第29話 「ヴェルヘルミーナ、さぁ、君の記憶の扉を開くんだ」

「何を言うの!? 私は、アルバートと結婚の署名をしたわ!」

「それは認めます。ですが、その父は家に寄り付かず、リリアードの魔術師団で日々を過ごすようになりました」

「それは、あの人の仕事が忙しくてのこと!」

「えぇ。ですが、月に数度はお戻りになった。その間、貴女と夜を共にされたことはありません」

「そ、それは、アルバートが疲れているだろうと思ってのこと!」


 そう、レドモンド本邸にいらした時のお父様は、とても疲れていた。お母様がお元気だった頃は、魔術師団との行き来を苦にすることなんてなかったのに、彼女が屋敷で女主のように振舞うようになってから、お戻りになる回数は見る間に減ったのよ。

 まるで、お屋敷に戻るを嫌がっているようだったわ。

 私を冷たく見るようになったのも、その疲れのせいだとずっと思っていた。

 だけど、違ったのよ。

 

「貴族というのは血を重んじます。女は子を成さなければ認められません」

「レドモンド家には、すでにセドリックがいるでしょ! あなた達は小さかった。だから、私は教育を──」

「多くの子がいれば多くの貴族と繋がりを作れます。それに、私の養育がされた事実はありません。……ダリア、鏡をこちらに」

「はい、お嬢様」


 控えていたダリアは、失礼しますと言って立ち上がると、数名の使用人を従えて屋敷に入っていった。

 しばらくして、戻ってきた彼女たちは、持ち出した大きな姿見を私の横に立て掛けた。


「あなたが、教育と称して私にした仕打ちをここで話せますか?」

「な、何を言うの……私は、ちゃんと、淑女の教育を!」

「私はその扇子が嫌いでした。私の頭を、頬を、身体を叩くその扇子が!」


 思い出すだけで体が痛む。心が苦しくなる。

 頬が涙を伝った時、ヴィンセント様が優しくそれを拭って下さり、静かに額に口付けてくださった。

 そう、もう泣くことなどないのだ。今日をもって、全ての真実を明るみに晒すのよ。


 額が熱くなる。

 私になら出来る。全てを、私の受けてきた痛みを、ここに──


「ヴェルヘルミーナ、さぁ、君の記憶の扉を開くんだ」

 

 ヴィンセント様の、耳に心地よいバリトンボイスが響くと、鏡にぼんやりと何かが浮かび上がった。それは次第に鮮明になっていく。

 鮮明に映し出されたのは、幼い私だった。叩きつけられ、汚れた水を浴びせられ、狭い屋根裏部屋に押し込められる。その姿は、貴族の子女には見えないみすぼらしさで、ぼろのような服を着せられている。

 幼い私は、罵詈雑言に耐えながら震えていた。


 あぁ、やっと出来た。

 これが私のたった一つの能力。記憶を映し出す力。もう、私は無能なんかじゃない。

 

 フォスター公爵夫人が眉をひそめて顔を逸らし、その肩を公爵様がしっかりと抱きしめられた。ペンロド公爵夫妻は黙って鏡を見つめ、そろって顔面を青くされている。


「こ、こんなの……まやかしよ! こんな嘘……誰、誰かが魔法で作り出しているに違いないわ!」

「これは全て、私の記憶です」

「嘘よ……こんな、こんなの……だって私は、夫に……子ども達を託されたのよ。その証文だってあるわ!」


 髪が乱れるのも気にせず、頭をふって主張するケリーアデルの必死さに、私の心は冷めていった。

 こんなに必死に、自分の非を認めず、今でもレドモンド家の財産を自分のものにしようとしている。なんて醜いのだろう。貴族としてあるまじき姿だわ。

 この人に、一時でも認めてもらいたいと思っていたなんて……私は、なんて滑稽こっけいなのかしら。


「それは、これのことですか?」


 私の横で、ヴィンセント様が尋ねると、控えていた使用人が何か赤い布に包まれたものを差し出した。

 ゆっくりと布が払われ、出てきたのは封蝋のされた手紙だ。

 開かれた手紙には、一言「子ども達が成人するまでのことは、ケリーアデルに任せる」と書かれている。


「そうよ。そこに書かれているでしょ! 私はあの人に任されたのよ!」


 形勢逆転だと言わんばかりに、ケリーアデルが高笑いを響かせた。

 どうして、誰も疑わずにいたのかしら。どうして、あんなものに私たちは縛られてきたのかしら。

 だって……お父様の字とは似ても似つかない文字だわ。そして、押された封蝋だって、お父様の印章じゃない。


「これは認められない。ケリーアデル、お前は大きな過ちを犯した」


 この滑稽な証拠を突きつけたヴィンセント様は、静かに尋ねた。その目は冷ややかで、罪人に向けられるものだった。

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