりするほかは何をするでもなく、飽きもせずに溶けた笑みを浮かべていた。妙に馴れ馴れしい態度につられて、こちらも敬うことを忘れていった。
風呼が暮らす神殿は、山の中腹の岩壁に張りつくようにして建てられた木造の御堂だ。村から登る手段はなく、『トビ』でも特に『あげ帆風』に乗るのが上手い子でないと届かない高さにある。毎日、世話係の選ばれた『トビ』の子が風虫を運ぶほかに出入りはない。
「ううん、飛んできてないよ。実は岩棚から岩棚に繋がる洞窟があるんだよね。神殿は洞窟の一番高い出口に建てられているだけ。村の秘事だから知っているひとは限られるけど、一番低い岩棚からなら徒歩で登って来ることができる。丸一日かけて登ることにはなるけど。だから、大人でも神殿に登ってこれるよ」
「それじゃあ、わざわざ危険を冒して『トビ』の仕事をする必要ないじゃないか!」
「繋がってる岩棚は限られているし、食糧を得るには小さな岩棚の一つや二つじゃ足りないよ。『トビ』の仕事はなくなったりしない。それに食糧事情より深刻に、凪を恐れているからね。飛ぶことを止められるはずないよ」
「凪……本当にそんなものがくるの?」
凪は村に言い伝えられる風が止まってしまう日のことだ。風は生命の根源でもあり、村の生活を回す必要不可欠な動力だ。風が止むと空気が淀み、草木は枯れ、水は腐り、動物は飢えて死に至る。何よりも恐ろしいのは、風良木村の人間達は竜峰山脈を越える望みの一切を断たれるということ。逃げ場のない谷底で枯渇と窮乏の狭間で絞り殺されるしかない。
村人たち、とりわけ大人たちは凪を異常に恐れている。風祝の祭りを盛大に執り行うのも、掟に厳しいのもすべては村人生活の綻びのひとつが凪に繋がると危惧しているのだ。大人たちは子供たちのように飛ぶことができない。地に縛られた、肉の身体の鈍重さが彼らの恐怖を増長させているのだろう。
「薄々気付いているんだよ。この閉じられた世界に終わりが近づいていることを。湧き水の流量が減った。峰を越えて谷へやってくる獲物が減った。上昇気流が年々弱まっている。誰も口には出さなくても、気が付いている。信じていれば、いつか自分たちに羽が生えるとでも思っているのかねぇ。ほんと、滑稽だよ」
「何いってんの。ぼくらの先祖があの風車塔を建てたんだろ? そのころの人たちはあんたみたいに翼があって、自力で飛ぶことが――」
「可愛いね、信じちゃって」
お姉さんは笑った。からりと乾いた木枯らしのように寂しさが身を切った。村の女衆に子供であることを馬鹿にされたときとは違って、もどかしい無力感がぼくをさらった。浮力を失った身体が竜の背に届かない。何度も味わった悔しさと似た味が、奥歯に広がって行った。
それからしばらくお姉さんとは会うこともなく数日が過ぎた。ぼくは彼女の残した笑みの意味を考えて、悶々とした消化不良な時間に息苦しさを感じていた。
そうこうしている間に、風祝の日が間近に迫ってきた。『トビ』の仕事は祭りの振舞いのために、むしろ忙しさを増していた。風虫捕りの仕事と並行して、狩猟や資材収集の人手に駆り出されていた。一生に一度あるかという祝祭で村人たちは張り切っていた。
風祝の祭りは凪を遠ざけるための儀式で、風の神の生まれ変わりである風呼が空を舞うことで、谷に新鮮で活きのいい風を呼び込むとされている。儀式の主役はやはり風呼で、ぼくもお姉さんの翼が風を受けるところをみたかった。何度も会っていたのに、まだ一度も彼女の飛翔を目にしたことがなかったのだ。
そんな期待を抱きつつ、岩棚に降り立って風虫を捕まえている最中のことだった。
甲高く、谷を引き裂く美しい鳥の叫びが鼓膜を揺らした。
鳴き声に続いて、背後の木立に上空から何かが墜落してきた。ぼくは『トビ』の誰かが射抜いた鳥が落ちてきたのだろうとばかり思い、虫網の柄でぞんざいに草払いをしつつ草叢を探る。すると、柄の先が鳥を捉え、苦悶の悲鳴がこぼれた。それは鳥の鳴き声などではなく、聞きなれた言語で訴えられる苦痛だった。
「お姉さん?」
ぼくは言葉を失った。
墜落してきたのはお姉さんだった。いつものチュニックではなく、肌に下着を張りつけただけの粗末な装いに動揺する。粗末なのは衣服だけではなかったからだ。極限まで飢えた身体に肉はなく、骨は首を支えることに苦しんでいた。そのか細い脚は接地の衝撃を受け止めきれず、あらぬ方向に折れ曲がっていた。翼を震わせて、みすぼらしい鳥は痛みに涙を流していた。
「恥ずかしいところをみられちゃった……こんにちは、少年」
彼女は弱り果てた笑みでぼくを見上げた。
「誰かに間違って射られたのか? くそ、骨が、これじゃもう」
二度と立てない。
ひと目で手の施しようがないとわかった。折れた、というより砕けたと表現するほうが正確だった。皮膚を破った骨の中身はほとんど空洞だった。
「骨身を削ってみたけれど、やっぱりまだまだ重いみたい」
お姉さんはぼくの装備をみて、次いで自分の脚をみた。
「悪いんだけど、少年。私の脚を切り落とすのを手伝ってくれるかな? よければ、そのあと上まで運んでもらえるともっと助かるよ」
「なに言ってんだよ」
