第6話 青い色彩

 翌日、早朝から家族で海水浴に出掛けた。

 弟と妹と一緒に水着姿で浜辺を走り回るときも、父の身体を砂浜に埋めて遊んでいるときも、初子は心ここにあらずでいつこの場から抜け出すかだけをずっと考えてた。


 時刻は午前十一時過ぎ。

 少し早い昼食取ろうと海の家の座敷に座ったタイミングで、初子は母親の服の袖をつんつんと引っ張った。


「ねえ、お腹痛いからホテル帰る」


 弱っている感じが出るように、でも嘘をついているのがバレないように。初子としては渾身の演技だった。


「大丈夫? お母さんついていこうか?」

「ううん、大丈夫。皆まだ海で遊びたいでしょ? 私治ったらまた来るから」

「そう、わかった。本当に辛くなったら電話頂戴ね。すぐに行くから」


 そう言った後、母は弟がすぐそばで走り周る姿を見て「こーら!」と声を挙げた。

 母はやんちゃな小学生の弟と妹の世話でいつも初子のことは二の次だ。それに寂しさを感じた時期もあったけど、今は都合がいい。嘘を付いてしまった後味の悪さを振り切りながら、初子は薄手のパーカーを羽織って海の家を出た。

 

 ホテルの部屋に付くと半袖シャツとハーフパンツに着替え靴下を履く。リュックの中身をすべて掻き出し、財布と携帯電話、そして昨日シリウスにもらったマッチ箱を入れた。集めたものをしまえるように持ち物は最小限にし、リュックのスペースを確保する。父の荷物から島のパンフレットを引っ張り出すと、観光客が自由に使える登山道を調べた。

 まずは藍墨の葉探しだ。

 

 島は東部と西部にそれぞれ山を有している。どちらも標高が100mを満たず、子どもでも簡単に昇り降りできる手軽さで山登りは海水浴に次ぐ島の人気のレジャーである。この日はとてもよく晴れていて、山道は登山客で溢れていた。


 目的の植物を採り違えないように、携帯電話で『アイズミ』と画像検索をかける。昨晩、喫茶店の額縁の中で見た植物と同じものが表示された。


 手の中の画像を眺めつつ、他の登山客に紛れながら山を登る。

 中学生の女子一人で山を登っているのは初子だけだ。自分の姿は周りの人にどう見えているんだろう?

 気にしてもしょうがないのに少し恥ずかしくなり、それを振り切るように言い聞かせる。絶対に諦めない。

 意気込んだ時、余所見よそみをしていたのか登山客の男性にぶつかってしまった。中年の細く開いた瞳に睨まれて、よろけながらもすぐさま頭を下げる。


「ご、ごめんなさい!」

 

 逃げるようにその場を去る。やっぱり人混みが苦手だ。早く終わらせてしまおうと、懸命に山道を探した。

 ようやく道沿いの藪の中に目的の植物を見つけた。初子は人目の少ないタイミングを見計らい慎重に藪の中に足を踏み入れる。藍墨の青い小花は写真で見るよりも色鮮やかで可愛らしい。条件とは別に少し持ち帰って押し花にしようかな、なんてふと思った。

 細い茎の植物は手で簡単にむしりとることができた。必死に両手いっぱいに採取する。


「初子ちゃーん!」


 戻ろうと思った矢先、大きな声で名前を呼ばれてびくりとした。振り返ると山道の方からシリウスが手を振っている。


「シリウスさん、なんでここに!?」

「昨晩初子ちゃんに大切なことを伝え忘れちゃってさ、だから急いで来たんだ」


 シリウスは昨日の喫茶店ではエプロン姿だったが、今日は白いTシャツ姿にベージュの短パンと麦わら帽子。黒いリュックを背負っている。夏休みの田舎の小学生みたいな格好だ。

 イケメンなのに残念過ぎる。初子が憂いていると、シリウスが衝撃の一言を放つ。


「実は今、初子ちゃんが手に持ってる葉っぱは食べると猛毒なんだ」

「ええ!?」


 全身にぶわりと汗が出る。思わず手に持った植物を落としてしまいそうになって踏ん張った。


「大丈夫。口に入れさえしなければ害はないから。でも万が一ってこともあるだろ、あれから心配になっちゃってさ。僕らにとっては常識みたいな知識でも、人によっては非常識ってこともあるし。それに人間って入れ替わりが激しいから、その分彼らの知識が入れ替わるのも早いんだよね。ああ、それにしても人間の命って驚くほど短いよね、どうりで僕らも仕事が尽きないってわけだ!」


 様々な人が行きかう山道ででかい声を張り上げて訳の分からない事を喋る青年と、びくびくしながらむしった草を両手に薮の中を歩く女子中学生。そんな異様な光景を道行く登山客たちは一瞥しながら通り過ぎて行く。ここまで目立たないように努力してきたのに水の泡だ。初子は不満の一つも言いたかったが、今はそれどころじゃない。

 なんとか整地されている山道まで来て、藍墨の葉を地面に置いた。この後、絶対に手を洗おうと心に誓う。


「はい、お疲れ様。ビニール袋あるけど使うかい?」

「ありがとうございます」


 シリウスの申し出に甘えて、ビニール袋を一枚貰うと藍墨の葉を詰めた。


「一つめの課題、これでクリアだね。順調じゃないか」


 突然やってきてなんなんだ。文句の一つも言いたかったが、シリウスに優しく微笑まれると初子は何も言えなかった。

 

 山頂の公園で水道を見つけて入念に手を洗った。ネットに入った石鹸はカラカラに干からびていて、どう見ても清潔そうではないが、ないよりはマシだった。


「やっぱりここはいい眺めだね。晴れてるから小桜様のお社までしっかり見渡せるよ」


 シリウスは「たまには外の空気を吸わないとダメだねー」と言いながら、青空の下で両手を広げていた。


「いつもずっとあの喫茶店にいるんですか?」


 ここに来る道すがらシリウスは久々の外出だと初子に話していた。


「うん、こうして外の世界に出ることは出来るんだけどね。本当に必要なときだけにしてるんだ。僕の存在は異物だから」

「異物……」


 ってどういう意味ですか?


 聞こうとして初子はやめた。こうして明るい場所で改めて見ると、シリウスの年齢は二十代後半くらいに見えた。しかし、三十代と言われてもおかしくはないし、逆に二十代前半と言われてもまあ納得できる。そう言った素朴な疑問さえも追求する気になれなかった。

 シリウスが異物だろうが自分の目的以外どうでもいいのだから。


「あ、あの人絵を描いてる」


 シリウスの目線の先にはイーゼルを立てて絵を描いている老人の姿があった。山頂からの風景を描いているようだ。


「そういえば君の友達の美羽ちゃんは、絵がうまいんだよね」

「はい、絵がうまくて面白い子なんです」

「仲良くなったきっかけでもあるのかい?」


 聞かれて初子はどうだったか思い出す。それは小学校高学年まで遡る。

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