第2話 溺れる魚(前編)

 ――ねーねーあの噂知ってる? 夢月、巴。

 ――噂ってなにかな。旭ちゃん。

 ――あ、あれだよ夢月。横断歩道で泣く幽霊の女の子。でしょ旭。


 アルトとイオナが去年まで通っていた神嶋学園中等部の少女達の間では、そんな噂が怪談話が流行っていた。


 丑三つ時、横断歩道の真ん中で泣くお下げ髪の少女。迷子か虐待かで心配し話しかけてくる心優しい人達を黄泉の世界に連れて行くと云う。


 くだらない。思春期特有の与太話だ。芸能人の誰々が離婚したやら、若くして亡くなった名前も聞いた事ないタレントが実は生きているやら、大人になった時思い出して顔を枕へ埋めて足でバタバタする一種の通過儀礼。特に珍しい事でも無い。

 高等部にいるアルトの耳にも、その手の話しは嫌でも入ってくる。「怪異の仕業だ」と、いちいち反応できない。

 怪談話の九割は創作で残り一割りが本当だとしても、悪異で無ければ動かない。人に無害な怪異や、人に化けて共存する怪異もここ神嶋市には沢山いるのを知っているからだ。

 アルトには優先順位がある。両親を殺した鷹の悪異、羅我とそして十年前の惨劇、何故アルトとイオナが生きているのか。記憶は虫食いで覚えてない。その全てを思い出さなければならない。羅我を見つける手がかりが、きっと欠損した記憶の中にあるからだ。


「きゃあぁぁ黒鋼くんよ」

「黒鋼くぅん」

「アルトせんぱぁぁい」

 昼休み。中等部と共有して使っている中庭の日当たりのいいテラス席を陣取った学園の上位グループが、語尾に沢山のハートマークをつけ手を振ってくる。

 ここを通り抜けないと、イオナが待っている空き教室へ行けない。

 ウザいと表情に出さずに、アルトは笑顔で手を振り返した。コミュニケーションは大事だからだ。

 両親を失い親戚中をたらい回しにされたアルトはそれがいかに大切か、身を持って知っている。海外から帰ってきた叔母に引き取られるまでの間沢山の人の悪意を見てきた。仮面を被り演じるのも、この時に覚えたものだ。

「あの黒鋼先輩」

 黄色い歓声のシャワーを浴びるアルトの元に、中等部の制服を着た明るめの髪色したボブカットの少女が近づいてくる。

 いつもの日常。見慣れた光景。ギャラリー達も温かい目で見守っていた。交際を申し込んでもアルトが断るのを、皆理解してるのだ。

 ――ありがとう。でもごめん。僕、シスコンなんだよね。

 そのアルトの一言で歴戦の勇者達は全員玉砕していった。

「あたし、中等部三年。朝比奈旭です。そのセンパイは不思議な力を持っているって噂を聞いて……」

 呪い使いである事を特に隠したりもしてない。感受性の高い少年少女達のコミュニティは情報収集するのに役に立つ。

「あたし見たの。友達が横断歩道の真ん中で、消えて行くのを。お願い夢月を助けて」

 例の怪談話を餌にして、アルトとお近づきになろうとしてるわけでは無い様だ。友人夢月の無事を祈る旭の表情は、真剣そのものである。

 それにこの旭から僅かだが、錆びと生臭さが交ざりあった怪異特有の残滓を感じた。くだらないと興味が無かった怪談も、実害のある怪異譚となるならば話しは別だ。

「話しを聞こうか。旭さん」


 *

 きっかけは、ほんの些細な事だった。怪談話で聞いた横断歩道は、自分達が住む神嶋市のとある交差点だと知った旭は怖がる夢月に頼み込み、一緒にそこへ向かったのだ。

 流石に真夜中丑三つ時というわけにはいかない。中学生の未成年がフラフラしていい時間帯では無い。夕方帰宅ラッシュの時間帯に二人は横断歩道の前にいた。

 交差点の歩行者用信号は赤。それなりに人がいて青に変わるのを今か今かと待っている。ここに来て夢月は急に無口となった。旭ほど話好きではないが、いつもなら美味しい店の話で盛り上がるのに。話題を出しても反応が薄い。無理やり連れてきたので不機嫌になってしまったか。何か話題を見つけなければ。旭が携帯に手を伸ばすと、夢月の重い口が開いた。


