第9話 森⑤
オオカミは僕が撫でているうちに、うとうとと眠りかけている。本当にまだ子供らしい。こうして間近で見てみると、さっきあれほど大きく感じた体も、僕と同じくらいしかないように思えた。
「このオオカミに名前をつけてあげないの?」
「こいつは俺のオオカミじゃない。誰からも名をもらわず、命じられもしない、森で気高く生きる命だ」
「でも、あなたのドレスから出てきたよ」
「今はこの中にしか夜がないから仕方がないんだ。夜に生きる者は皆、ここで匿っている」
「……どういうこと?」
「あー、そうだなぁ」
彼女は首を傾げる。何を話そうか迷うように声を漏らし、そして少しだけ寂しい色を浮かべ、それをかき消すように意地悪く笑った。
「説明が面倒だから、話さない」
「ええ〜〜」
「どうせお前は忘れるんだ。俺が今話してやったところで意味がないだろう」
彼女はクツクツと笑いながら僕の額をはじいた。彼女の細い指は手袋越しにもひんやりとしていて、はじかれた額がドキドキと音を立てるようだった。
「僕は忘れないよ」
「忘れるさ。そういう契約だ」
「ケイヤク?」
「質問攻めをやめろ。答えてやりたくなるだろ」
「答えてよー!」
「嫌だ。お前もう帰れ」
「話してもらえるまで帰らない!」
なおも押し問答を続けていると、呆れたように彼女は嘆息する。その仕草は母さんのそれととてもよく似ていた。
「仕方ない。じゃあ俺の仕事の話をしてやる。もうずっと昔に止めてしまって、今はもう誰もやっていない仕事だ」
「お仕事?」
「ああ。この世界に夜の
「よるのとばり……」
「初めて聞くだろう?」
「ううん、知ってる。歌があるんだ」
彼女は驚いた顔をした。
僕はよるのとばりの歌を歌った。女の子たちが縄跳びをするときに良く口ずさんでいる。たまに母さんも歌ってくれる。
歌を聞くと、彼女は嬉しそうに眉を上げた。
「へえ、子守唄だ。……それを、夜の帳を見たこともない子供が歌っているのか」
「うん。でも誰も意味を知らないんだ。よるのとばりって何?」
「……これだ」
彼女は静かに手を伸ばす。そして自身のスカートを一枚つまむと、上に翻して僕たちを覆い隠した。真っ黒の布に、僕も、彼女も、オオカミも包まれてしまった。
「え、……うわぁ!何ー!」
「大丈夫。ゆっくり瞬きをしてみろ。すぐに慣れる」
笑いを含んだ彼女の声は、先ほどよりもゆったりと静かに、頭の中に直接響いてくるようだった。
ただの布に包まれただけなら、外の光がうっすらと入ってくる。どれだけ分厚い布であっても、絶対に真っ暗にはならない。
けれど彼女のスカートは違った。
太陽の光が一切ない、完全な闇。僕は彼女の首元にしがみついた。僕を抱く腕は、少しも変わらずにそこにあって、少しずつ心が落ち着いてくる。
言われた通りにゆっくりと瞬きをすると、真っ暗だと思っていたそこにいくつもの光が見えてきた。無数の小さな点々が上にある。太陽の光と違って、熱くなく、激しくもない、ただただ静謐な光たちが、じっと僕らを見下ろしていた。
「これが、夜。かつて俺が司り、今はこの世界から奪われたもの」
静かで綺麗な声が聞こえる。
ふと彼女の方から光を感じて振り仰ぐと、彼女の瞳が金色に変わっていた。まん丸い金の光が、僕を愛しそうに見つめている。
そして白い唇を開き、彼女は歌い出す。夜の帳の歌だ。
母さんよりも優しく、鳥よりも澄んだ声で、その歌が広大な"夜”へと広がっていく。まぶたがどんどん重たくなる。
眠りに落ちる直前に、彼女の悲しげな声が聞こえた気がした。
「おやすみ、ルキ。太陽の光に焼かれ、月の癒しを知らぬ、哀れな子」
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