第3話 溺れる魚(中編)
時刻は夜十時をまわった。叔母は今夜も仕事で家に帰れない。アルトとイオナは夢月が消えた交差点の前にいた。昼間と違い車通りは少なく、歩行者は殆ど無い。怪異を狩るのにはいい時間帯だ。
「ここなのね。例の横断歩道って」
「うん。イオナは何か感じる?」
「全然」
「それがいい。悪異は牙を研ぎ認識する獲物を待っている」
――うぅうぅ。
アルトの耳に女の子が泣いている声が聞こえた。それは横断歩道の中心から響いている。
「よしっ」
歩きだそうとするアルトの手に、イオナの手が重なった。
「イオナ?」
「止めても聞かないわよね」
「うん。心の底から安心してイオナと日常を過ごしたい。それが僕の夢だから」
「わたくしの夢はアルトと静かに暮らしたい。只それだけよ。だからお願い生きて帰ってきて」
踵をあげたイオナの顔がアルトと重なる。艶めかしい音が鳴り唇が離れた。
「帰ったら続きをしよう。姉さん、行ってくる」
決意が鈍らないうちに、イオナから背を向けて横断歩道へ歩きだす。
イータ種は例外もあるが、獲物をその場で食べない。食事を邪魔されるのを嫌うからだ。まずは怪異の領域である裏世界へ引きずりこむ。消えた夢月もそこにいる。怪異は夜を好む。活動時間は今からが本番だ。運がよければまだ生きている筈だ。
悪異を狩る事が最優先。夢月の生死はその次だ。敢えてそう思わなければ、若干十六才の少年には荷が重く、心は壊れてしまう。皮肉だが悪異への復讐心で狂わずに、正気を保っているのだから。
「うっうぅ」
おさげ髪した少女は泣いていた。小学三、四年生に見える。綺麗な服を着て、体に目立った外傷は無かった。幽霊には到底見えない。それで油断させて獲物を引きずり込むのか。
幸いにもアルトが認識した事に気づいて無い。これはチャンスだ。呪いを発動し、断罪の刃で一気に斬り裂くか。
――夢月を助けて。センパイ。
発動を躊躇する。ここで狩れば確実に悪異を殺せる。だが食料として裏世界へ連れていかれた夢月を見殺しにしてしまう。アルトには裏世界へ行く術がない。
「貴様認識してるな」
しわがれ声で少女は不気味に笑った。一瞬の気の迷いが、アルトを地獄へ叩き落とす。
「能力発動。――溺れる魚」
少女の術により、周辺に螺旋を描きながらピラニアの群れが具現化しアルトを呑み込んだ。
裏世界へ行くのは初めてでは無い。ここは表世界の裏面。街並みはそのままだが、人間や生き物は存在しない怪異達のテリトリー。
ここでは逆にアルトは招かれざる客に過ぎない。アルトの前で少女はまだ泣いていた。何故だ。獲物を巣に持ち帰えって来たのだ。泣く必要が何処にある。
「に、げ、て」
苦しそうに呻く少女の声は、アルトの背後を指差した。ゾクリ。首筋に冷たい汗が流れた。視界の片隅から見えるは、無数の弾丸。
これは悪異が放ったのか。咄嗟に体を捻り、蛇腹で全て受け止める。
正面にいる少女とは真逆からの攻撃だと。
「!?」
刃に食い込むは、牙を剥き出しにしたピラニア。弾丸の正体はこれだったのか。だが何故だ。何故少女は攻撃を教えた。それでは避けてくれと言っている様なもの。
「ちぃぃ。凛、余計なことを」
しわがれた男の声で苦々しく吐き捨て、「も、もう嫌だ。誰かが死ぬのは」と、凛と呼ばれた少女が泣きながら反論する。
「黙れ! 凛。貴様は俺の為に餌をおびき寄せるのだ」
なる程。幽霊少女凛に悪異がとり憑いているのか。
「人間、貴様呪い使いか。珍しい。そう簡単に俺を殺れると思うなよ」
凛を操り、右手が天高く突き上がる。夜空に浮かぶは二つの月。
裏世界から見える本物の月と、もう一つはピラニアの群雄体が集まって出来た隕石であった。
「死ねぇぇいぃ!」
振り下ろされる右手と同時に隕石が落ちてくる。命中すれば、間違いなくただでは済まない。
「くすっ。当たればね」
