第9話 滞在①
『お願い事って何でも通るんだよ』
『ルキ、気づいてた?』
ハナの言葉が頭の中で幾度も繰り返し再生される。
ただ一言"お願い”をすれば、相手はそれを必ず叶えてくれる。それがこの世界の「ルール」なのだ。誰もが不快な思いをせずに、ただ明るく朗らかに生きていられる"だけ”。理想の平穏の中で時を止められている。
いつだって真実を見せてくれるウィラの手によって、それはまざまざと僕の眼前に示されていた。
「この花を譲ってもらえないか」と尋ねれば、
「ええ。ちょうどたくさん咲いたところなの。お裾分け」と花屋のおかみさんがそれを花束にする。
「この荷物を『木陰亭』まで届けてくれ」と頼めば、
「良いよ。仕事終わりで暇だったんだ」と見知らぬ青年が笑顔で受ける。
「この近くに馬を持っている家は?」と聞けば、
「いっぱいあるよ。あっちの通りに耕作馬を持ってる家が並んでる」と理由も聞かずに答えが返ってきて
「なるべく仔馬が良いんだが」と付け足せば、
「それなら角曲がって三軒目だ」「いや、その向かいの方がたくさんいる」「生まれたばかりなら……」と道ゆく人が、店先の老人が、駆け回る子供が口々に教える。
「ねえ、ウィラ」
「どうした?」
「みんな親切だね」
「ああ」
「僕の村の人も、ここの村の人も、良い人ばっかりだ」
「素晴らしい世界じゃないか。嫌なことは何もない理想郷だ」
僕は頷き、そして考える。
自分の望みが全て叶う理想の世界に何の意味を見出せば良いのだろうか。
期待を裏切られ傷つくことはない。
無理に言うことを聞かせる必要もない。
親切な人たちが全てを快く受け入れ、時には望まずとも与えられることすらある。
試行錯誤も説得も何もいらない。ただ生きているだけですべてが満ち足りている。快適な生活が約束される理想郷。
「そんなのはつまらないだろう?」
ウィラは笑う。
「思考も意見も自由にできない。拒否したいと思っても……いや、そう思うことすらない。ただ平和に平穏に変わりない日々を繰り返すだけ。何が楽しいんだ?」
何をしても何も変わらない。人々の理想はもう叶えられているのだから、これ以上はないのだ。事件も事故も不測の事態も、何も起こらない。
これは誰かが作った理想。
確かに大多数はこれを望んだのだろう。平和で平穏で満ち足りた完璧な世界は、人類の誰にとっても理想であるはずだ。でも、世界の半分が取り去られた世界を果たして人類は望んでいたのだろうか?
「勇者」は至上の世を打ち立てた。
世界の半分を覆う闇を取り払い、理想の世界を作り上げた。
それは確かに偉業なのだろう。まさしく神の御技。
しかし、理想郷から不要だと放り捨てられたものはあまりにも多い。
ウィラは——世界から排除された夜の精霊は、それら「不要なもの」を匿い続けてきたのだ。いつか元の場所に返せる日が来るまで。——今この時まで。
ウィラは仔馬を二頭借りた。僕とハナを乗せて走れる、体は小さいが立派な馬だ。そこの家の子供が乗るための鎧や鞍も快く差し出してくれた。
また返しに来ると言えば、所有者は笑顔で承諾した。
ああ、そうだ。皆笑顔なのだ。怒りも悲しみも、心の表面を浅く掠めるだけですぐに消えていく。真剣に怒ったり悲しんだりしている人を、僕は今までに見たことがなかった。
「……嘘、だ」
呟く声は震えていた。恐怖に吸った息が詰まる。
今まで気がつかなかった違和感に気づく度に、恐ろしさで潰れそうになる心地がした。アイデンティティという己の根幹が揺らぎ、真っ直ぐに立っていられなくなる。
時間も感情も奪われた人間に、一体何が残っていると言うのだろうか。
「ルキ、大丈夫か?」
ウィラの問いにすがるような目を向ける。
微かに首を振ると、彼女は肩を抱き寄せてくれた。
「勇者も酷いことをするよな」
「……うん」
「でもあいつは悪い奴じゃない。話せば分かってくれるだろう」
ウィラは昔、その勇者と会ったことがあるはずだ。
世界から怖いもの、悪いものを消そうとした人なのだから、確かに悪い人であることはないのだろう。むしろきっと誰よりも優しい人なのに違いない。
日差しが強くなってきた。もう次の太陽に変わってしまったようだ。
借りたばかりの仔馬を二頭つれて、僕らは宿の『木陰亭』に向かう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます