第10話 森⑥
「ルキ、朝だよ」
母さんの声で目が覚めた。
体を起こすと、そこは自分の部屋のベッドの上だった。母さんが笑ってカーテンを開ける。眩しい。でも普段よりその光が煩わしくなかった。
「随分よく眠ってたね。昨日のこと覚えてる?」
「……森で、」
「そう。森の近くで眠ってたの。父さんが見つけて連れて帰ってきてくれたのよ」
「…………?」
「運び戻されるなんておつかいの意味がないじゃないかって、父さん呆れてたわ」
目を瞬く。何も覚えがなかった。
覚えているのは、森の中で綺麗な黒色の女の人に出会ったことと、微かな光に包まれた暗闇で、歌声を聞きながら眠ったこと。
「……忘れてないじゃないか」
「何か言った?」
「ううん、何でもない」
小声の呟きをごまかして、僕はベッドから滑り降りる。体が軽かった。いつもよりぐっすりと眠れたようだ。頭も視界もはっきりとしていて、いつもの朝にまとわりついている億劫さは綺麗に消えていた。
朝ごはんもそこそこに、僕は家を出た。もちろん、森に行って昨日の人に会うためだ。まだ名前も聞いていないのだ。質問だって山ほどある。
駆け足で森に向かう途中、焼き菓子屋さんの前を通った。玄関先では看板犬のピートがお座りをしていた。思わず駆け寄って頭を撫でる。ピートは森でのことなど何も知らないというように、いつも通り尻尾を振って僕にのしかかってきた。
「昨日、突然帰ってきたのよ」
玄関前を掃除していたおばさんが僕に声をかける。
「どこに行ってたのかは教えてくれないんだけどね」
おばさんは冗談めかして笑って、ピートの頭を撫でる。
「……覚えてる?」
「?」
僕は小声で尋ねてみたけれど、ピートは首を傾げるだけだった。
それから、森に行ってあの泉を探した。もう大人に怒られるかもしれないと怖がる気持ちはどこにもなかった。ただあの人にもう一度会いたくて木々をかき分けた。
昨日と同じように奥へ奥へと進んで、泉のあったはずの場所へ。予想はしていたけれどそこには何もなくて、名前を呼んで探そうにも、僕は名前を知らなかった。
「おーい」「どこにいるの」「ねえ、会いにきたよ」「忘れてないよ」
呼びかけに返事はなく、僕はいつの間にか森を抜けていた。そこは村の外れの花畑だった。一面に黄色の花が広がっている。森の湿った空気が晴れ、爽やかな風に香りを乗せて花びらが舞う。
そこには、寝巻き姿の女の子たちが輪になって眠っていた。赤や茶色の髪の毛が、太陽の下でキラキラと輝いていた。日差しに照らされて眠る夕の子たちだ。
朝の子も夕の子も、好きなところで眠る。太陽が入れ替わるまで目覚めることはない。
僕は今まで、こうして家のカーテンの薄暗がりも存在しない、眩しい外で眠る子たちのことが理解できなかった。何度か誘われたし、親から勧められもしたけど、頑なに家を出なかった。
明るい中で眠るのが嫌だった。みんな僕のことを変わっていると言った。
ああ、ようやく気がついた。
僕はあの静かな暗闇で眠りたかったのだ。
あの人の腕に抱かれて、真っ暗で冷たい、静かな空間で
時が止まったような静謐の中で
"夜の帳"の中で眠りたい。
「またあの中に入れてよ……」
僕はぽつりと呟いた。
返事はない。
花弁を孕んだぬるい風が、僕の肌をただ撫でていくだけだった。
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