実に大味な技だ。確かに攻撃力は強いが、隙だらけ。使う順番を間違えている。あれは身動きを取れない相手に、トドメを刺す必殺技以外使い道は無い。
蛇を一番近い建造物に絡めアルトは跳ぶ。こうすれば簡単に避けられるのに。
屋上に降り立つ。見下ろすと目標を失った隕石は、ピラニアの群れに戻り幽体の周辺を泳ぎだす。こちらを見上げる凛と目が合う。その涙で濡れる瞳は、何かを訴えかけていた。
「……まさか」
アルトは一つの仮説に行き着く。試して見るか。
ピラニアの群れがアルトに追いつき取り囲むが、蛇腹の一振りで全てを叩き斬る。
さて悪異よ。どう動く。この手の怪異力は自立してターゲットを追跡するタイプだ。距離関係なく追跡出来るが、自動故に単調。本体から見えない場所では融通が効かず、地上からは屋上にいるアルトの正解な位置はわからない。
これで溺れる魚は使えない。再び発動しても、見えない位置に移動すればいいのだから。
「俺の息子達をよくも斬ったな。怪異狩り」
「息子を殺されても、君はそこで怒るだけかい?」
屋上から飛び降りて近づくアルトに毒を吐くが、只それだけ。この距離なら充分肉弾戦も出来るのに、悪異は動こうとしない。バトルタイプでは無くても、人間など怪異からすれば惰弱。戦い方などいくらでもあるのに。
凛の顔をした悪異は睨みつけるだけなのだ。
「君、動けないよね。凛ちゃんの力で」
「ぐうぅぅぅ!」
「いいリアクションをどうも」
仮定は正しかった。悪異は動きたくても動けないのだ。
横断歩道で凛は交通事故で亡くなった。その魂に導かれ悪異はやってきて思ったのだ。泣いてる幽霊に話しかける心優しい人間の魂は、どんなに美味しいのかと。
「凛ちゃんは地縛霊となり、君を縛っていたんだ。怪異狩りが退治してくれるのを待っていたんだよね」
「……うん」
ポロポロポロ。凛は大粒の涙を流し肯定する。
「今楽にしてあげるから」
蛇腹が凛の首に絡みつく。
「いいのか。凛も消えるのだぞ」
「覚悟は僕にも出来ている」
「いい心がけだぁぁ」
足元のアスファルトにヒビが入り人一人分の穴が開く。そこにいたのは、さらわれた夢月の姿であった。
――ぷつりっ。
アルトの中で何かが切れた。それは冷酷に虚勢を張る仮面の紐であった。
臆病で弱虫。甘えん坊の泣き虫。それがアルトの本質。故に他人の痛みに敏感で苦しみを知る。
「うわぁぁぁぁ」
悪異は縛られて動けない。餌を欲しがる他の怪異に襲われる可能性もある。その為何かしらの対策をしているとアルトは考えていた。だが膝を丸めて横たわる夢月の姿に背筋は震え恐怖する。
生きているのか死んでいるのか。そんな事どうでもいい。只、怖い。もしこれが自分だったら、もしこれが姉であったら。
嫌だ。逃げたい。こんな所に一秒だっていたくない。
「俺の勝ちだな。怪異狩り」
絶望という落とし穴に狩人はかかり、獲物となって堕ちていく。
どんなに虚勢を張ろうが力無き者は喰われるのみ。命を灯すロウソクが力でへし折られる恐怖の表情を浮かべるアルトを見て、悪異は口角をつり上げ笑う。
「――溺れる魚」
足元のアスファルトはピラニアへと変わり、弱者の首筋へ噛みつく。
――キィィンッ。
耳鳴りがする。脳から分泌するドーパミンの影響で、ゆっくりと時間が流れていく。
無数の獲物を屠った鋭い牙がアルトのコリコリした頸動脈へ突き刺さる瞬間、真っ二つにピラニアは斬り裂かれるのを見た。
三日月の衝撃派が間一髪アルトを守ったのだ。
「……まさか」
アルトは知っている。この技を操る者を。絶体絶命の時、必ず現れる黒衣を纏う怪異を。
「何物だ!」
獲物を殺せなかった悪異は、ぎょりぎょりと視線を動かした。
「カッカッカッ。この街は儂が仕切っておる。お遊びが過ぎたのう。よそ者よ」
「……鴉」
アルトは鉄塔の上で高笑いする怪異の名前を呟いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。