第6話 森②
尻餅をついた僕の顔のすぐ近くで、グルルルル、と地の底を這うような低い声がする。何かの破裂かと思うような大きな鳴き声が目の前で聞こえる。眼前には涎をまとった太い牙の並ぶ口が大きく開かれていた。
泉の中の犬が、外に飛び出してきたのだ。
気づいた時には完全に押し倒されていた。ピートがその犬に体当たりをしているのが見える。でも体格差がありすぎて、逆に弾き飛ばされている。ピートは大きい犬のはずなのに、この白い犬はそれ以上に大きかった。
首を目掛けて噛みつこうとする犬の勢いに、僕は何も反応できなかった。
息を吸うことも忘れ、叫び声を上げた口のままぎゅっと目を閉じる。
パン、と手を叩く音がした。
すると、目の前で熱い息を吐いていた犬の気配が急に遠ざかった。
「コラ。勝手に出るんじゃない」
続いて聞こえたのは女の人の声。軽やかで、落ち着いていて、どこまでも響くような透き通った声だ。水面に広がる波紋と、旅芸人が聞かせてくれた木琴の音色に似ている。
僕は恐る恐る目を開けた。
「お前、どうしていきなり外に出たんだ? 許可は出していないぞ」
「キュウウン……」
大きな白い犬の鼻先に指をかざして言い聞かせているのは、真っ黒で豪奢なドレスをまとった女性だった。いきなり現れた彼女の姿はあまりに場違いで、夢の中のような光景だった。
白い犬は彼女に叱られ、尻尾を丸めている。その頭を撫でる手袋も、墨を落としたような黒だった。ドレスから出ている肩と胸元は、服の色とは対照的に抜けるような白で、森の緑色に囲まれたモノクロは一枚の絵画のようだった。ドレスの長いスカートは、大振りのフリルが幾重にも重なって、彼女の周囲に丸く広がっている。黒い泉の全てが彼女のスカートだったのだと、僕は今初めて気がついた。
ぽかんと口を開けた僕は、泉から上半身だけを出したその人に向かって、呆気にとられた声をこぼした。
「泉の女神様ですか?」
「はぁ?」
女性はその上をいく素っ頓狂な声をあげて、僕を見た。瞬いた大きな瞳は白銀色に輝いている。髪と同じ漆黒のまつ毛に縁取られた、見たこともないその色の瞳は、見るもの全てを吸い込んでしまうような怪しい魅力に満ちていた。
「女神ねえ……昔はそう呼ばれたこともあったが」
「……! やっぱり!」
そう答えて苦笑したその人の顔は、今まで見たどの女の人よりも美しかった。泉から美しい女神が出てきて、人間の誠実さを試す御伽噺を聞いたことがある。泉の色は違うけれど、同じように登場する綺麗な女の人は女神以外に考えられなかった。
しかし、その黒い女神様は首を振って否定した。肩から泉にまで流れる艶やかな黒の髪が、首の動きに合わせてとろりと胸元に落ちる。
「女神なんて高尚なもんじゃない。俺はヨルの管理者だ」
「……へ?」
不思議な髪の艶めきに気を取られていた僕の口からは、随分と間抜けな声が出た。
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