Sid.73 お嬢は熱くときめく

 上手く行かない夫婦に夫側の劣等感がある。妻の稼ぎが良過ぎて夫の稼ぎが少ないとか、役職なんかで差が付いてる場合だ。まあプライドって奴だろう。それで肩身の狭い思いをしていて、いつしか妻が疎ましくなる。

 子どもができても、そんな夫婦を見て育つ子どもは、母親を尊敬しこそすれ、父親なんてのは空気の如しだ。妻もまた夫の不甲斐なさを、子どもに吹き込むからな。

 家事も子育てもしない、できない昼行燈だとか、ぼろくそに貶されるわけだ。

 結果、家庭に居場所の無くなった夫が、家庭内別居の末に離婚を切り出す。


 俺にもプライドがあるんだな。ちっぽけで取るに足らない程度の。

 気にしなければ逆玉で楽できるかもしれんのに。稼ぎが少々悪くても鴻池家の財産に縋れば、幾らでも贅沢できそうだしなあ。

 開き直れば確かにいいかもしれない。あくせく働いて雀の涙程度の給与で、汲々とした生活をする必要もないし。


 鴻池さんを見ると「あたしにしなよ」と言ってくる。

 容姿は文句なし。これなら二十年後でもいい線行ってるだろう。しかも金があるから美容にも気遣える。エステ通い放題、ジムにも通い放題。肌や体のケアは金が掛かるからな。

 俺の稼ぎを気にしないのであれば、遊び惚けた人生もまた可能なわけか。


 性格に関しては、まだよく分からん。変態ってのは分かったが。

 それにしても、これだけ一方通行なのに諦めが悪いな。俺から鴻池さんに何かしてあげた記憶はない。こんな状況ならば俺なんて諦めて、他を当たると思うんだが。

 良くも悪くも執念深さはあるのか。

 まあ、俺から何かしてやれるか、と言えば、そもそも何も無いけどな。

 凡そなんでも手に入れてる存在だ。俺如きでは何も与えられない。


「あ、そうか」

「どうしたの?」

「いや、なんでもない」

「気になる」


 俺の隣で頭を背もたれに乗せ、すっかり寝入る陽奈子さんだ。

 そして右側に居る存在はな、そうか、に反応し気になっているような。


「こ」

「名前」

「綾乃は凡そなんでも手に入れてる」

「手に入れてないよ」


 親が手にしたものが全部。与えられているだけで、自ら手にしたものは一切ない、と言い切ってる。


「佑真君も手に入らない」


 自分には今の時点で何も無いんだと。


「だからね、最初に手に入れるのは佑真君」

「変だろ」

「変じゃない」


 親の功を自分の功として誇らない。そこは立派だと思うけどな。そこらの金持ちの愚息なら、親の功をさも自分のことのように誇るだろう。結果、実にさもしい存在になる。これは何ら実績のない愚息の母親も同様だよな。マウント取りたがる愚妻は枚挙に暇がない。実に浅ましい。下衆だ。反吐が出る。

 左隣で寝入っている存在の胸元がな、緩やかに上下動を繰り返す。マジ触りたいとか思う俺って欲望全開だ。


「佑真君。先生と一回だけは許す」

「なんだそれ」

「先生と済んだら、あたしだけを見て」


 本気だと。ここまで胸を熱くときめかせたのは、俺が初めてだからと。


「今まで男子なんて、本当にどうでもいい存在だった」


 金持ちと知るや否や無駄に群がり、容姿が優れいてると言うだけで、鼻の下を伸ばして近付いて来る。告白すれば、付き合えると思い込むバカも多かった。断ると悪態吐くバカも居たとか。

 胸が大きくなる頃には視線が胸元に集まり、背筋が凍る程に気持ち悪かったらしい。


「男子に嫌悪感抱いてたこともあるの」


 高校生になると多少、取り繕う知恵を持ったようだが、それでも愚鈍な連中は後を絶たない。

 二年に進級しても状況に変化は無し。

 しかし、俺と接して初めて違いを実感したらしい。

 気のせいだ。


「靡かない。あたしが幾ら誘惑しても」

「そりゃなあ。身分差は埋まらないし」

「無いんだってば、そんなの」


 だからこそ、貴重だと思うそうだ。手に入らないものを欲しがるお嬢様だな。

 欲しいものは簡単に手に入ったんだろう。ゆえに気になるってことか。手に入ったらすぐに気持ちも冷めるな、その程度なら。

 やっぱり鴻池さんは無いな。捨てられるのが分かりきってるじゃないか。

 俺の気持ちが鴻池さんに向いた途端、蛙化現象を起こすだろうよ。


「蛙化」

「何それ。無いよ、そんなの」


 陽奈子さんと繋がれた手。「ん」なんて小さく吐息が漏れると、俺の手を握ったまま胸元にぃいいい?


「あ、何触ってるの?」

「違う。これは」

「分かってる。触りたい年頃だよね」

「違うっての」


 陽奈子さんの胸に置かれた俺の手。た、堪らん。鼻血出そうだ。


「あたしのなら直に触っていいのに。触ってよ」


 アホだ、とことんアホだ。

 少し落ち込んだ表情を見せるが「佑真君は先生を好きなんだよね」と言ってる。


「あたしには靡いてくれない」


 なんでこんなことに、と悔やんでるような。

 身も心も全て捧げる気で居ても、当の本人は別の人に熱を上げる始末だと。挙句、身分差なんてありもしないものを理由にして。

 あるだろ。どうしたって埋めようのない差が。


「ずっと振って来たからかなあ」


 その報いなのかとか言い出してるし。別に無理して嫌な奴と付き合う理由は無い。断って当然の状況なら断るだろ。ましてや下心丸出しの奴相手なら。

 それの報いとかあり得ん。周りにいいと思える男が居なかった、それだけのことだ。


「ってことだろ」

「佑真君。励ましてくれるの?」

「別に」

「キスして」


 だから。

 まあいいか。もう何度もやってるし。それで納得するなら。

 じゃねえっての。少なくとも体の接触は相思相愛であるべきだ。


「俺に気持ちないけど」

「知ってる」

「じゃあ、普通キスしないよな」

「したいから」


 潤んだ瞳を見せる鴻池さんが居て、まあこうして見れば愛らしい存在だ。ただ、あの家族を思い浮かべると、瞬時に気持ちが萎える程度だけどな。

 やっぱりあの家族が駄目だ。父親も母親も姉も、揃いも揃って最悪な連中だし。

 居なけりゃ、もしくは同じ程度の庶民であれば、鴻池さんと付き合ったと思う。


「あの家族」

「気にしてるの?」

「するに決まってる」

「気にしてたよ」


 何を?


「佑真君が露骨に避けてる」

「そりゃなあ」

「もっと親しくしたいって」

「無いだろ」


 嫌ってもいないし、蔑んでもいないのに、どうにも嫌われてる感じがすると。

 分かってんなら話は早い。


「嫌いだから」

「どうして? 佑真君に何かしたの?」

「目付きとか態度」


 鴻池さんには、どうしてそこまで嫌うのか理解できないそうだ。

 ちゃんと持て成して、気も遣ってるのにと。

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