この異世界には魔法がない(5)
「何かあった時のため?」
「そう。魔物が出た時とか、悪い人が来た時、戦えた方がいいじゃない? あたしはそういうの得意みたいだし」
「それがなんでお姉ちゃんだから、なの?」
「そんなの、あんたを守るために決まってるじゃない」
「え?」
寝耳に水だった。予想もしてなかった答えに、僕はただただ困惑した。
「あたしお姉ちゃんだもん。シオンに何かあった時のために強くなってないと困るじゃない?」
「僕の、ため?」
「そうよ。まっ、苦しかったりするけど、嫌じゃないし」
マリーは当たり前のことでしょ、というように空を見上げながら言う。
「あたし、頭はあんまりよくないけど、身体を動かすのは得意だからね。こういうことしかできないけれど」
「じゃあ、姉さんは、ずっとそのために走って、鍛えてたの?」
「そうよ?」
あっけらかんとしている。恩に着せるでも、自慢するでもなく、ただ当たり前のように言った。
その自然な言動に、僕は言葉を失った。彼女の思い。その純粋さに何も言えなくなった。その思いの先に僕がいて、マリーは僕のために努力していたということ。それが嬉しかった。
同時に、申し訳なく思った。僕はずっと僕のことばかり考えていた。それなのにマリーは僕のことを考えて頑張ってくれていた。
両親もそうだ。いつも僕を気遣ってくれていた。心配してくれていた。
でも僕は? 僕は自分のことしか考えてない。周りに心配をかけて、甘えていた。
こんな小さい子が、僕のために頑張っていたのに。
小さい体だ。でもとても大きく見えた。
ちらっとマリーが僕を
「行きたいところがあるの。ついてきて」
「でも、母さんがあまり遠くに行っちゃダメって」
「大丈夫。近くだから。それに魔物がいない場所だしね」
僕は戸惑いながらマリーの手を握る。
この姉はいつも突拍子がない。
中庭を通って、外へ行く。家の外には草原と森が広がっている。
マリーは道を進み、しばらくすると迷いなく森の中に入った。森に入ると、視界は木々に埋め尽くされた。
僕は森の中にほとんど入ったことがない。大体は道なりに街道を進むからだ。しかしマリーは恐れなく、ずんずん進んでいった。見知った道なのだろう。頼もしい背中だ。相手は八歳なんだけど。
しばらく歩くと、視界が開ける。そこにあったのは湖だった。
「少し待ちましょう。夕方になれば見えるわ」
何がとは聞かなかった。なんとなく聞くのが
ここから家まで十数分もあれば着く。夕方になって帰路についても夜になる前に
「母さんに怒られないかな?」
「怒られるかもね。でもその価値があると思うわよ。多分」
不安ではあった。怒られたくないのではなく、心配をかけるからだ。ただマリーの真剣な横顔を見ては、それも言えなかった。
彼女はじっと湖を眺めて、目を離さない。
僕はマリーの横に座ってじっと時を待った。湖畔から湖を眺めるだけの時間が過ぎて、夕方になっていく。何があるのかという疑問は氷解しないまま、空は赤く染まりつつあった。
そろそろ帰ろうと言おうとした時、マリーが身を乗り出した。
「ほら、見て!」
マリーが指差す先に視線を移す。
湖には変化がなかったはずだった。しかし水面に何か違和感があった。何かが動いている。
それが一つ、二つ、三つと増えていき、やがて水面から浮かび上がった。水の中から空へ立ち上るそれは『光の玉』だった。
湖の中で生まれて、空へ浮かぶ。
徐々に消え、また水の中からそれは生まれた。
幻想的だった。そして非現実的だった。こんな現象は現実にはないはずだ。でも存在している。光の玉は湖中に現れ、風景を彩る。美しいという言葉以外に浮かばない。
「夕方前になると、こうやって光の玉が現れるの。なぜかは知らないけれど」
「と、父さんたちは知っているの?」
「話したことはあるわ。それで連れてきたこともあったんだけど、不思議と見えなかったのよね。だからちょっと不安だった。シオンにも見えないんじゃないかって」
「大人には見えないのかな……?」
「ううん、子供でも見えない子もいたわよ。見える子は一人だけだったわ。それに、見え方も違うみたい。あたしには
ちなみに僕には友達がいない。家からほとんど出ないし、出る必要もないからだ。マリーは頻繁に外に行っており、村の子供と遊ぶこともあるらしいけど。
僕は光を見た。はっきりと色濃く見えている。これは一体、何なんだろうか。
「不思議だね」
「そうね、不思議。でも『魔法』みたいじゃない?」
「魔法……?」
「そうよ。あんたが言ったんでしょ。光とかそういうのを生み出すとかなんとか。ほら、それっぽいでしょ?」
言われてみると、そうかもしれない。湖から浮かぶそれは、不可思議な現象だった。魔法と言われれば、否定はできないかもしれない。
しかし驚きはそれだけではなかった。マリーはたった一度、三年前にした会話を覚えていたのだ。僕が父さんに魔法について尋ねた時のことを。
「覚えてたんだ」
「まあね。あたし記憶力は悪いけど、シオンのことだもん。覚えてるわよ。あれから、あんた元気なくなったしさ……なんか関係あるのかなって。それで最近この場所見つけて、連れてこようと思ったの。危ないかもしれないから、色々と調べてたらちょっと遅くなったけどね」
見ていてくれたのだ。マリーはずっと、僕のことを。
情けないと思った。自分を責めた。あまりにまっすぐすぎる思いに胸を打たれた。そして、たまらなくなって僕は泣いてしまった。
「ご、ごめん……姉さん……」
「なんで謝るの! なんで泣くのよ。もう! しょうがないなぁ」
ぽんぽんと頭を軽く叩かれた。それが優しすぎて、余計に涙を促した。
嬉しかった。こんなにも自分のことを考えてくれる人がいることが。
マリーはそっと僕を抱きしめてくれた。子供の体温は高く、温かい。僕も同じだろう。だからこそ互いの存在が色濃くなった。情けない。僕は大人なのに。そう思うのに涙は止まらなかった。
しばらくして、ようやく泣きやんだ僕は、恥ずかしさのあまり俯いた。マリーはそんな僕を茶化すことはなく、何も言わずに背中を撫でてくれた。本当に優しい姉だ。
「さっ、帰るわよ」
「……ありがとう、姉さん」
「お、お礼が言ってほしかったわけじゃないから……ちょっとは元気になった?」
「うん! すごく元気になった」
「そう、よかった」
自然と手を繋ぐと、僕たちは家に向かって歩いた。
肩越しに振り返ると、まだ湖は光で満ちていた。マリーの優しさを実感し、嬉しく思うと同時に僕は思った。
もしかしたらまだ諦めるのは早いのかもしれない、と。
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