「小刀ぐらい持ってるだろ? 邪魔になるから捨ててくれないか」
「なに言ってんだ」
「貧血気味で、血を失い過ぎると死んでしまう。できれば止血もしてくれると」
「だから、なに言ってんだよッ!」
痛みで泣いているくせに、冷静になった素振りで脚を切り捨てるだなんて。彼女が何を言っているのか理解できなくて、声を荒げて子供らしく振る舞うことしかできなかった。
「少年にはわからないよ。わかりっこないよ、絶対にね」
お姉さんはそういって微笑んだ。
「なんだよ、それ」
手当てしようと近づいていたぼくの背嚢を勝手にまさぐり、思考が止まっている間に小刀を手にする。
「役に立たないなら、せめて黙って。私の邪魔しないで」
躊躇うことなく振り下ろした。彼女の言った通り、血は乾いてほとんど飛び散らなかった。お姉さんの身体は干からびていて、血は重たく粘り気が強い。止血は苦労するまでもなく、傷口で固まっていった。彼女は手づから両足を切り離した。
「どうして、こんなこと」
「少年は飛べない風呼がどうなるか、わかる? 風の神様に捧げられるんだよ。犠牲を払うことで、風を起こしてもらうんですって。飛べたら代わりで、飛べなきゃ餌。私はこの村の、あんたたち人間の信仰の下敷き。危機感を紛らわせるための慰み者なの」
お姉さんは風呼と風祝の儀式の正体を語った。恨み言は堰を切って、吐き出さずにはいられないと言葉が暴れてぼくを痛めつけた。
「この世界は檻だ。閉じ込めておくための檻。誰かが鍵をかけて、忘れてしまった檻。風が流れずに淀んでしまった澱」
風呼の記憶は目覚めから始まる。お姉さんも、ほかの風呼たちも同じように、神殿の硬い岩盤の床で目が覚めるのだという。寝返りを打とうとして、背中の肉が叫んで揺り起こされるのだ、と。感じるのは熱っぽさと背中の引きつり。痛みに耐えて手を伸ばすと、肩甲骨の辺りから一対の翼が生えている。身に覚えのないものが、生えている。血と縫い目と翼を動かすための筋肉と。
風呼の翼は人間に植え付けられた犬鷲の翼だったのだ。
彼女たちは檻のなかで使命を聞かされる。お前たちはその翼で飛べるようになれ、と。自分のものではない翼で。飛べるはずのない身体で。
人間の身体は空を飛ぶようにはできていない。風呼たちは人の姿で空を飛ぶためにあらゆる手を尽くす。翼を動かす筋肉以外の肉を削ぎ落し、栄養を与えないことで骨を中抜きする。身体も心も空にして、それでもなお重い。
「先任の風呼が死ぬと、次の祭りの準備が始まる。風祝の祭りで飛んだ風呼は、風の神を降ろした現人神として村で祀られる。一生神殿の檻に閉じ込められて過ごすことになる。でも、飛べなければ、祭りの日のうちに生贄に捧げられる。もちろん、墜落して死ぬこともある。風呼が少しでも命を長らえるには飛ぶしかない。私に飛び方を教えてくれた前の風呼は、両腕と両の膝下を切り落としてやっと滑空できる程度だった」
だから、脚を切り落とすぐらいなんでもないのだ、と彼女は笑った。
風呼は祭りの直前になると、飛ぶ訓練のために神殿を出ることが許される。彼女がぼくに会いにきていたのは、その飛ぶ練習の合間だった。そして、今日はじめて岩棚から岩棚への滑空を試みた彼女は、自重で墜落したのだった。
「まだ、重たいんだよ」
お姉さんには、ここから飛び立って逃げていく力もない。
人間に翼はない。この場所にやってきた先祖たちは、飛んでやってきたわけではない。それが風呼の考えだった。
「じゃあ、あの風車塔はどうやって建てたっていうんだよ」
「村はほとんど垂直な断崖に囲まれているけれど、外からはなだらかで登頂できるようになっているんじゃないかな。ここは谷なんかじゃなくって、山の頂上が沈んでできた窪地なんだよ」
「みたことも……みたこともないくせに出鱈目いうなよッ」
それはある意味、ぼくらの希望が断たれた話で、昔話をぜんぶ信じていたわけではないけれど、村の外には出られないと言われたようで。
「私たちはさ、罪人なんじゃないの? 逃げられないように、こんな場所に突き落とされて。出られるはずないのに、生きていくために作った嘘なんだ。飛べるなんて信じて、風なんて思ってさぁ」
お姉さんは嗤う。飛べない鳥は空を睨んで、地で醜くもがく人間を嘲笑う。
お姉さんはぼくを嗤っていたんだ。風虫なんて名前をつけて、食べれば風を手に入れられると馬鹿なことをいって、必至で集めていつか出ていけるなんて思っていたぼくのことを。
「風呼様、御無事でしたか。安心しました、さあ神殿に戻りましょう」
例の隠し通路を通って、神官らしき男がお姉さんを迎えにやってくる。ぼくにも、彼女の脚の惨状にも目をくれず、翼の状態だけを確認して無事という。彼女は切り落とした脚を残したまま、抱きかかえられる。
「さようなら、少年」
それは二度と会うことのないさようならだった。
足元にいつかの甲虫の残骸があった。立派な角を振り回した中身は空っぽで、吹き溜まっていたはずの旋風はどこにもみつけられなかった。
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