第19話 真実⑤
夜の精霊と手を繋いで、薄暗い森を歩く。
森の木々からは聞いたことのない低い鳥の声がする。「フクロウだ」と彼女は教えてくれた。
「夜と一緒にここから出て行ったんだろう」
彼女がドレスの裾を持ち上げる。真っ黒なその闇の中から、無数の目がこちらを見つめている気がして、僕は体を強張らせた。
「夜にしか生きられない動物もいる。この森も賑やかになるだろうさ」
僕は歩きながら後ろを振り返った。地面に引きずるドレスの裾から、小さな黒い影が時折転がり出ていくのが見えた。それは時には木々の間へと羽ばたき、時には地面を這うように駆けて、影の中に消えていく。そして金色に光る眼でじっと僕たちを見つめていた。
一度それを見てしまえば、前を向いても後ろからの視線が気になって仕方がない。僕はウィラの腕にしがみつくようにして、心なしか早足で道を進む。靴に踏まれた枯葉や小枝が立てる音すら、明るい時の何倍も大きく聞こえた。
「どうした。怯えているのか」
「……怯えてる?」
「言葉は知っているだろう。感覚は隠されていても、言葉までは消せないはずだ。怖い、恐ろしい、気味が悪い……、お前たち子どもは本来、夜の闇に怯える存在だった」
「今のこれが"怖い"ってこと?」
「ああ。胸の奥が冷えて、体が縮こまる。肌が粟立ち、毛が逆立つ。今すぐにここから走って逃げ出したくなる」
どうだ? と、ウィラは僕の顔を覗き込む。僕は無意識に、繋いでいない左手で右の腕をさすった。腕に浮かんでいる粒々がざらりとした触感を手のひらに伝える。鳥肌、という言葉が頭に浮かんだ。
「……うん、怖い。とても怖いよ」
その言葉を聞いて、ウィラが満足そうに笑ったのが分かった。人の怯える姿を見て笑うなんて、本当に趣味が悪い。
「その感情もこの世界から奪われたものだ。怒りや悲しみ、恐れや憎しみ。人が本来持っているべき感情まで全て、俺と共に封じられたのだ。明るく楽しく、輝きと歌に満ちた、光だけの世界を作り出すために」
「…………」
「それが良いことだと思うか?」
僕は黙り込んでしまった。心臓が縮むような寒気に全身を覆われて、ひどく心細い。今まで感じたことのないそれを、取り戻せて良かったと断言するのは難しい。
でも、感情のいくつかを勝手に取り上げることが良いことだとも言えなかった。
「……分からないよ」
「そうだろうな」
ウィラはあっさりとその答えを受け入れた。きっと、僕に結論が出せないことを見越していたのだろう。子どもであるから、未熟であるから。僕は安堵すると共に、少しの悔しさを覚えた。
彼女はふと足を止める。その手に引かれて僕も立ち止まった。
「目を閉じろ、ルキ。怖がらずに、夜の森の歌を聞いてごらん」
僕は少しためらったが、彼女の言う通りにした。
歌が聞こえるとも思えなかったが、素直に目を閉じ、耳をすます。
すると、ただ不気味に静まり返っているだけだと思っていた森が、見事な調和で以て奏でる歌が聞こえてきた。
風にそよぐ木の葉の音と、見えない何かが土を踏む音、低く空気を揺らすフクロウの鳴き声、草の根を走るネズミの鳴き声。
それは紛れもなく森の音楽だった。昼間の森の穏やかさとはまた違う、闇の中で確かに息づく者たちの命が織りなす音。
僕は深く呼吸をする。湿った冷たい空気は、泥と木の匂いがした。
「もう怖くないだろう?」
ウィラの声に目を開ける。彼女と目が合う。それは僕を慈しむような視線だった。
「……うん、平気。まだちょっと緊張するけど」
「はは、すぐに慣れるさ。夜の全てはお前の味方だ」
その言葉に、最後の緊張が肩から抜けていくのを感じた。
昼の森にいた動物がそうであったように、夜の森にいる動物もただ生きているだけなのだ。彼らはようやく生息地を取り戻せて、生き生きしているようにも思えた。
————アオーーン……
遠吠えが聞こえた。応じるように、森のそこここから歓喜の遠吠えが追随する。
きっと最初に出会ったあの白い子どもの狼も、この森を駆け回っているのだろう。
僕はウィラと手を握り直し、村への道を踏み締めて行った。
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