風供養
志村麦穂
1 風虫捕りの少年
竜の脊梁を吹き抜ける細い風が、卑屈な喉を震わせた。風待ちの村に山肌を駆け上って行く、朝一番の上昇気流の気配があがる。村がある谷底は夏場でも山脈の陰に覆われ肌寒いくらいだ。わななき風穴の鍾乳洞の底では解けることのない氷洞があり、年中冷気を吐き出している。それもすべて見渡す限り広がる大きな竜の背のせい。
村の四方に迫る断崖絶壁。竜峰山脈。
太古の昔、一匹の大竜が風を失い地に落ちて、眠りこけたまま山脈になってしまったという伝説だ。遠近感を狂わせる巨大な岩壁は、夏でも頂上に雪冠を抱く。切り落とされたように平らな面に朝陽が反射し、谷底の風港の高台へと四角い光を落す。ぼくらの世代で竜の背を越えたものはいない。父の代でも、祖父の代も、そのまた祖父の代まで辿っても、村人たちが山稜を飛び越えたという話は聞かない。昔々の、昔話の時代を除いて。
見上げた頂上、竜の骨棘を示すように山峰の上に建てられた風車塔が真実を物語る。かつて、人々には空を飛ぶための翼があった。その身の内に風を宿し、翼は揚力を受けて自由自在に世界を渡った。ぼくら
ぼくら村人は眼がいい。狩りを任された『トビ』の子供たちは特に。遥か頂きの風車塔に掛けられた色とりどりの旗が風でなびく様子も見て取れる。谷のどこからでも見えるから、次に吹き込む風を読むために必須なのだ。
「くるぞ」
『トビ』のなかでも最年長の子が顔をあげた。彼はやせっぽちだが、ずいぶんと背が伸びてきた。あと半年と経たずに『トビ』はできなくなるだろう。『トビ』は危険な仕事だが、身体が大きく重たい大人には決してこなせない。大抵の子は十四を超える前に飛べなくなる。小さく身軽なうちにしか竜を越える機会はないのだ。だから、ぼくら『トビ』の子は、朝がくる度に高く舞い上がることを夢に見る。今日こそ、この閉ざされた世界を飛び越えていくために。
山峰の風車塔の羽が激しく回り始める。陽光で温められた空気が、上昇気流となって空を目指す。
崖に張りつくように作られた巣の鳥たちも、気温の変化を感じ取り、羽を広げて風を受ける準備をする。竜峰山脈にはいくつかの亀裂があり、風の通り道となる。朝一番のわずかな間だけ、その亀裂を目指して上昇する突風が吹く。ぼくらはそれを『あげ帆風』と呼んでいた。『トビ』は『あげ帆風』に合わせて浮揚膜を開き、空高く舞い上がるのだ。
突風に備え、額に乗せていた風防眼鏡を下ろす。ぼくも今年で十、『トビ』も四年やればベテランだ。身長も伸びてきて、あと何度飛べるのかわからない。風に乗り損ねて怪我、最悪死ぬこともある。いつも最後のつもりで飛び立つ。
気の早い子たちが高台から飛んで、風に対して平面に四肢を広げる。背中に弧をかけるように帆がはり、右手と右脚、左手と左脚、そして左右の足の間に薄膜が張る。その四つの風受け皮膜をもって、子供の身体は突き上げられ上昇する。でも、まだ『あげ帆風』の最高潮じゃない。最初の吹き上げで速度が出ないと、高く舞い上がることができない。一度飛び出すと、二度三度と風を受けることは難しく、むしろ体側面に風を受けて横転する危険がある。そうなれば谷底まで真っ逆さまだ。今迄、何人もそうやって落ちた子を知っている。勝負は一度、一番強い気流に乗る。年長の『トビ』はそのことを分かっているから、我慢強く風を読む。『トビ』の力量は、ほとんど飛び出しで決まるといってもいい。
待て、焦るな。むずがゆくなる足裏に言い聞かせる。浮足立って地面を離れたがる身体。
峰を睨む。風車の回転が一瞬だけ息継ぎをし、斜面の雪が逆巻いた。
来る。
ぼくは躊躇いなく高台から身を躍らせ、四肢を勢いよく開いた。瞬間、腹を突きあげる力が谷底から駆け上がった。膜を閉じないように身を固くして、姿勢は水平を必死で保つ。ここで力に負けてひっくり返されるようでは素人だ。瞬きひとつを数える前に、みるみる村の姿が小さくなる。
高い。確信した。今までで一番高く舞い上がった。
風の勢いはまだ衰えない。空気が指先に刺さる。冷たい。
まだ、まだと言い聞かせ、二十数えて、我慢できずに顎をあげた。
目の前に純白の氷壁が立ちふさがっていた。
高い。亀裂さえ遥か上方に思えるほど、遠い。ぜんぜん届かない。
顎をあげたことで水平姿勢が崩れる。上昇の勢いも弱まって、身体が傾きに従って右舷に緩やかにながれる。急上昇から、大きく円を描くように滑空の体制にはいった。あとはもう、下って行くだけだ。ぼくは失敗に歯噛みした。
『トビ』の仕事は基本的には食糧確保のための狩りだ。谷底では日光が足りず、動植物が育ちにくい。樹木は細く、羊歯や苔が生い茂る。鹿や山羊も食糧の乏しい谷底までは降りてこない。それに対して、山肌には狭い棚になっている部分があり、少ないながらも餌場になる緑地がある。獲物となる草食獣やそれを狩る山猫、果実や山菜、資材となる材木に薪。『トビ』は高い位置にある棚から順番に下って行き、それらの資源を手に入れては落としていく。鹿や山羊を狙うときは、両端におもりのついた紐を足めがけて投げ、絡みつかせた状態で崖から突き落とす。転がって落ちるうちに勝手に死んでしまうし、谷底までいけば村の大人が回収する。特に危険なのは、絶壁に作られた鳥の巣を回って卵を回収する役目だ。勢いを殺せなければ壁に叩きつけられるし、卵を捕ってる最中に滑落したり、鷹に浮揚膜を破られることもある。しかし、それ以上に栄養価の高い卵は貴重だ。
あまり豊かとはいえない村の生活で、『トビ』は大切な仕事だった。
ぼくの役目はそのなかでも、下に突き落とすことができない貴重品の回収だった。そもそもぼくらの仕事では雪を被っているほどの高さまで高度を稼ぐ必要はない。ゆるゆると狙いを付ける鷹のように、大きく円を描いて手頃な棚に寄って降りる。岩棚に激突しないよう注意しつつ、軽く壁を走って滑空の勢いを殺して着地する。
全周百歩もないぐらいの棚は、五月蠅いぐらいの蝉しぐれで満たされていた。狙った通り、虫好きのする樹液の垂れる樹の生える棚だった。背嚢から折り畳み式の網を出して、手近に落ちている真っ直ぐな枝に装着して簡易的に虫取り網を組み上げる。
じりじりとうるさい蝉の背後から忍び寄り、一匹二匹と捕まえては巾着に放り込んでいく。珍しいことに黄金に光る餌場には大物の甲虫の姿もあった。逃す手はないと、気配を殺し手づかみで背中を抑え込んだ。
「これなら
風虫捕り。それがぼくに課せられた役目だった。
蝉や甲虫、腹に空洞をもつ虫は体内に風を宿して飛翔する。手で捕まえられない風を留めておける唯一の方法。風虫を生け捕りにして、凪に備えるのだ。風虫は体腔内で淀ませることなく風を循環させる仕組みがある。風のない凪でも飛べるのは体内に風があるから、なのだそうだ。そして、この風虫たちは、風祝の巫女である風呼への供物でもあった。
風呼は新鮮な風しか好まず、翼を持ち、道具に頼らず飛ぶことができる唯一の人間なのだとか。風呼の飛翔がみられるのは、十数年から数十年に一度の風祝の祭りでだけ。その祭りが近々開催されるという話で、風虫捕りにも精が出るというものだ。ひとが飛ぶ姿をみてみたい。その願いはなにものにも代えがたい。
「風虫なんか集めたって、飛べるようにはならないよ」
ぼくは声を掛けられたことに驚いて、手に掴んでいた甲虫を取り落とした。だいぶ低い所まで降りてきたとはいえ、麓から登って来られる高さじゃない。ぼく以外の『トビ』の子が降りたとこもみなかった。ぼく以外の人間が居るはずないのだ。
「こんにちは、少年」
風虫を集めるぼくを、緩んだ表情で眺める女がいた。ニコニコ、いや、にやにやか。染みひとつない柔らかなチュニックを腰元で絞って、半跏したうえに頬杖をついた姿勢。その手足は異様に細く、肌は青く張りついている。そしてなによりぼくの意識をひいたのは、彼女の背中。その背中から生えたものだった。
彼女には翼があった。鳶色の、斑模様の一対の翼。空を飛ぶための、風を捕まえる、ぼくたちにはない憧れがあった。
「風呼様……風祝の祭り以外では外にでないはずじゃ」
「お姉さんって呼んでよ」
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