この異世界には魔法がない(1)

 最初の半年はつらかった。なんせ身体がまともに動かないし話せない。すべてにおいて誰かに世話をしてもらわなければならなかったのだ。思い出すだけで嫌になるところもあるので、詳しいことは割愛させてほしい。

 大体は寝ている。ぼーっと天井を見つめるだけのお仕事だ。退屈だった。でも未来に思いをせていたため、苦痛ではなかった。歳を重ねればできることが増える。そうすればいずれ魔法のことを知るだろう。

 ああ、楽しみだ。楽しみすぎて、おしっこ漏らしちゃった。ごめんなさい、母さん。

「あらあら、シオンちゃん。おしっこしちゃったのね、おむつ、替えましょうねぇ」

 柔和な笑みを浮かべる美しい女性が、僕の母親のエマさんだ。エマさんが動く度に、手入れの行き届いた茶色の髪が揺れていた。

 僕はシオンという名前だ。女性っぽく聞こえなくもないが、男である。

 正直、彼女をなんと呼べばいいのか悩んだが、こっちの世界の母親であることは間違いない。母さんかエマさんと心の中で呼ぶことにした。まあ話せるようになっても、実際には名前で呼ぶことなんてないと思うけど。

 エマさんはニコニコしながら、僕のおむつを替えてくれた。

 ちなみにおむつといっても、普通の下着みたいなものだ。あまり厚みがあっても通気性が悪くて蒸れるので、しょうがないらしい。

 おむつ替えを終えると、エマさんは僕を抱きかかえる。

「うーん、シオンは静かな子ねぇ。マリーとは大違いだわ」

 少し心配そうにしながらエマさんは僕を見下ろしていた。確かに僕は泣かないし、あまり笑わない。だってさ、ばーっとか言いながら変顔されても笑えないんだ。三十歳のおっさんの笑いの沸点はそこまで低くないよ。

 愛想笑いを浮かべてはいるけど、周りからはなんだこいつ、みたいな顔をされる。そんなこともあって、僕は無理に笑わないようにしている。

 エマさんがよしよしと言いながら、僕を優しく揺する。

 心地よい揺れが眠気を誘ったが、それをけたたましい音が遮った。

「おかあさ!」

 扉を開けたのは、小さな女の子だった。といっても、現在、一歳の僕よりは年上だ。

 彼女はマリアンヌ。愛称はマリー。僕の姉だ。三歳で、かなりやんちゃな女の子。癖が強いためか、肩まで伸びているあかだいだいの髪はうねうねしている。比較的れいにしているのだが、動きや仕草がそれをすべて台無しにしていた。

 彼女はどかどかと床を踏み鳴らし、僕たちのもとへやってきた。

「あらあらどうしたの、マリー」

「おかあさ! あたしも抱っこする!」

 お断りさせていただきます。君に持たせたら、絶対落とすでしょ。赤ん坊からしたら、少しの高さから落ちるだけでも危ない。やめてください、本当に。

 おおらかなエマさんもさすがに、マリーの要求には困っていた。

 おい、うーん、じゃないよ。断ってよ!

 僕は内心、冷や冷やしながら動向を見守った。

 マリーは「ねぇねぇ! おねがい!」と言いながら、エマさんのスカートを引っ張っている。

「ごめんなさいねぇ、まだマリーには無理かしら」

「そんなことないもん! あたしもできるよ!」

 子供は何でもできるって言うものなの! 君にはできないの!

「そうかしらねぇ」

「そうだよ!」

 そうじゃないよ! やめて、ほんと! 魔法を使うまで死にたくない! せっかく異世界に転生したのに、姉に落とされて死亡なんて最悪な結末、絶対に嫌だ!

「う────ん、やっぱり、ごめんね」

「う、ううっ、だ、抱っこするの! あたしがするの!」

 泣き出した。感情を抑えきれずに、エマさんのスカートをぐいぐい引っ張っている。

「だ、だめよぉ。危ないものね」

「あううぅっ! うわああ! 抱っこするぅ! ずるぅっ!」

 子供が泣きだしたらなかなか泣きやまない。子供はわがままなのだ。

 部屋中に泣き声が響く。

 エマさんはおろおろとしながらも、僕をベッドに寝かせて、マリーと話し始めた。

「マリーちゃん。お姉ちゃんなんだから、わがまま言っちゃダメよぉ」

「ずるぅ、抱っこずるぅ! ずるぅ!」

 辛抱強く、エマさんはマリーに言い聞かせていた。すごい忍耐力だな。僕だったら無理だ。

 数十分そうして、ようやく泣きやんだマリーを前に、エマさんはにこっと笑う。

「マリーちゃんはシオンちゃんと遊びたかったのね」

「うん……」

「もう少ししたら、シオンちゃんも少しずつ話せたり、動けたりするから、それまで待ってあげて? 赤ちゃんは守ってあげないといけないのよ。家族みんなでね」

「……みんなで?」

「そう。マリーちゃんにも協力してほしいの。お姉ちゃんだから、頼りたいの」

「お姉ちゃんだから?」

「そうよ」

 ぐしぐしと目をこすって涙をぬぐうと、マリーはにぱっと笑った。

「わかった! マリー我慢する! お姉ちゃんだもん!」

「ふふ、ありがとう。さすがお姉ちゃんね」

 よしよしとマリーの頭をでるエマさん。

 なんだか心がほっこりする瞬間を目の当たりにしたが、僕は赤子である。

 とてとてと歩き、マリーがベッドの横に来た。僕の真横に顔を寄せて、つんつんとほっぺをつついてきた。

「早くおっきくなってね、シオン」

 僕もそうしたいよ。でも今はあんまり無茶をしないでね、お姉ちゃん。

 ちょっとはらはらしながらも、僕はマリーに手を伸ばす。マリーはうれしそうに優しくその手をつかみ、にかっと笑う。その様子を、エマさんが微笑ほほえましそうに見ていた。

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