第15話 真実①


 怒りを孕んだ空気がぶわりと広がり、辺り一帯を包み込む。日が陰り、世界が数段暗くなったような気がした。

 泉から彼女のドレスの裾が伸びる。まるで手足のようにしなったその黒い布は僕の体を包み込み、軽々と持ち上げて泉へと引き寄せた。僕の体は彼女に抱えられる。焦がれた視界とその感触に、僕はほっと息を吐く。

 引き剥がされた僕を睨んで、トリスは憎々しげに言った。


 「夜の管理者……いや、"元"だったか。今さら何の権限も持たないお前が、何のつもりだ」

 「さっきも言っただろう。子供を殺すな」

 「そいつはここに生きていてはいけない。……知らんとは言わせないぞ」

 「いつものように連れ去れば良いじゃないか。どうして殺すんだ」

 「……そいつは"逆らった"」


 トリスの指先が僕を示す。僕はそれから逃れようと彼女の首にしがみついた。彼女は「心配するな」と僕の背を優しく叩いた。

 トリスはその様子を見て、ますます怒りをつのらせたようだ。今までの静かな話し方をかなぐり捨て、大声で捲し立てる。


 「何だその態度は! 情でも沸いたのか!? その子供は私の言葉に逆らい、疑問を持ち、あろうことか私に攻撃をした。分かるか、攻撃だぞ! 暴力行為も、嘘も、隠し事も、決してできないはずのそいつが! どう考えても!」


 「……まあ、少なからずそうだろうな」


 あっさりと認めた彼女は肩を竦めた。


 「だが、それがこの子を殺して良い理由にはならないだろう」

 「生かしておくべきではない。そこまでが進んでいる子どもはもう戻らない」

 「……なら黙らせて、監禁でもすれば良い。お前の十八番だろ」

 「そのつもりだった。お前を呼び出すのを邪魔されなければ。しかしそいつはもはや、私を突き飛ばし、罵倒している。何をしたところで、遡及していくんだ。だから……」

 「殺すほかないと?」

 「……ああ」


 トリスはうなずく。しかし先ほどに比べてその勢いは衰えているように見えた。

 その様子に、僕を抱いたままの彼女は表情を緩めた。


 「お前が、わざわざ俺に言われなくても分かっているだろうことを、言ってやろうか」

 「…………」

 「年端も行かぬ子どもを殺したら、大好きな"神様"に嫌われるぞ」

 「……っ!」


 トリスの顔が赤くなる。その色は怒りと、そして紛うことなき羞恥だった。

 僕には何を話しているのかさっぱり分からなかったが、僕の命をめぐる彼らの口論はそれで決着がついたらしい。

 トリスは深紅のフードをばさりと頭にかけ、黙り込んだ。


 「この子のことは俺に任せておけ」

 「…………」

 「親愛なる"神様"によろしく」

 

 その言葉にじろりと鋭い視線が白の前髪の間から向けられる。苦々しさを隠そうともせず、薄い唇が動く。


 「……約束、違えるなよ」

 「はいはい」

 

 気の無い返事に舌打ちをし、トリスの輪郭がぼやけ始めた。瞬きを数度する間に、その姿は完全にこの場から消え去った。


 「別れの挨拶も言えなくなったのか、あいつは」


 呆れたように呟く彼女の顔をじっと見る。彼女の姿は前と何も変わっていなかった。僕はあれほど会いたかったというのに、彼女はあいつの消えた方を見つめたまま面倒そうに頭をかいている。絹の黒髪が擦れてサラサラと囁くような音がした。


 「……あの」

 「ああ、大丈夫か?」

 「はい。……あの、今のは……今のは一体、何なんですか」


 "今の"。一連の全て。出来事も、会話も。何もかもが自分の知らないところで進行していた。耳にも入らず、頭の上を通り抜けて行った。

 彼女は柔らかな手つきで僕を抱え直した。


 「疑問を口に出せるのは良いことだぞ、少年」

 「ルキです。名前。忘れたんですか」

 「ああ、そうだった」

 「……僕は忘れなかったのに」


 恨めしく告げると、彼女の形の良い眉が下がる。


 「冗談だ。覚えているとも、ルキ。そう怖い目で睨むな」

 「……睨んでない」


 僕の抗議に彼女は吹き出す。睨んでいるだろう、と子供をあやすように宥め、そしてどこか遠くへ視線を投げた。


 「お詫びに、お前に全て話してやろう。この世界の真実と、逃れ得ない現実を」

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