第20話 旅立ち①
森から一歩出ると、そこには見たことのない光景が広がっていた。
"夜の村"だ。
赤い屋根も白い壁も、茶色の木柵も色とりどりの花たちも、全てが濃紺色の影となって夜の底に沈んでいた。それは隅々まで見知った村であるはずなのに、全く別の場所であるような心地だった。
空にはかつて夜の帳の中で見た"星"が輝いている。それらを照らしているのは、空にぽかりと浮かんだ金色の真円。夜空に輝く"月"は、夜闇の中の唯一の明かりとして煌々と村を照らしていた。
ウィラの瞳は月の色をしているのだと、僕はこの瞬間に初めて理解した。夜の精霊であるから当然、体の全てが夜の色をしていたのだ。
村の人たちはまだ倒れたままなのか。であれば、ウィラが起こしてくれるのだろうか。そう思いながら足を進めた僕は、角を曲がったところでぎょっと立ち止まる。
「え……? 犬、が、どうしてこんなにたくさん……」
村道や原っぱや家の周りには、大量の犬が体を横たえて眠っていたのだ。
中には大きな個体も小さな個体も、体毛が濃い色の犬も、薄い色の犬もいたが、全て同じ犬種であるように見えた。大きな三角形の耳と力強そうな四肢、鋭い爪に、尖った牙。……いや、犬じゃない。これは——
「狼だ。俺が教えてやっただろう」
ウィラの言う通り、村中に横たわっているのは全て狼だった。
恐る恐るその一匹に近づき、背を撫でる。ごわごわと硬い毛は、間違いなく狼の体毛だった。狼たちはゆっくりと呼吸をしていた。みんな眠っているのだと分かった。
生まれたばかりの子犬から、毛が抜け始めた老犬までいるのに、どこを見ても人間の姿はない。いつの間にか、村中が眠る狼に乗っ取られてしまったようだった。
「……何で。村の、みんなは?」
「狼が食ってしまったのかもしれないな」
「え!?」
「そんなはずないだろう。これだけの大群でも、あの数の人間を痕も残さず食い尽くすことはできないさ」
そういうことじゃない、と言いたいのを飲み込んで、平然とした様子のウィラに詰め寄る。
「何か知ってるなら教えてよ! みんなはどこに行ったの!?」
「ここにいるだろう」
ウィラは何でもないかのようにそう告げた。倒れた狼たちの間を縫って歩けば、夜闇のレースがさらさらと滑る。
丸い月が照らす中、彼女は両手を広げて振り返った。
「ルキ。彼らはここで眠っている。夜になって、姿が変わっただけだ」
「どういう……」
「ここは人狼の村だ。村人はみな、昼は人だが、夜は狼の姿へ変じる」
森の奥から狼の遠吠えが聞こえた。
眠っている"村人たち"の耳がぴくりと動き、寝言のような唸り声が零れる。
「彼らの奪われていた半身が、夜と共に戻ってきた。しばらくは眠ったままだろうがな。何しろ二百年もの間、眠らされ続けていたんだから。いずれ起きて、全てを思い出すだろう」
「……みんな、人間じゃなかったってこと?」
「半分な。珍しいことじゃない」
「これが、本当の姿……?」
「そうだ。昼の精霊の力によって、姿形も、性質すらもねじ曲げられていたんだ。なんと哀れな」
憂いを帯びた彼女の表情が月光に照らされている。闇に切り抜かれたその輪郭は恐ろしいほどに怜悧だった。彼女と目が合う。
「可哀想だと思うだろう、ルキ?」
「……うん」
「夜を取り戻せば、このように理不尽に奪われたものを本来の持ち主へ返してあげることができる。居場所や、姿や、感情、時間、隣人や友人、家族……」
家族、という言葉でハッとした。父さんと母さんも狼になっているのだろうか。
親子で身を寄せ合っている狼たちを見て、そして違和感に気が付く。
「僕は……?」
「ん?」
「僕も狼になる、の?」
両手を広げてくるくると確認してみても、毛深くなったり爪が伸びたりということはない。顔を触ってみたところで、いつも通りの丸顔にメガネだ。
ウィラはそんな僕を見ながら、眉尻を下げて首を振る。
「いいや、お前は人狼じゃない」
「じゃあ父さんと母さんは……人間?」
「それも違う」
彼女が夜のスカートを持ち上げる。
フリルのひだをかき分けて、一匹の白狼が姿を現した。最初に出会ったあの子狼だ。ウィラは静かな声で言った。
「君のご両親の子どもは、この子だ」
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