共有型経済の各課題に対する解決策②

 経済のモデルが変わる時、多くの人々が心配する分かりやすい問題。それは、雇用や労働、あるいは生活といったものだ。これを言い換えるならば、充分な生活を送りながら、商品やサービスの恩恵を享受できるのかという問いに繋がる。では、共有型経済の場合、どうなるのだろう。考え得る4つの課題を、順に示しながら、説明をしていきたい。


 最初に掲示する課題は、誰もが経済活動しなくなるリスクだ。このリスクには、大きく2つの問題が含まれている。最低限の生活基準をどう定めるかというのが1つ。もう1つは、人々のやる気の問題だ。どちらも内容は違うが、密接に関わり合っていると言っても良いだろう。そして、これらの問題はよく挙がる2つのテーマを思い浮かべてもらうと分かりやすい。ベーシックインカム及び、ワーキングプアと生活保護を比較した際に分かる生活レベルの不平等性だ。


 しかしこの問題は、意外にも簡単に解決することが出来る。つまり、経済活動しなくても、それなりの生活は保障されるが、経済活動を行えば、さらに豊かな生活を送れるように、経済の仕組みを整えることが重要ではなかろうか。もちろん、経済活動をしていない人の生活レベルが、経済活動をしている人の生活レベルを上回ってはならないし、経済活動をしていないのに、豊かすぎる生活を送れるというのもあってはならないことだ。そのため共有型経済では、こういった問題が起こらないために、制度の仕組みを細部まで細かく調整する必要があるのは明らかである。


 次に懸念される問題は、大量失業だ。経済システムが大きく変わってしまったら、職を失うのではないか。多くの人々がそのように考えている。だが、彼らが心配しているのは職に就けないことではない。むしろ、働く行為によって発生するお金が貰えないことで、生活が立ち行かなくなるのを恐れているのだ。


 でも、その恐れは杞憂に過ぎない。なぜなら、どんな人にでも最低限の生活が保障され、それを享受する権利があると共有型経済が考えているからであり、それゆえに、人々が生活の心配をしなくても良くなる。


 しかし、共有型経済における雇用や、労働は複雑さを増す。というのも、共有型経済の最大の特徴は、あらゆるものを共有するという考え方に基づいて、成り立っているからに他ならないからだ。そのため、経済活動するのに必要な、会社・時間・人・道具は、すべて皆の物であるという風に見なされる。


 そこでとある問題が浮上する。共有的雇用の複雑さをどう解決するかだ。私はこの問題に関し、限定所有という概念を提唱したい。このメリットは、働かせすぎの抑止だ。自分という人間を、共有会社に一定時間所有させることで、その時間分だけ働き、その分の対価としてポイントを貰う。この際、雇用される側が、ある程度自由に労働時間を決めることが出来る。では、1人のみが働く共有会社はどうなのか。この場合も同様に、自分の労働時間を柔軟に調節することが可能だ。


 だけれども、働きたいが、経済活動を上手く行える自信がない人々もたくさんいるだろう。そのために、何らかの機関を立ち上げ、いつでも、どこでも経済活動を行えるように、自立支援を促進させる講座を、経済活動に参加してないという条件付きで、ポイント使用なしに受講できる仕組みを作っても良いかもしれない。


 そして、雇用と労働において最も難しい問題が、自活的労働による労働と私生活の線引きだ。例えば、ボランティア、家事育児、趣味……。それそのものが生活の一部になっているという場合はどうすれば良いのか。


 まず、労働が趣味というような場合は好きなだけ働ける。なぜなら、共有型経済では、労働者がどんな時でも、自分自身で働く時間を決められるからだ。そのため、働きすぎで死ぬことは無いと言っていい。しかしこれだと、国民全員が働いていない時期が少しでも発生した瞬間、経済が崩壊してしまうという声もありそうだ。


 心配はいらない。何より、いつの時代にも、向上心を持つ人、働くことが好きな人、他人よりも裕福な生活をしたい人などはたくさん居る。そのような人々がいる限り、誰も働かないことで経済が滅びるリスクは、まずあり得ない。


 そして、家事育児。これは、見えない労働に例えられる。誰かがやらなければいけないことだが、やったとしても無報酬で、その結果が経済に結びつくということは、それを職業にしているケースを除き、無いに等しい。だが、家事育児に対して、報酬を与えるという選択肢は中々出来ない。というのも、家事育児に対する報酬の判断基準が不透明で、誰がどの程度の家事をやったのかが、外からは何も見えず、分からないからだ。したがって、正確な報酬制度を確立しようにも、申告した本人を信じるほかないが、嘘を言う可能性もある。


 そこで、共有型経済では、家事育児という、家庭内で家族が行う労働に対して、報酬を何も与えないという決定をしたいと思う。残酷ではあるが、家事育児に対する報酬が無いのは、資本主義、共産主義、あるいは他の経済主義でも同じではないだろうか。


 最後にボランティア。これは労働とみなさなくても良いと思う。ボランティア自体、報酬ではなく、善意を前提に成り立っている。だからこそ、そのような行為は、社会全体で、積極的に推奨されることが個人的には理想的だと考えている。

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