「旭ちゃん。私ね、見えるんだ霊が」

「えぇっ凄い! スゴくないそれ」

 夢月とは長い付き合いだ。彼女が嘘をつかないのを知る旭は、素直に羨ましいと声をあげた。

「やめて全然凄くないよ!」

 人と争うのが嫌いで、おっとりとしている夢月の荒げた声を初めて聞いた。余程嫌だったのが、伝わってくる。

「ご、ごめんね大声出しちゃって」

 夢月自身も驚きハッとした表情になると、慌てて旭に頭を下げた。

「ううん。あたしこそごめん。話しの続きをして」

 頷く夢月は横断歩道の中央に視線を動かす。

「感じるよ。あそこにいる」

 旭には全く感じないし、見る事も出来ない。二人が会話してる最中に信号は変わり、歩行者達は一斉に歩き出す。

「行こう旭ちゃん」

 意外であった。てっきり怯えて行くのやめると思ったのに。

「どうするの?」

「あの女の子泣いてる。横断歩道の真ん中で。一生懸命みんなに何か話しかけてるよ。ほっとけない」

「えっ。それって怪談話と同じじゃん」

 ヤバいよ。その子と会話したら、黄泉の世界へさらわれちゃう。

 そんな事を考えてる旭をおいて、夢月は一人中央まで歩いていく。

「待って。夢月」

 伸ばした手は空を掴む。まるで最初からそこには誰もいなかった様に、夢月の姿は消えていた。


 *

「な、なんてね。こんな話し信じてもらえないよね。お母さんも先生も大人達は夢月が家出したと思ってて、アタシの言う事全然聞いてくれないし」

 同じだ。両親を怪異に殺されたと伝えても、大人達は信じてくれなかったアルト姉弟と。今の旭はその時のアルトと同じで絶望のどん底にいる。誰に助けを求めていいのか、わからない状態なのだ。

「信じるよ」

 そう言ってアルトは、救いを求め虚空を彷徨う行き場のない手を掴んだ。


 旭に教えられた横断歩道へ直ぐにでも行きたいが、アルトには優先順位がある。それは夢月他人の命よりも重い。主人公としてモラルを問われるならば、そんなものクソ以下だ。悪役でも僕は構わないとアルトは思っている。

「イオナ、待たせたね」

 空き教室に入ると、室内は薄暗い。照明は消されカーテンも閉められていた。

 暗闇の中、真紅に輝く双眸がアルトを見つめている。猫でも迷い込んだのか。違う。積み重ねられた机の前に置かれた椅子があり、そこに瞳の主であるイオナが座っていたのだ。

「アルト、わたくしもう……」

「うん。わかってる」

 施錠を確認し、アルトは呪いを発動する。具現化した蛇がトグロを巻き、頭部はアルトの人差し指に傷をつけた。

「学校だからこれで我慢して」

 くちゅ。指先から滴り落ちる血を、イオナは舌で受け止めた。まるで母の乳を啜る赤子だ。一滴も漏らしてなるものかと喉を鳴らし、アルトの指を口に含んだ。

「美味しいわぁぁ」

 うっとりとした表情で幸せいっぱいに頬張るイオナにアルトの心も和む。

 これがイオナの受けた呪いだ。アルトは怪異力。イオナは怪異の体質を手に入れたのだ。先日の悪異や羅我はイータ種と呼ばれ、人の魂、体液、肉を好んで食す。それを知った幼き日から、アルトは定期的に血や体液を与え続けている。

「もっとアルトもっとよもっと熱いの頂戴ぃぃ!」

 指先に食い込む牙へと変化した犬歯。真紅に輝きを増す瞳に映るは、痛みが快楽に上書きされ恍惚な表情を浮かべるアルト。

「うぅぅ、姉さん僕はもうっっ」

 またがってくるイオナを強く抱きしめ、アルトの理性は吹き飛んだ。


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